明鏡   

鏡のごとく

炭焼き

2021-01-26 11:26:17 | 詩小説
炭焼きを拝見した。

日田で炭焼きをする方々がもういなくなる寸前のところで、有志の方々が、踏ん張っておられるので、以前、明楽園の床下に炭を敷き詰め湿気取りと空気清浄を兼ねて、たくさん譲っていただいたご恩もあり、御手伝いがてら伺ったのであった。

ちょうど、庄屋サロンの平野さんご夫妻が我が明楽園に遊びに来てくださったので、ご一緒してくださった。

釜の中まで入って、拝見させたいただいた。
2メートルから2メートル弱ほどに切った木の枝や幹の丸い跡があった。
木が天井を支えながら、焼けていったのだ。
屋根になる土のドーム型の天井を作りながら、炭焼きもするという、昔の方々の知恵に圧倒される。
煙突と後で空気穴になる穴を塞いで、火を入れたのは、90歳にもなる最後の炭焼き職人的な方であったが、それを引き継いでいこうとしている中島さんはじめ若い方々もおられるようで、人の意思があるところ、そのものは、永らえるという、我々と同じ思いをされている仲間に出会えたようで、お互い助け合いながら、燃え尽きても、その後が残るまあるい天井のようになることをぼんやりと思いつつ、ニコニコと杉の葉っぱに火を入れた後、乾いた竹を膝でバンバンおりながら、火にくべている、まだまだお元気な好々爺然とした仙人のようなおじいちゃんを見ていた。

横で、高齢であろうが、しゃんとされた方が、チェンソーで、次の炭焼きの準備をされていたので、我々も、力仕事をさせていただいた。

「かし」は、重く、硬直した人を引きずっているようで、ちょっと、生生しいのであったが、その水気の重さが火を入れると、蒸気を煙突から吹き出すほど、抜けてくるという。

二日ほど経ったら、青い煙がのろしのように上がり、蒸気が抜けきって、本当の炭になっていく徴であるという。

青い狼煙を拝見しに、それから、炭が出来上がるまで、できる限り、見守りたいと思う。

朝のヨガ

2021-01-26 10:54:28 | 詩小説
那珂川の茅葺屋根を葺かせていただいた游仙庵で、美奈子さんがヨガの講師をされているので、久しぶりに、お会いしがてら、朝からヨガをしに伺った。

家を出る時は、まだ真っ暗であったが、山を越えて、那珂川に着くと、辺りは明るくなっていた。

茅葺仲間と前からヨガをされていた方々と、ゆっくりと、体の隅々まで、美奈子さんに温かで優しい声をかけてもらいながら、緩やかに自分の体軀と対話をしながら、ほぐしほぐされていただいた。

呼吸と体の動きを感じながら、外にダダ漏れてしまっていた自意識が、静かに自分の中に戻っていくような、安らかな、時を超えた眠りの中に、たゆたうような。

それから、本当に、眠ってしまいながら、皆さん、その心地よさに身を委ねていた。

隣の万ちゃん親子さんも遊びに来て、お昼は、おっさんのようにホルモンを持参していたので囲炉裏でガンガン焼いていただいたが、以前、古茅をいただいた、藤森さんご夫婦も来られて、美味しいとれたてのお野菜を皆さんでいただいた。

ですとろいやーと言う赤いお芋、里芋は焼いて香ばしく、皮までサクサクとして、最高に美味しかったが、普段は、あまり食べないといっていた万ちゃんも、人参を生のままペロリといただいていた。

甘く、果物のように生でかじった人参は、最高のご馳走である。

それから、染物屋さんの「ふく」さんに皆さんで伺った。

茜色の茜の根っこを染色に使うとおっしゃっていた。
その茜の根っこを漆喰に塗り込んでも綺麗な色が出そうで、ベンガラ的な色になるのかお尋ねしたところ、また違った茜は茜そのものを入れ込んでのアクセントとしての色になるということであった。

