明鏡   

鏡のごとく

久津媛・比佐津媛・ひむかひめ・卑弥呼・神功皇后

2022-08-28 01:04:51 | 詩小説
久津媛・比佐津媛・ひむかひめ・卑弥呼・神功皇后が、同一人物ではないかということを考察しながら、物語っている「悲恋の女王 久津媛」福本英城著を拝読。

その後、暑い最中、日田に住みながら日田の歴史を紐解くことがなかったと思い至り、時間を作り、会所山(よそやま)にある久津媛神社まで登った。

鳥居の前に、社のような、茅葺か板葺かの屋根の江戸時代くらいに作られた石灯籠のようなものがあった。

よく見ると、ところどころ、古い石が積まれている。石垣と、石垣が崩れた跡と。

船型の水桶が、久津媛を祀っていると思われる小さな社を目指しているように置かれていた。


前書きによると。〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ひさつひめとは日田のひめという意味であるが、日田はかつては日向(ひむか)と呼ばれていたらしい。日向という字は、日高、そして日田と転化した。だからひさつひめはかつてはひむかひめと呼ばれていたに違いない。久津媛とは卑弥呼のことだという論拠の一つである。

ところが、卑弥呼と景行天皇とが同時代であろうはずがない。
卑弥呼神が「人と化為(な)って」というのは、卑弥呼神が「景行天皇の時代に、ある人物に乗り移って現れた」と解くべきだろう。

「景行天皇の時代」というのも、史実としては明らかではない。

ところで、日田の会所山(よそやま)に伝わる伝承には、神功皇后についての説話がほとんどで、あたかも久津媛とは神功皇后であるかのようだ。しかも、山中には、「皇后天皇の手洗いの泉」とか「皇后の腰掛椅子」などと呼ばれる遺跡が現存する。

神宮天皇といえば、日本古代史に燦たる女帝として、まさに卑弥呼神が「人と化為(な)って現れる」にふさわしい人物である。

しかし、この神功皇后についても、史実としては明らかではない。

特に、常識では、景行天皇と神功皇后との間には、二代にわたる時代差があることから、二人の取り合わせに異議を唱える人は多かろう。

ところが、拙著「記紀が伝える邪馬台国」で詳しく述べたが、景行天皇とその孫とされる神功皇后の夫、仲哀天皇とは実際には実の兄弟であったらしい形跡が見える。

そして、何よりも筆者が日本古代史の秘密を解く極め手となったのは、仁賢紀にある
「母(おも)にも兄(せ)、吾(あが)にも兄(せ)、吾が夫はや」
という絶妙なキーワードがある。
(「記紀が伝える邪馬台国」参照のこと)


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筑紫の『天津日継(あまつひつぎ)』の神事を務めていた当時の皇后は、会所山の社に篭って、神に仕えてさえいればよかったが、仁賢天皇が皇后に『天津日継(あまつひつぎ)』の鏡を含めた神宝を携えて都に来るようにと促したと思われる。

日女大神すなわち天照大神が「この鏡は、もはらわが御魂として、わが前を拝(いつ)くがごと拝きまつれ」と後代に伝えた鏡が、金銀玉をちりばめて竜が絡み合った模様を掘り出した鏡で、『天津日継(あまつひつぎ)』の鏡といわれ、この鏡が皇后と日田にある限り、『天津日継(あまつひつぎ)』の神事は、日田で行われていた。筑紫の天皇のために。
日田まで、出向いて『天津日継(あまつひつぎ)』の神事をすることがはばかられるようになったのは、筑紫から中央へとその当時の中央が動いたことが影響していると思われる。
日田の会所山(よそやま)は、もぬけの殻のように、ひっそりとし、誰もこない草深い小山は、その影を帯びているように見えた。

筑紫に渡来した民族の走りの物部氏は、その当時、筑紫のあちこちに勢力を築いていた。
「日の河」と呼ばれる筑紫大川の流域に広がる日向地方には、古来日の神信仰が普及しており、日の神を奉る霊山があり、その聖域は「いわくま」あるいは「いわい」と呼ばれる列石で囲まれていた。「奥津(おきつ)余曽」と言われる日田の会所山、「中津余曽」の朝倉の杷木山、「辺津余曽」と言われる高良山の神域にいれば「日の神」の加護が受けられ、同じ日の神を信奉する渡来系の物部に対する圧力ともなると思われたが。

