明鏡   

鏡のごとく

「やけど」

2018-11-16 21:01:11 | 詩小説
ポーっと、ぼんやりとしていたのだ。

ある人のことを考えていて。

人差し指と中指と薬指にやけどをしてしまった。

まだ温まっていないと思っていた鍋の取っ手の付け根を触ってしまったのだ。

水ぶくれの一歩手前で、指先の皮が焼けて硬くなり、まるで、ゆびタコができたようである。

以前も、足にやけどをしたことがあった。

やけどはかなりひどくて、右足をしばらく包帯して歩き回っていた。

包帯を取った後、ポーの黒猫みたいに、足にしみのようなものが浮かび上がってきた。

それは、黒猫の死体のにじみではなく、ポーその人の影絵のようであった。

人面魚のように、足だけ人面があるなんて、ぞっとする前に、滑稽ではあるが。

その足にできた人面が、この頃、表情を変えていることに気づいた。

人面魚のように、水の中を泳いでいるわけではないが、湯船に浸かり、ゆらゆら蠢めく湯の下にいるときは、なんだかもがき苦しみ息苦しそうに見えるのであるが、湯船から足を出すと、ゆったりと赤みがかった穏やかな表情に見えるのである。

自分の中の何かが、蠢き出したような、そのような影のようなものを映し出す、影絵を私は足に忍ばせて生きているのだ。

さしずめ、靴の中においては、棺桶の中の眠りについた面影のようなものになるのであろうが、それは、誰にも、私にも、わからないことであった。

ただ、指先の染み入るヒリヒリとした焦燥感のような、鈍い痛みのようなものが、心にも染み付いてしまったようで、どうにもやりきれないのであった。



「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」

2018-11-16 20:13:12 | 詩小説
「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」を久しぶりに聞いた。

映画が衝撃的であったため、釘付けになったことを思い出した。

唐突に出てくる馬に乗ったCyrano de Bergeracをした俳優、便器を積んだトラック、湖?のようなところでのまぐわい、バイセクシャルの美しい男、少年のような痩せこけた女。

愛とは何かよくわからなくなるような、ただなんだかわからずに惹かれあうことだけが、すべてのようで、過激で心がざわざわしたのを思い出した。

アブ/ノーマルを行ったり来たりするような、喘ぎ声が耳について離れないような夢魔、垣根を超えた間の空いたある愛の行為、あるいは歌を、ゲンズブールは表現したかったのだと思う。

なぜか、ジェーン・バーキンが日本に来ていたのだったか、ゲンズブールの手帳を何かの番組であげるという企画があったのを偶然見たのを思い出した。

ボロボロの黒い手帳だった気がする。

ゲンズブールの思い出のようなものをそんなに簡単に手放すのか、と愕然としたのも思い出した。

それにしても、あの手帳には、何が書いてあったのだろうか。




https://youtu.be/Yddh50o2Q5M

どちらかというと、ギャルかな。
頑張れ、歌つくりと歌うたい。










「時の行列」

2018-11-15 23:00:08 | 茅葺
行列を、毎朝、見かけていた。

子供達が、制服を着て、一列になって歩いていく。

それは、無言の行列のようで、どこまで行っても同じ景色のようで。

子供達は学校までの道のりを一列になって歩いていく。


一人の子供が、赤信号で止まっている私と目があって、我に返ったように、列から離れて、歩道にしゃがみ込んだ。

ランドセルと一緒に座り込んで、何かを待っているようだった。

何もこないより、友達が来るといいね。

そんなことを思っていると、倅から、

寝坊したんですけどもしかして「時」動かしました?

と言うわけのわからん自由なメールが届いた。

どちらかというと、時が止まっていた気がしたのだが。

「高床式倉庫」

2018-11-14 19:59:20 | 茅葺
今、高床式倉庫の補修を行なっている。

昔の人が作っていたであろうというものを思いながら、よしをさしていくのである。

右側を私が、左側を親方がさしていくのであるが、左右が同じように、上がっていかないといけないので、バランスを見ながら、いい塩梅に仕上げていくのに、何度もつきものでついていく。

両手でつくものと、片手でつくものなどで、さしたよしを奥深く入れ込んでいくのである。

美しい「なり」となるように、根気よく、何度も何度もつくのである。

高床式倉庫に、住んでみたい気になる。

これだけ、作っていくと、愛着がわくものである。

自分で、最初から作ってみたいと思う。

吉野ヶ里のさしよし体験

2018-11-11 15:33:43 | 茅葺

吉野ヶ里のさしよし屋根補修の合間にさしよし体験の時間を設けて、親子連れの方々や年配の方々や若い方々も参加して、一緒にさしよしをすることができた。

貫頭衣を着て、手袋、ヘルメットまでして、さし補修をしていくうちに、子供たちが特に、黙々とさしよしをしていくのを見守りつつ、人間の作る喜びの、原点を見た気がした。

もう、目の前に山があって、その山を一回りも、ふたまわりも大きく、ふわりと柔らかに、生き返らせるように息を吹き込むように、一手づつ丁寧に、気持ちを一手の先に集中して、さしよしをしていくのである。

長く、おおらかに、生き生きと生き続けて、そこにあってくれるように、魂を込めて、さし補修していくのである。

吉野ヶ里のスタッフの方々もそこに集まってくる方々も、おおらかになり、時間も空間も心情も広々と見晴らしが良くなり、楽しでいけるようになるようで、こちらも、ほのぼのと、心がほっこりしてきた。

子供たちが、どうか、そのように広々とした心を持って、そのまま、心穏やかにいき続けてくれますように。