明鏡   

鏡のごとく

「すいばり」

2018-03-24 22:14:36 | 
てぶくろが やぶれたままの あなのなか
すいばりが ささったままの いたみあり

おやゆびと ひとさしゆびの あいだには
ふくれあがった うみもあり

ひあぶり はりさき つきさして 
すいばり はいだす うみのそと

はれた たにまの むこうから
とうめいなあな はいだして

いたみ つついて はりついた
すいばり はいだし なくなりて

はれた たにまを のぞきみて
いつか なくなる いたみあり


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木の中にある穴をのぞきこんでみた。
穴の中はまっくらでなにもみえなかったが。
なんとはなしに、手を入れてみたくなった。
昨日からすいばりがささったままの手を。
まっくらでなにもないとおもいつつ。
穴のふちをさわってみた。
せなかのあかいまっくろな虫がはいでてきた。
せあかごけぐもかもしれないと。
足をかぞえてみたものの。
ろっぽんあしの虫だった。
ありにしては大きすぎ。
くもにしては足がすくなくみじかくて。
手の中のすいばりのようにくろかった。
いたみがあなからはいだして。
うろうろはいずりまわりだし。
のたうちまわるそのまえに。
うみといっしょにだしたいと。
そのときいたみの正体をみつけたようなきがしてた。
つかみきれないまっくらないたみをつついてしまったが。
そのときいたみをてにいれた。










  








「歴史の改鼠」

2018-03-16 12:04:49 | 詩小説
鼠が走るのであります。

歴史の夜というものがあるならば、歴史の屋台骨の屋根の柱という柱を。

鼠は改めて声高らかにいうのであります。

歴史は書き換えられた。権力者によって。

では、歴史とは一体何であるのでしょうか。

例えば、有色人種の血の流れた総理や大統領がいたとして。

その奥方もれっきとした有色人種の血の流れた人であるとするならば。

歴史を伝えるという報道番組において、有色人種の血の流れた女の子が、その奥方の肖像画を憧れを持って眺めている映像を流されたといたしましょう。

そうして、女の子にこう言わせるのであります。

「わたしの女王様」

と。

こうして遠くからみているだけであると、歴史を造るのは、権力者だけではなく、それを強化し続けるものたちのなせるあわせ技である。

と、言わざるをえないのであります。

有色人種の中の女王様にあこがれるのか、それとも、すべての人々の女王様と崇めさせたいのか。あるいは、同じ肌の色のものが女王様であることこそが、ヒエラルキーの頂点としての「女王様」を自分の鏡として、うっとりと魅入らせるものとなるのであろうか。

どこか、気味の悪いプロパガンダのようで、軽いため息のような、しかしながら、濁った吐き気を感じたのであります。

鼠が夜中に走り回るような、見えない、うす気味の悪い意図がうっすらと透けて見えてくるようなのであります。


学校を造るのに、しかも同じ思いを持っていると信じていたお友達のようなものを支援することが間違いであるのならば、グローバル化に乗り遅れるなと、外国人留学生を受け入れろと言い続け、誰も彼もを安く使い捨てようとするものに加担し、自国の若者とその家族にだけに高い授業料を払わせ続けるものたちの偏った支援をも、糾弾されるべきことといえませんでしょうか。

いつまでも、死者を出しても、その責任を追求し続ける、その姿勢は、だれかにあやまってもらえれば被害者は納得すると言いながら、永久に頭を下げさせたいだけの、どこかの国のやり方と相通じるものがあります。

しかも、その被害者面をした国のものが同じことをやっていたことは、いっさい、見ようともしない、取り上げようともしない徹底ぶりなのであります。

鼠が穴から這い出てまで、歴史を改めていこうとする、その理由を紐解こうとするならば、おそらく、女/王様になりたいのです。

お前は間違っていると。

上から物申すことができるような、女/王様に。

今日も、明日も、明後日も、昨日も、昔々も、その昔も。

鼠は改めて、走り回るのです。

お前は間違っている。わたしこそが正しいのだと。

政権交代しても、同じことなのは、女/王様が変っただけだということを、思い知らされるだけだということなのだと。

だれに加担しているか、ただ、それだけのことなのだと。

なるべく、ビョウドウであるためには、その女/王様になる機会が、ビョウドウであるべきなのだと。

ただ、それだけのことなのだと。






「杉皮の神様のような」

2018-03-14 20:51:14 | 茅葺
先日、先輩と樹齢70年程の杉皮を受け取りに行った。

杉皮を丁寧に手仕事で剥いでいく。

たろうらさんは、杉の命の表皮を剥がしていくように、杉皮を丁寧に手仕事で剥いでいく。

ご夫婦で携わっておられて、奥方からお聞きしたのだが。

杉は立っている時はまっすぐに見えるが、たおしてみると、ところどころ曲がっていることがあるという。

その曲がっているところを見定めて、一番杉皮を生かして使わしてもらうように、例えば2メートル30センチ、90センチの長さで皮を剥いだりする。

製材所などから出る杉皮と一線を画するのは、杉皮に対する思いのようなもののように思えた。

一枚一枚が大きく、「ほて」や「棟」などの雨風に一番さらされると言ってもいい強度が必要になってくる重要な場所や人の目によく触れるので美しさをも求められる場所に使われることとなる。

製材所にとっては、いるものは裸の杉の木であって、剥がされた表皮としての杉皮は、いらないもの、言ってみれば廃材としてのものであり、一山であっても、バラバラの、いろいろな形をした不揃いなものが多く、そこから、60センチの長さの短冊状になたで切って束にしていく。
それはそれで、杉皮葺きのときに必要な大きさなので、我々にとっては、必要で、大切なものであるが。

たろうらさんの杉皮は、ひとつひとつを倒し、皮を剥ぐという、今の時代に逆行しているような、杉との付き合いのしかたが密であるように思えた。

時間をかけるということと、杉の命を見届けるということと、機械ではなしえない手間暇がいるということ。

息づいている場であるということ。

山のなかで生きている杉の生き場所をしっているからこそ、疎かにできないような、手間暇をかけるということが出来るような気がした。

時間という速さではない、時が流れている場所にいられることに、杉皮の神様のようなものにふれたような、心から感謝したくなる出会いであった。

息子さんが引き継ぐということで、頼もしい限りである。







七年

2018-03-11 21:00:00 | 日記
木のしゃもじがこわれた。

七年前の震災の時、あまりにゆれるのでそこにはいられないといって福岡の方にやってきた人にもらったものだった。

しゃもじも、よくここまでやってくれたと思う。

もう、七年もたっていたのだから。

そういえば、父の介護が必要になった頃、うちにやってきていた時でもあった。

右半身不随の父と散歩しながらリハビリをしているときに、苺を孫に買うてやれと言って、八百屋さんにふたりで立ち寄った際に、地震が起きたことを店のお客さんから聞いて知った。

母や姪っ子が東京にいたので、家に帰り連絡を取ろうとしたが繋がらなかったのを思い出す。

もう、あのような思いはしたくはない。



どうか、だれもが安心して暮らしていけますように。

なくなった方々のご冥福をお祈り申し上げます。

無色透明な

2018-03-10 23:17:15 | 詩小説
無色透明なものは風のようで、水のようで、夢のようで、うたのようで、時間のようで、重力のようで。

見えそうで、見えにくいようで、そこにあることだけはかんじられるようで。

うつくしいものをつくっていけますように、まわりの方々の助けもあり、ここまでこれたことに感謝して、これからはじぶんでもつくっていけますように。

かわいい子らには、すきなことをしつづけてほしいと心から思う。