こちらも渡来したと思われる日田のたしまの日鷹の娘が神宝が「奥津(おきつ)余曽」と言われる会所山(よそやま)を発とした時に、隠したものが、日田に残っており、その神事を本当の意味で受けるために筑紫の血を引く譽津別(ほむちわけ)皇子はわざわざ日田までやってきた。
一年中で一番太陽の力が弱くなる時、新しい帝が立つ時、この日の朝に、『天津日継(あまつひつぎ)』を受けるのが筑紫の天皇の習わしという。

丸太作りに茅葺の屋根。筵の壁。のような伊勢神宮にも反映されていると思われる当時の神殿で神事を行ったであろうが、二棟のうち一棟にある神殿の「真床おぶすま」で皇子は媛(皇后)を待ち、石座の「天の八道股」に一筋の光が差した瞬間に媛は羽織っていた襲(おすい)の前を光を見に受けるようにはだけ、その足で、神殿の皇子の待つ「真床おぶすま」に入るという。

この神事は、五穀豊穣を願いつつ、日の神の力をもっとも太陽の力が弱まった日の、次の朝に生まれ変わる太陽の再生を体現するかのようであるが。

ここにきて、ものがたりの中であれ、この国の、見えなかったものが、日のもとにさらされていくようで、今の状況も、当時とさほど変わらないことを何とはなしに思う。

そもそもそこにいたであろう、縄文を生きてきた人々はどうなっていたのかが、何より、知りたいことではある。




天草島原の物語

2022-08-18 08:20:15 | 詩小説
昨日、柳川文芸誌「ほりわり」の会議があり、ほりわり三十六号の合評会があった。

天草本「いそっぽの物語」の絵本を書いておられる、かとうむつこさんのお話をお聞きした。「ほりわり」の表紙絵を描かれていることもあり、とても暖かい天国をモチーフにしたような柔和な絵面。おじゃる言葉のイソップ物語、百話の「いそっぽの物語」の朗読版をいただいて、帰りの車の中で、はるみさんと聞いていた。
やはり、お声も優しく、賛美歌のような、どこか聖書を読み聞かされているような、心持ちがしていた。
いそっぽの物語の後に、格言のように、「下心」というものが入っていて、それは、当時のいそっぽものがたりを編集したかとうさんの旦那様の家系の伊丹一族の女性が、書き加えたものということで、天下を切るような、あからさまな批判もあり、物語の物語たる姿が浮かび上がってきて、物語らずにはおれないものの叫びのようで、滅ぼされたもの、食われたものの悲しみのようなものが、物語る際には、動物に姿を変えてはいるものの、残響のように今に伝わっているようでもあった。

この本を現代でも読んだり聞いたりできるように、編集され自作自演で臨まれた、優しげなかとうさんの声に、ご先祖様が乗り移ったように、流暢なおじゃる言葉が車内に響いていた。さしすせそ、は、しゃしぃしゅしぇしょ、で表現されていて、博多ん言葉も、当時の面影が残っとるということで、当時の言葉の響きを楽しむだけでなく、今も生きている言葉の再生力というか、持続力、変化しながらも意味を変えたりしながらも、残っていくものの底力のようなものを思った。

偶然、前日まで、長崎で、キリシタンの拠点である外海の出津(しつ)集落の、結婚前の若い女性が働いていたそうめん工場やマカロニ工場跡、寝泊まりしていたところの祈りの場なども拝見していたので、全体像とまではいかなくとも、貧者と裕福なものへの関わり方のようなものがぼんやりと見えてきた気がした。
貧しい生活を強いられたものたちにはそうめん作りの機械やマカロニ製造を教えて、西洋の食生活を浸透させていったり、祈ることで救われるというような思想を植え込んで行ったとも言えるかもしれないと。
また、キリシタンの精神性を浸透させようとしていた宣教師たちが日本語を習う手立てとしての、いそっぽものがたりでもあったというが、文字を堪能することができて比較的生活に余裕があったであろう、当時の公家や武家のものには、ものがたりを持ってきて、当時貴重で画期的なグーテンベルグの印刷機で3,000冊も刷って、公家や大名などにも配られたそうである。ヨーロッパでは、三百冊ほどしか印刷できなかったというので、日本人の器用さが際立っていたとおっしゃっていた。北斎などの版画にも通じるものがあり、日本人には、印刷的なるものは、それほど、馴染みがないわけではないものだったとも言えそうであるが。

