先日、ゆふいん文化記録映画祭で中谷健太郎さんの記録映像と戦中戦後を生きていた一人の人の、すずさんの生活を通しての昭和史を記録したフィルムを拝見した。
すずさんの娘さんである小泉和子さんが残した、当時の戦後復興の中、金融公庫第一号的な時期に建てられた建築としても貴重であるモデルハウス的な日本家屋に、焼け出された一家が移り住み、そこから、また今まで生きてきた軌跡が、垣間見られた。
建物というものは、そこに住む人がいて、魂が入れられるということを、生活は身体中に経巡る血や酸素や熱のように巡り巡ってこそ、ともに生きていると言える。
建物も人がそこで生きているからこそ、生きながらえているような、少しでも、手が加わらなくなると、朽ち果てていくだけとなるという、建物にとって、人こそが魂であるような、そんな気がしながら、拝見していた。
すずさんが丁寧に作るおはぎを拝見しながら、母が作ってくれた、おはぎを思い出していた。あの家にも魂は確かに宿っていたのだと思える何か。
戦後、GHQが自分達が使うために日本の人たちに作らせた家具を作っていた小泉さんのお父様が監修した文化住宅的建物は、玄関入ってすぐに、仕事場のような西洋風な書斎がまず飛び込んできた。
それが、日本の家の戦後の形であり、その家に住むものの形までも少しづつ変えてきたのだと思うと、家から見た民族の生活の形のようなものを思わずにはおれなかった。
そこに住むものの生活の形、魂の形の、象徴的なものが建築であるということ。
西洋風なものが玄関から入ってすぐにあるという、顔のようなものになっていることの時代精神のようなものを、建築から読み取ることができるようで、興味深かった。
今、茅葺屋根を作るようになった自分の中で、昔の日本人の形というようなものが、なんとはなしにしっくりと行くのは、家の中にある土間が、おくどさんがあるお台所的な機能と、農作業を含めて、家や仕事でいるものを作る作業の場としての機能性もある、優れた、外と内を併せ持った空間をなくしてしまったことは、生活の様式をも変えてしまったことが惜しまれた。
縁側もそうである。ウッドデッキよりも、椅子としても、機能する、内と外を緩くつなげる装置であったこと。
日本人の内と外を自然に繋げる、自然とくっきりと分け隔てない生活を育む場として機能していたということ。
今、その場を取り戻しているようで、自然と緩く繋がれることに喜びを感じている。
健太郎さんの亀の井別荘の庄屋サロンさんも、その外と内との緩やかなつながりを大切にされているような、心地よい、文化的とも言える場で、そのお屋根を葺かせていただいたことに、ご縁を感じており、これからも、ここで生まれた文化を末長く見守ってくださる場として、残っていけるように、我々も心を尽くしていきたいと思った。
健太郎さんが、出演されていたテレビ番組を上映されていたフイルムもまた、湯布院の形を作っていった歴史を垣間見させていただいた。
文化的空間として、日本人の、世界中の人たちの心の、遺伝子に刻み込まれた田舎の原風景のような、息がつける場としての、湯処を作り上げていった核心に、健太郎さんたちがいらっしゃったこと。
ギラギラした若かりし時の健太郎さんたちの、大手企業や、自衛隊、アメリカ軍などの影もある「故郷」を、どう自分たちの思いが入った「故郷」に作り上げていこうともがいたか。
当時の熱の伝わる映像であった。
合間に、庄屋サロンの平野さんから紹介していただいた、作家の森まゆみさんとお話しする機会があった。
森さんから、島根の古民家再生や色々な古民家再生のお話しや、建築に関してのお話し、温泉についてもお話しをお聞きできた。
中でも、いたくら作りの建築「斎」の杉皮葺の屋根を葺かせていただいた際に、それを設計されたというご縁もあった安藤邦廣先生もご同行したというイギリスの建物探訪のお話しをお聞きできたのは、幸いであった。
