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明鏡   

鏡のごとく

蛍の庭

2022-06-11 10:24:14 | 詩小説
 蛍が庭を漂っていた。
ちょうど、蓮を手に入れてきて浮かべていた池の近くから、茅葺と杉皮葺の神様をおまつりしたところに飛んで行った。
二階の座敷から蛍が庭先を揺蕩うのを眺めていたかったので、薄暗い、階段を上って御簾をかけているあたりに腰を下ろした。
綺麗な水があるところに蛍はいるという。
給食センターから流される水もあるという小さな川は、それほど、汚れてはいないのだろう。
などと思いながら、水が止めどもなく流れる音を聞いていた。
黄色い光を緑の光が包み込むようにぽっかりと浮かんでいる魂のようなものが漂っていた。
今年の蛍は、去年の蛍ではない。
水が流れる音を聞きながら、そう思った。
二度と同じ蛍には会うことはないのである。
今の蛍は、今ここにしかいない。
生まれ変わりのようで、何かと何かが混じり合ったのちに生まれてくるものなのだ。と。
近くに住むおばあちゃんには、娘さんがいたという。
この前、初めて、お家の中に招き入れてくれた時、入院していた頃に娘さんが作った、パズルを見せてくれた。
娘さんは生きていたら、私と同じくらいの年だという。
私は、自分が、この庭を漂う蛍になったような、今の蛍になったような気がしていた。

三島由紀夫の最後に書いた小説にも、美しい庭が出てきたのを思い出していた。
永遠の庭のような、楽園のような庭。
三島は、戦争の最中、非/日常の中を漂う蛍のように、爆弾が降ってくるやもしれぬ日常を命がけで生きながら、いつも死がそこここを漂っている戦争の間を、白昼夢のように、過ごしていた。
どちらかというと恍惚として。

戦争はあってはならないものです。
飢餓で震えている暗黒大陸の子供達にワクチンを打つ、飢餓を救うためにお金を寄付しましょう。
と、言うこともなく。

己に正直であろうとしたかに見える三島は、唐突に己の命を、その白昼夢を覚醒させる生贄のように捧げてしまった。

以前、三島の最後に同行する意思があるかどうか試された楯の会のメンバーの方の話を聞いて、本にしないかと声をかけていただいたことがあった。
その時、三島と行かなかったものの声は聞くことができても、三島と行ってしまったものの声をもう聞くことはできないのだ。と思った。
行かないと決めたものもいれば、行ってしまったものもいる。ということ。

この世とあの世の境界線上を、蛍のようにいきつもどりつ、たゆたっているような気持ちになった。
戦争のただ中、ひ弱だったばかりに戦うことから逃げることになった三島の魂は、ずっと、最後を待っていたのかもしれなかった。
美しい庭を揺蕩うのを待ちに待った蛍のように。

父の仕事の関係で、子供の頃、中東のイランに行った時、イランとイラクで戦争が始まった。
私のように、戦争のただ中に行く気が無くとも、連れて行かれることもあるわけである。
灯火管制の中、爆撃機が蛍のように揺蕩うのではなく、音速でやってきて音速で帰っていくのを、暗闇で聞いていた。
時折、爆弾がヒューと落ちてくるのを感じながら。
三島の恍惚をどこかで感じていたと思う、正直に言えば。
命がなくなるかもしれないというのに、最後の命を、ぷかぷか鈍く光らせるように生きていたのだ。
その父も、入院していて、終末期医療をも終えようとしている。
飲み込めないものがあまりに多すぎて、点滴で生きながらえながら、喉がカラカラなのを潤すために水蒸気が出てくるノズルが口元におかれている父は、霞を食って生きているように見えるのだった。

蛙が蓮池になるはずの池で鳴いていた。
蛍は、向こうのおばあちゃんの桜の木の下でゆっくりと光と光を交わらせてた。
今年の蛍が一つになって、来年の蛍になるために。

父に蓮の花を見せてやりたいと思って、手に入れた蓮は、まだ咲こうともしないで、静かに葉を広げてぽっかり池に浮かんでいた。