マリア像やヨセフ像、貧者の父ヴィンセンシオアポロ像が立ち並ぶ寝泊まりし祈りの場でもあったところに、やはり、当時珍しく、高価であったオルガンがあり、音が鳴らなかったのをなおして、弾けるようになったということで、案内役のシスターが慈しみ深い曲を弾いてくださった。当時もこの音を聞いていたのだろうと思うと時が重なったような、時間を超えているような、心持ちなった。
ここは、余計なものがない。と思った。祈りはあったにしろ。最低限度の生活の場。と言って仕舞えば、そうなのかもしれないが。
お茶室に感じるものが、そこにはあった。
余計なものがない。という一点に置いて。

遠藤周作の母を巡る旅のようなものも外海で拝見した。
キリスト者でいながら、母から訳も分からず洗礼されていた遠藤の、キリスト教との距離感を知り、彼がユングをよんでいたと知り、ユングは、道教など東洋思想にも共感していたので、キリスト教的なる西洋の一神教的宗教と無為自然的な東洋の森羅万象的宗教感の間を行き来するには、いい道先案内だったので、彼も、どどくらい道にあっても、どこか、自分の見てきた道を、キリシタンの小西などに投影しながら物語る術を身につけていき、そこで、物語とともに、自分を昇華していったのだろうと思うと、今の自分もまた、そこを通りながら、自分の見てきた道を物語ることで、今のコロナの騒ぎ立てすぎる時代の悪露のようなことどもを超えていけるような気がしていた。

旅行者がPCR検査を受けたら半額になるというホテル代のことを聞き、里に帰るついでや、旅に出るものがこぞって、検査をして、この頃、やたらと感染者数がうなぎ登りに大きくなっている意味がわかった気がして、気持ちが悪いと思っていたのもあるが、税金であろうとすればするほどお金は生まれるというのに、PCR検査を受けさせたいがための取り決めなどいらない。皆に税金をかけず、幸福を行き渡らせるならいざ知らず。
 目先のことだけに踊らされたくないものは、ただ淡々と、余計なものがなくとも、居心地の良いものを、作っていくだけであると思わずにおれなかった。

茅葺のその先

2022-07-30 03:31:12 | 詩小説
高取焼宗家のお屋根の差し補修の仕上げが終わるか終わらないかの時、安倍晋三氏が亡くなった。

白昼、参議院選挙の応援に駆けつけていた時に銃で打たれて。

屋根にのぼって、休憩が終わって茅を差そうとしている時に、ニュースでそれを知った上村氏が教えてくれた。

まさかと思ったが、心臓を射抜かれたという。

近距離から打たれたという人がほとんどであったが、まるで、ケネディが亡くなった時のような、違う角度から打たれていたという人もいて、情報が錯綜していてなんとも言えなかったのだが、いずれにせよ、心肺停止の状態で、もはや、死と添い寝している状態であるようであった。
無防備であることが普通と思われていた、この国で、安倍のマスクを作って配りまくった挙句、デスマスクをつけられ、亡きものになったようで、見えない口封じのげきじょうがこみ上げてくるようであった。あまりに、あっけない終わり方。
人の死というものは、目の前で見せられても、嘘のようで、命の尊厳など感じる暇もない、愛と平和を歌うのも、なんだか違和感があり、微妙で、嘘のような世の中に見えた。

次元が違うんだよね。

ある人が言った。

2.5次元に生きるように、仕向けられているんだよ。
僕たちはね、押し込められるのだよ。檻の中に。
ワクチンというもので、人体実験されているのだよ。
そこから出られるものは、野生しかないのだよ。
茶番だって。
コロナ禍と叫び続けられている時期の、党首を選ぶ時に、茶番だって、知っているものが、ニヤニヤしながらまあまずはお茶でも飲んで。と茶化しているのを見て、僕はそう思ったよ。郵政民営化で、外国に日本の財産を売り渡したり、プラザ合意で日本を売った子孫は、なぜかテレビでも引っ張りだこだろう。
それがテレビの中の世界ってやつだ。
誰もが、その行為を茶化しているとは思わなかったかもしれないけれどね。テレビで、毎日、茶化されていると、その嘘が、本当のようにまかり通ってしまうのを、何度も何度も見せつけられていると、洗脳されていく過程を見ているようで、気色が悪いものだよ。