今度、古民家の我が明楽園でも、使わせていただけたらと思った。

セイタカアワダチソウは、その姿のように多分ほのかな黄色、櫨もまた、黄色になると言うことだった。

ちょうど、その前に、石切り場跡地を開拓し、屋根材でいる木を保存しようと上村さんとチェンソーで木をぶった切っていたところ、櫨の木も紛れ込んでいて、その幹の芯が黄色だったので、きっと黄色になるのだろうとは思っていたが、木は、内に色を孕んでいるのだということに、はっとした。

それにしても、人は、煮詰めたら、何色に染まるのだろうか、きっと、赤に違いないなどとふくの染物家の方と話しながら、地獄の釜が開かない内に、彼女が染めた素敵な茜色の一歩手前の、夕焼ける前のほのかな淡い桜色の靴下を手に入れて、帰ったのだった。

英彦山

2021-01-26 10:20:10 | 詩小説
英彦山に登った。
雪の残った道をアイゼンを靴につけて、岩の上の雪をがっしがっしとふみふみしながら登っていった。
雪に吸い取られた熱と微塵のなくなったマイナス零度の空と気は、美味しい水と同じ香りがする。

雪の残る山に登る前の参道沿いでは、彫刻家の知足先生のご実家も拝見できた。
修験道の流れをくむ御宅が連なる参道。
朝から木を切る人々がいた。
枯れていく木の手入れをされているようだった。
静かな石段を登り登りしていると、鹿が来るのだろうか、柵が所々見受けられた。
山の奥にも鹿ぞなくなることもなく、夜な夜なやってくる鹿のクーというような甲高い鳴き声を聞くことができるのは、柵の中であれ、幸いであるのかもしれない。
などと思いながら、さらに、石段と言うよりも石ころ、岩のゴツゴツと転がったままの姿の、自由奔放な道を這い上がり出した。

梵字岩という看板を見つけ、梵字岩を拝見しに横道に逸れていった。
せり出した大きな岩に三つほど、径がひとひろほどの円の中に、梵字が刻まれていた。
どうやって、足場を作って、あそこに、梵字を刻むことができたのだろうか。と話しながら、どうしても、彫らずにはいられない思いがそこにあったのだけは確かなのだろうと思いながら、元の道に戻っていった。

さらに奥まっていくように雪道が増していくと、滑り出し、万が一、転んだとしても、さほど痛くはないようなガチと固まっていない雪肌となっていった。

一時間ほど登った先に、大きな山の裂け目のようなものが目の前に現れた。

そこが、今回拝見したかった、凍った滝であった。
とけ始めていたのか、氷の礫が、時々、氷柱の先からこぼれおちた冷たい汗のように、重力のままに、転げ落ちながら、雪肌に砕け散っていった。

雪崩のように、圧で押し殺されることはなく、鋭い透明な一撃の氷柱の欠片は、水の凶器にもなる。

ロシアでは、年間、千人が氷柱でなくなるらしい。

と上村さんがいった。

透明な氷柱が、体を貫くということ。
痛みも凍るような、血も凍るような死を思った。

転がってきた、一片の氷柱の透明なかけらをつかみ、一口、囓った。

滝の、流れるままの岩肌をカチ割った時に立ち上る香りと味の塊を、体に取り込んでいるようだった。

お腹壊すよ。

と、言われながら、お腹の丈夫な、インドに行っても、壊さなかった腹の図太さに感謝しながら、美味しく、冷たい氷飴玉のように頂いた。

それから、鬼杉に会いに行った。

奈良時代から、生きていたというそれは、38メートルほどのところで、お辞儀するように折れてしまったというが、それでも、高く高く、すっくと立っていた。

美味しいコーヒーを入れていただいて、美味しいお弁当もありがたくいただいた。

近くに落ちていた、鬼杉の葉や枝をありがたく手に取り、うちの古民家の杉皮葺の屋根の中に一緒に時を同じくして、ずっと一緒にいてくれるように、大切に持ち帰った。