ここでも、いいものを残していきたいという思いのようなものが繋がれる幸せを感じていた。
すずさんの娘さんである小泉和子さんが残した、当時の戦後復興の中、金融公庫第一号的な時期に建てられた建築としても貴重であるモデルハウス的な日本家屋に、焼け出された一家が移り住み、そこから、また今まで生きてきた軌跡が、垣間見られた。
建物というものは、そこに住む人がいて、魂が入れられるということを、生活は身体中に経巡る血や酸素や熱のように巡り巡ってこそ、ともに生きていると言える。
建物も人がそこで生きているからこそ、生きながらえているような、少しでも、手が加わらなくなると、朽ち果てていくだけとなるという、建物にとって、人こそが魂であるような、そんな気がしながら、拝見していた。
すずさんが丁寧に作るおはぎを拝見しながら、母が作ってくれた、おはぎを思い出していた。あの家にも魂は確かに宿っていたのだと思える何か。
戦後、GHQが自分達が使うために日本の人たちに作らせた家具を作っていた小泉さんのお父様が監修した文化住宅的建物は、玄関入ってすぐに、仕事場のような西洋風な書斎がまず飛び込んできた。
それが、日本の家の戦後の形であり、その家に住むものの形までも少しづつ変えてきたのだと思うと、家から見た民族の生活の形のようなものを思わずにはおれなかった。
そこに住むものの生活の形、魂の形の、象徴的なものが建築であるということ。
西洋風なものが玄関から入ってすぐにあるという、顔のようなものになっていることの時代精神のようなものを、建築から読み取ることができるようで、興味深かった。
今、茅葺屋根を作るようになった自分の中で、昔の日本人の形というようなものが、なんとはなしにしっくりと行くのは、家の中にある土間が、おくどさんがあるお台所的な機能と、農作業を含めて、家や仕事でいるものを作る作業の場としての機能性もある、優れた、外と内を併せ持った空間をなくしてしまったことは、生活の様式をも変えてしまったことが惜しまれた。
縁側もそうである。ウッドデッキよりも、椅子としても、機能する、内と外を緩くつなげる装置であったこと。
日本人の内と外を自然に繋げる、自然とくっきりと分け隔てない生活を育む場として機能していたということ。
今、その場を取り戻しているようで、自然と緩く繋がれることに喜びを感じている。
健太郎さんの亀の井別荘の庄屋サロンさんも、その外と内との緩やかなつながりを大切にされているような、心地よい、文化的とも言える場で、そのお屋根を葺かせていただいたことに、ご縁を感じており、これからも、ここで生まれた文化を末長く見守ってくださる場として、残っていけるように、我々も心を尽くしていきたいと思った。
健太郎さんが、出演されていたテレビ番組を上映されていたフイルムもまた、湯布院の形を作っていった歴史を垣間見させていただいた。
文化的空間として、日本人の、世界中の人たちの心の、遺伝子に刻み込まれた田舎の原風景のような、息がつける場としての、湯処を作り上げていった核心に、健太郎さんたちがいらっしゃったこと。
ギラギラした若かりし時の健太郎さんたちの、大手企業や、自衛隊、アメリカ軍などの影もある「故郷」を、どう自分たちの思いが入った「故郷」に作り上げていこうともがいたか。
当時の熱の伝わる映像であった。
合間に、庄屋サロンの平野さんから紹介していただいた、作家の森まゆみさんとお話しする機会があった。
森さんから、島根の古民家再生や色々な古民家再生のお話しや、建築に関してのお話し、温泉についてもお話しをお聞きできた。
中でも、いたくら作りの建築「斎」の杉皮葺の屋根を葺かせていただいた際に、それを設計されたというご縁もあった安藤邦廣先生もご同行したというイギリスの建物探訪のお話しをお聞きできたのは、幸いであった。
ここでも、いいものを残していきたいという思いのようなものが繋がれる幸せを感じていた。