先日も、どっかの首相がコロナ禍なのにパーティして辞めさせられたでしょ。
アホくさいと行動で示している人は、辞めさせられるか、死ぬのだよ。
辞めさせられるか、死ぬか、逃げるかなのだよ。

確かに、そうかもしれない。

食糧不足、燃料不足で騒いで、物価をあげるだけあげて、毎日のように、不安を煽ることしかしないなら、皆、身動きが取れなくなっていくのは、致し方ない。

自分の世界を知るなら、目の前のことをまず知る事で、世界の一部を知る事に繋がるとするならば、そこも我らの「世界」であるという事。

繋がってはいるけれど、遠いか近いかだけ、大げさなだけなのだと。

そんな事を、弁当を食べ終わって、暑さに頭も体もやられながら、漠然と考えていた。

かなり痛みが激しく、本当は、葺き替えをする時期ではあるけれども、長い茅を用いる事で、なんとか、美しい葺いたばかりの時のように、再生することが、目の前の自分のやりたいことで、少なくとも、嘘のない心から這い出してきた行為であるということ。

壊れかけたものを、朽ち果てる手前の、ものを新たに生きなおすための、再生の過程を辿ることで、我々は生きながらえてきたのだと。

日本という国もまたそうであったのだと。
戦後は再生の過程であったが、前と全く同じ形ではなく、そこにあったものが、そこに根付いたものが、同じようなものを作り上げてきた過程でもあるのだと。

高取焼宗家の八山さんや春慶さん、七絵さんは、そこにある土や水や腐りかけの茅の灰を使って作った釉薬で、根付いたもの、根付いた技術を使って、器として何度も何度も同じようで完全には同じではないものを、再生されているように見えた。

半島からやってきて十三代の間に、根付いた技と人が、そこで息づいているのだ。
食を支える器として。黒田藩に茶器を納めていたという歴史も含めて。そこにいる理由はあるのだが、それを繋げてきた人がいて、生きている時が重なって、今があるということ。人がいる限り、その先もあるということ。千年先まで、もっと先まで。



千年の器 

高取焼宗家のお屋根から出た古茅
田んぼで焼いて灰にして
何度も漉して釉薬に
灰になっても古茅は
器を包む釉薬となり
千年先まで残るかもしれない器になるのだと
十三代目の八山さん
古茅の釉薬青藤色となり
初代の色にたち帰るような色味に焼き上がり

茅葺は千年万年持たないが
新しい茅の葺きかえ差しかえで新陳代謝を繰り返し
千年万年生きながらえて
式年遷宮するように二十年後に葺きかえて
いきふきかえす屋根の形(なり)
そこに心御柱(しんのみはしら)打ち立てる
見えない御柱打ち立てる
できたと思えばその次の屋根の葺かえはじめている
同じよで変わり続ける生き物の器



詩を書きながら。
伊勢神宮を葺いたことがある先輩が、亡くなったのを思い出していた。
その先輩は、伊勢神宮で、白装束を身につけていたというが、いつも白い地下足袋を履いていた。

白装束は、あの世とこの世を渡るための正装とも言えるだろうが。
先輩はとても仕事が早く、この世でやる仕事も通り越して、生き急いだのかもしれない。などと思いながら。
突然、亡くなったのを、止めることができなかった周りのものは、ずっと、そのことが心の奥底に残り続けていた。皆、悩んでいた。どうしたら、うまく葺くことができるのかの前に、人として。
職人である前に、一人の人として、腹を割って話すことができたら、まだ、良かったのかもしれないが。

