明鏡   

鏡のごとく

「全身の水」

2018-07-21 19:50:53 | 詩小説

全身の水がすべてがいれかわるみたいやもん

剣道をしてきたせがれがいうた

じいちゃん達と朝練をし
後輩たちと昼練をし
試験勉強の準備をしなければといいながら
よるはかっぱのすしやでばいとしとるやん
せいふくのぼうしがみどりやけん
ちょっと
かっぱをとりこんどるんやろうけど

それにしても
かっぱまきっておいしいとかね
あんまりたべんけど
水分はあるかもしれんけど

山笠んときは
きゅうりをたべたらいかんていうけど
男衆に限った話やけん

どうでもいいかもしれんけど
かっぱまきはかっぱまきで
おいしいときもあるやろう
あついときはとくに
みずみずしかろうもん

さらがひからびないために 
汗と水分が出たり入ったりを繰り返す
体の中を通りぬける水は
いのちのしたたりのようなもので
ためるのではなく
いつも
じゅんかんしていくと
とどまるものではなく
ながれいきとどいていくとよ

豪雨のあと
まつりのあとにうまれ
かわったような
せがれの生活水

「自然的自然」

2018-07-21 19:49:36 | 日記
「自然的自然」

自然的自然と人間的自然は未分離であり、そこが日本浪曼派の限界である的なことをいうものがいた。

どこから分離するかは、また、困難を極めるが、一応の境界線として、「制度」的なものを上げていた。

人が決めている、例えば「法」だとか、「制度」だとかを指し示しているようであった。

ところで、ある程度、人の心の「感情」は推し量れるものであり、それぞれがそれぞれのすきなことをしているという上で、そのものがつくった「法」であり、「制度」であるとするならば、個人的なあまりに個人的な「人間的自然」の一つと言えなくもない。

ここで、必死で分離を試み、「感情」をコントロールするのが「法」であり、「制度」であると言うならば、法と制度は、ある一定の相対化、普遍化をなし得た、小さくもあり大きくもあり低いようでもありたかいようでもある、「自然の中の自然」といえなくもない。

日本浪曼派の限界は、人間の限界であり、自然の限界ではないというのならば、なんとなく、腑に落ちるのであるが、「未分離」だから問題と言われても、分離しても、しなくても戦争は起こりうるということを肝に銘じておくべきなのは、確かなことであるとしか言えない。

その眼差しは、人が自然を完全に分離できるという「傲慢」でしかないように思う。

傲慢の最たるものとして、強い国が「法」であり、「制度」になっていく「戦争」があるが、人と人、国と国とのぶつかりあいであり、強者が弱者を搾取するという点においては、血で血を洗う、ヒエラルキーを作る装置であるといえる。

強いものが取り決めて行く、曖昧な、自然の中のちから関係で湧き上がっていく、人間的自然でもあり、自然的自然とも言えるかもしれない。