先輩が亡くなってから、狂ったように、心を込めて葺くことで、己の中で、亡くしてしまったものを、なんとか、取り戻そうとしていたように思う。

逃げることもせず、ただ、ただ、葺くことで、その亡くしたものを、再生しようとしていたのかもしれない。

高取焼宗家のお屋根の補修の最中に、日本茅葺文化協会のフォーラムが、浮羽であった。その流れで、比較的近場の杉皮葺の古民家である我々の作業場でもある明楽園の屋根の補修のワークショップをすることになり、上村氏が講師となり、茅葺仲間が加勢に来てくれた。
亡くなった先輩のことを知っている茅葺仲間は、私が、先輩が亡くなって感情が不安定な時期を知っていたので、突然、思い出したように、涙が止まらない時も、何で泣いているのかわからずに、ただ、はたから見てもどうしようもなかったと思う中、上村氏は、心の支えになってくれていた。
少なくとも、どうして、泣いているのか。を知っている人であったから。
どうして先輩が亡くなったのか、お互い思い悩み続けていたから、毎日のように、どうしてか話しながらいてくれた身近な存在があったから、なんとか、これまで、生きてこれたのだと思う。
お互い、どうしていいかわからずに、それでも葺き続けていた。
亡くなった先輩もまた茅葺をやっていく上で、どうしていけばいいのかと、これからのことで悩んでいたのだと気づきつつ。その先にあるものを、知ることができるならば、希望のようなものが見えてくるかもしれないと思いながら。

東京に、杉皮葺の屋根があることを、以前、京茅の長野さんにお聞きしていて、いつか行ってみたいと思っていたのだが、美山の中野さんが、駒さんと一緒に東京のお寺の屋根を葺いてみないかと、上村氏を誘ってくださったのについていき、東京のあきる野まで杉皮葺をしに伺った時、亡くなった先輩が白い地下足袋を履いていたということを駒さんと話したことがあったのだが、そのお寺の屋根をきっちり仕上げて、フォーラムに来てくださった駒さんが、白い地下足袋を履いているのが、なんだか嬉しかった。
亡くなった先輩のこともしっかりと思いながら、杉皮葺を残したいと思う同志としてここまできてくださったのだと、勝手に、心の中で、思っていた。

あの杉皮葺の体験から、少なくとも一人ではない。と思えるようになっていた。近くに茅葺職人の仕事も一緒にしだした息子の道成もいて、その場の空気を吸ってくれていたのも、自分にとっては、大きな希望となっていた。
こうして、杉皮葺を知りたいと思う方々がいらして、同じ仲間として、一緒に朽ち果てようとしているものを、今ある技術と人と杉皮や下地の茅を葺いていくことで、お互い、いろいろな事情も何もかも、ひっくるめて、「葺く」という行為で繋がれたのだという、喜びを感じることができ、希望のようなものを皆で共有できた瞬間であったと。

これが、見てみたかった、知りたかったことなのだと。
亡くしたものをも、見えるもの、見えないもの、と一緒に葺いていくのだと。























コロナ

2022-06-14 13:05:27 | 詩小説
  コロナを書くこと。

 それが、桜木さんの最後の言葉のように今も残響のように私の中にあり続けている。
 もともと病気持ちだったことを知らなかったのもあったが、コロナに感染し、入院している間に、会うこともなく亡くなった。入院する前に、文芸雑誌「ほりわり」の会議でお会いしたのが最後となった。
 やけに顔色が悪いと思った。いつもは、きちんとした清潔な格好をされているが、この日はなぜか、つっかけを履いて、急いで何かをしにやってきたような普段着の桜木さんのように思えたのだ。我々に伝えたかったことは、コロナを書くことだったのかもしれなかった。私は、あの時、いつものように色々お話ししていた桜木さんの、その言葉しか、覚えていなかったので、遺言のように私から、ずっと今まで離れることはなかった。事あるごとに、私は、コロナについて調べ続けていた。どこか腑に落ちない事が、あまりに多くて、テレビやネット上の声があまりにも大きすぎた。
 そのような時こそ、何かが起こっていると考える習性があるのは、子供の頃、警察官である父親が外務省に出向し、中東のイランで生活をするようになってからだった。テレビで流される情報のあまりにも杜撰な切り取り方に違和感を持ち続けていたのもあった。イラン人の日常など、何も見ようともしないのに、デモの過激な、特別な風景だけを切り取って、毎日のように反対勢力と思われるものの象徴、反発している国の政治家の顔写真や人形、国旗を焼き討ちにする映像だけが流されることを、訝しく思っていたのである。
 コロナについても、「新型」と言う「冠」を被せて、プリンセス・ダイヤモンド号という船で感染をした人たちを、大々的に船着場で船上病棟のように、病気と共にその宿主となる人間を隔離する場面を、何度も何度も見せつけてくることへの違和感、あまりにもクローズアップしすぎることへの違和感があった。
 どこかで、似たようなシュミレーションをしていたのを思い出していた。船の中で、病気が発生して、それを食い止めるために、どのように、動けばいいのか、あるいは、それを利用して、どのように人々に感染の恐怖を植え付けるのか、とまではいかなくとも、どれだけ影響を与えるかの、実験をしていた事例、あるいは、映像。
 心理学の勉強をしていたことで、自分の書くことを通して、内面、表面を形作っているものを、なんだかわからないものを表現していくことで、自分の中で腑に落ちるものを見つける手段を見つけたのかもしれない。戦争を体験したことを言葉にすることで、その事実を事実として見極めることが、言葉にしない時よりも、確実にできるようになったのも確かである。事実と思えるものを、知り得る限りのことを知った上で、それらを検証して、事実を事実として突き詰めていくことが、自分の中の真実への入り口であると。善悪を超えたところで、腑に落ちるところまで突き詰めてやっと、そのものを知りえたと、その時点の自分が知りえたと言えるのではなかろうかと。
 人への波及効果についての研究だったか。なんでも検証を行い、その効果をじっと見ている者がいるということ。傍観者である我々にとって、彼ら彼女らを、また観察することで、その煽りを妨げ、それを沈め、消えさらせるための、防波堤に成ることは、我々が今ここにいる、この時代にいる理由なのかもしれない。
 事実は、特に真実のようなものは、善悪を超えたところにある。
 人が亡くなったということで、ネット上の誹謗中傷が取り締まれるようにするという。
 名前を晒すことなく非難中傷することに対しての罰則ならばまだ分かる。
 事実を事実として伝えることができないようになるのが、一番、懸念される。
 非難中傷する者がいると、反対意見のものをいとも簡単に、駆逐できる、ロジックは必要ない。
 表現の自由は必要である。事実を伝える上で。内面の真実を伝える上で。誰でも自由に表現できることは、最低限度の自由なのである。
 その自由を奪おうとするものへ、細心の注意を向けた方が良い。
 それを波及する役割を担うもの、電波の世界に、事実の石を投げ込み、その波及の底に沈んでいく石が荒波のそこに着く頃には静かで穏やかな水面になっているように。

 国立感染症研究所の報告書によると、2020年1月20日に横浜港を出港したクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客で、1月25日に香港で下船した80代男性が新型コロナウィルス感染症(COVID-19)に罹患していたことが2月1日確認された。

 香港政府のプレスリリースによると、男性は新界の葵涌エステートの葵涌ハウスに住んでおり、過去の健康状態は良好であったという。彼は1月19日から咳を呈し、1月30日から発熱し始めた。彼は1月30日にカリタス医療センターの事故救急科で治療を受け、隔離と管理のために入院した。彼はさらなる管理のためにマーガレット王女病院に移送されていた。彼は安定した状態にある。症例は「EnhancedLaboratorySurveillance」スキームによって検出された。患者の呼吸器サンプルは、新規コロナウイルスに対して陽性であるとされた。彼は1月10日にローウー国境管理ポイントを通って本土に数時間行った。彼は1月17日に香港から日本の東京に飛行機で行き、1月20日に横浜でクルーズに乗った。クルーズは1月25日に香港のカイタッククルーズターミナルに到着した。調査の結果、彼は医療施設、生鮮市場、魚市場を訪れておらず、潜伏期間中に野生動物にさらされていなかったことが明らかになった。彼は妻と一緒に暮らし、2人の娘と一緒に日本に旅行した。調査は進行中。
とある。

 第一号とも言える80歳の香港に住む男性の行動範囲のおおよそは把握されているが、その原因は未だ、わかっていないということ。少なくとも、動植物、生物から影響を受けたとは言えないということ。

 男性は、1月19日咳発症し、1月30日から発熱しだしたとのことであった。2月2日に香港から同報告を受けた厚生労働省は、2月1日に那覇港寄港時に検疫を受けたダイヤモンド・プリンセス号で船員、乗客に対し、2月3日に再度横浜港で検疫を実施した。同日夜から検疫官が船内に入り、全船員乗客のその時点での健康状態を確認しつつ、出港時から2月3日まで発熱または呼吸器症状を呈していた人及びその同室者に対し、口腔咽頭スワブ検体を採取した。次の日、31人中10人でSARS-CoV-2RNA)が検出された。

蛍の庭

2022-06-11 10:24:14 | 詩小説
 蛍が庭を漂っていた。
ちょうど、蓮を手に入れてきて浮かべていた池の近くから、茅葺と杉皮葺の神様をおまつりしたところに飛んで行った。
二階の座敷から蛍が庭先を揺蕩うのを眺めていたかったので、薄暗い、階段を上って御簾をかけているあたりに腰を下ろした。
綺麗な水があるところに蛍はいるという。
給食センターから流される水もあるという小さな川は、それほど、汚れてはいないのだろう。
などと思いながら、水が止めどもなく流れる音を聞いていた。
黄色い光を緑の光が包み込むようにぽっかりと浮かんでいる魂のようなものが漂っていた。
今年の蛍は、去年の蛍ではない。
水が流れる音を聞きながら、そう思った。
二度と同じ蛍には会うことはないのである。
今の蛍は、今ここにしかいない。
生まれ変わりのようで、何かと何かが混じり合ったのちに生まれてくるものなのだ。と。
近くに住むおばあちゃんには、娘さんがいたという。
この前、初めて、お家の中に招き入れてくれた時、入院していた頃に娘さんが作った、パズルを見せてくれた。
娘さんは生きていたら、私と同じくらいの年だという。
私は、自分が、この庭を漂う蛍になったような、今の蛍になったような気がしていた。

三島由紀夫の最後に書いた小説にも、美しい庭が出てきたのを思い出していた。
永遠の庭のような、楽園のような庭。
三島は、戦争の最中、非/日常の中を漂う蛍のように、爆弾が降ってくるやもしれぬ日常を命がけで生きながら、いつも死がそこここを漂っている戦争の間を、白昼夢のように、過ごしていた。
どちらかというと恍惚として。

戦争はあってはならないものです。
飢餓で震えている暗黒大陸の子供達にワクチンを打つ、飢餓を救うためにお金を寄付しましょう。
と、言うこともなく。

己に正直であろうとしたかに見える三島は、唐突に己の命を、その白昼夢を覚醒させる生贄のように捧げてしまった。

以前、三島の最後に同行する意思があるかどうか試された楯の会のメンバーの方の話を聞いて、本にしないかと声をかけていただいたことがあった。
その時、三島と行かなかったものの声は聞くことができても、三島と行ってしまったものの声をもう聞くことはできないのだ。と思った。
行かないと決めたものもいれば、行ってしまったものもいる。ということ。

この世とあの世の境界線上を、蛍のようにいきつもどりつ、たゆたっているような気持ちになった。
戦争のただ中、ひ弱だったばかりに戦うことから逃げることになった三島の魂は、ずっと、最後を待っていたのかもしれなかった。
美しい庭を揺蕩うのを待ちに待った蛍のように。

父の仕事の関係で、子供の頃、中東のイランに行った時、イランとイラクで戦争が始まった。
私のように、戦争のただ中に行く気が無くとも、連れて行かれることもあるわけである。
灯火管制の中、爆撃機が蛍のように揺蕩うのではなく、音速でやってきて音速で帰っていくのを、暗闇で聞いていた。
時折、爆弾がヒューと落ちてくるのを感じながら。
三島の恍惚をどこかで感じていたと思う、正直に言えば。
命がなくなるかもしれないというのに、最後の命を、ぷかぷか鈍く光らせるように生きていたのだ。
その父も、入院していて、終末期医療をも終えようとしている。
飲み込めないものがあまりに多すぎて、点滴で生きながらえながら、喉がカラカラなのを潤すために水蒸気が出てくるノズルが口元におかれている父は、霞を食って生きているように見えるのだった。

蛙が蓮池になるはずの池で鳴いていた。
蛍は、向こうのおばあちゃんの桜の木の下でゆっくりと光と光を交わらせてた。
今年の蛍が一つになって、来年の蛍になるために。

父に蓮の花を見せてやりたいと思って、手に入れた蓮は、まだ咲こうともしないで、静かに葉を広げてぽっかり池に浮かんでいた。