お兄ちゃん日記

2017年9月14日、今日からこのブログでやってみることにします。

我が人生は「悔いてやむなし」である

2021-05-26 06:05:31 | 日記

我が人生は「悔いてやむなし」である



人間は現役時代を終えて、これからの人生を生きて行く上で、今迄それ

ぞれの世代を、生き抜いてきた時の経験や知識を土台として生活設計を

考えるだろう。そして過去を振り返った時、どうしても悔やまれたこと

の一つや二つはあるものである。それは自らの行動や判断で起きたこと

への悔いがいつになっても忘れられないものである。

 

例えば、「高校や大学の進路を決める時」「社会に出る時に自分に適し

た企業に迷った時」「付き合ってた彼女(彼氏)と別れることになった

時」「結婚の相手を見定め決めた時(笑)」「子育てで自分の役割や判

断に迷った時」「人間関係で大切な相手と上手くいかなくなった時」等

 

いずれにしても、結論を判断し、結果に責任を負うのは、自分自身である

ことは十分に理解しているが、どうしても、あの時の判断には、今でも悔

いが残るものもある。

何故なら、我々は成功と失敗を繰り返しながら成長する人間だからである。

「悔いてやむなし」が人生だと思う。

 

 

 


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ブログは自分自身を映す鏡のようなもの

2021-05-25 06:42:41 | 日記

ブログは自分自身を映す鏡のようなもの

 

私は今年の元旦から今日まで、ブログのタイトルとURLを載せてFBに

毎朝投稿している。これは、私のブログを多くの人に晒すことによっ

て、訪問してくれる人の変化を自分なりに試してみようと思ったから

だ。goo blogに移って5年になるが、最初に内は訪問者も2桁の前半だ

ったが、最近は200~300人程が一応訪問してくれているようだ(笑)

 

当初は、私自身の日記的な内容で殆ど読者を意識することがなく数字

も全く気にならなかったが、徐々に訪問者が増えて行くに従って、ブ

ログ自体の内容も読者を意識するようになり、当初の思考から逸脱し

てしまったようだ。しかし、約5ヶ月間試行的にFBにアップしたこと

で、私なりに感じたことが幾つかある。一つは、投稿する際の写真に

よってリアクションの数が変わること。そしてリアクションしなくて

も、ブログを読んでくれる人もいると思うが、またその逆もあり得る。

 

結局、そもそもブログのURLをFBに載せて、訪問者数の変化を試みること

自体が無意味な考えであったのだ。これからも同じようにFBに投稿するが

ブログを見ようと、見まいとそれは、読者側の自由で、その数字の変化の

原因は判るはずがないのである。これからも想い付いたテーマを自身と向

き合って考え、本音で書くことが楽しく思うブログをかき続けて行こうと

改めて思う。


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嘘をつくことの意味から学習する

2021-05-24 05:57:08 | 日記

嘘をつくことの意味から学習する

 

我々人間は、今迄生きて来て、嘘をついたことのない人はいないだ

ろう。言い換えれば、人間は嘘をつかずに生きていくことはできな

いのである。例えば「君なんて嫌いだ」「そのネクタイ趣味がわる

いな~」など、思うままに言っていたら、社会の中で生きてない。

また、自分自身に嘘をつくこともある。素敵な女性にふられた後で

「ふん、女なんていくらでもいるさ」と自分に言い聞かせる。所謂、

心の防衛機制である。つまり、適度にウソをつけるというのも、知

的レベルの高さと、心の健康の表れである。

 

嘘には、様々なものがあり、落語や小説は嘘の話ですが、人々は喜

んだり楽しんだりする嘘話です。また、自分が他人と比較して自信

がない時など、つい嘘をついて虚勢を張ったりする。だれでも多少

は経験があると思う。また、つい発してしまった嘘で話が拗れて

いまい、また嘘を重ねてしまい、責任回避のためにまた嘘をつき、

最後に嘘つきのレッテルを貼られる羽目になる。このような嘘は

最悪で、絶対に避けなければならない嘘である。

 

人間は、何らかの形で得になる言動をとる。自分の得になったり、

他者の得になる(それが自分の喜びとなる)ような行動をとる。

つまり「学習」である。

我々は、思わず嘘をつくことがあるが、その過ちをごまかし続け

る人と、素直に過ちを認め心から悔いてわびる人と、どちらを受

け入れられるか、その答えは云うまでもない。

 

 

 


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自分の存在意義は自らが行動し評価するもの

2021-05-23 06:51:25 | 日記

自分の存在意義は自らが行動し評価するもの

 

人間、年を重ね特に現役世代を終えると自分の存在意義が薄れて行く

ように感じるものだ。しかし自分の存在意義とは「生きていく喜び・

生きるための楽しみ」を実感することだと思う。そして「自分の内

側だけで完結する存在意義」と「他人に依存する存在意義」とがあ

るようで、前者は何かを苦労の末、成し遂げた時の達成感は自分に

自信と誇りを持てるようになる。一方後者は、他人からの称賛や評

価、または他人からの「ありがとう」という言葉などである。

 

つまり、自分の中で「良い」と思える物であれば軸はブレなく自分

自身を評価することができる。それに引き換え、他者に依存する存

在意義は、自分が努力しても必ずしも評価されるものではなく相手

次第である。一生懸命やっても期待が外れで、落ち込んでしまうこ

ともあり、自分自身の軸がブレてしまい自信を失くす危険性がある。

 

仕事や人生に対する自分の存在意義は、誰かの評価に委ねるもので

はなく、自分自身が決めるものである。それがたとえ被災地のボラ

ンティアだとしても「ありがとう」という言葉のために行うのでは

なく「誰かを助ける」という自分の中の目標を達成するために行う

もので、勿論「自分の中で満足いく結果」を出しつつ「相手からも

評価された」という結果になれば最高である。


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これだけ纏まりのない日本は今後どうなるのか?

2021-05-22 05:47:54 | 日記

これだけ纏まりのない日本は今後どうなるのか?

 

ここ一年程の日本を私自身が感じてるのは、各自がそれぞれの立場で

日本が直面している様々な問題に対して、解決意識の共有性が全くな

いように見える。新型コロナ感染症対策、コロナワクチン接種、貧困

問題、東京オリ・パラ、国際問題対応等、例を挙げればきりがない。

それぞれに関わる、各立場の人は自分の思惑を描いて独自に進んでる

ように見え、関係者との情報共有はもとより敬遠してるようにさえ見

える。

 

人間は、とかく自らの持つ権限や情報を囲い込もうとするところがある。

そこには大きな責任を伴うことを、今のそれぞれの主導者は疎かに考えて

るように私には見える。現在は国難とも言える、コロナ感染症対策も日本

での発症以来1年半になろうとして第4波で緊急事態宣言が各都道府県に出

されている中で、相変わらずの一時凌ぎ的な対策の繰り返しで、国民も若

者を中心に気が緩んで、多数が街へ出掛けている。

 

確かに、日本は自由主義国家であり、政府は国民の安全と安心を保障する

責務があるとは言え、国民はその政策や要請を信じて、諸問題に関心を持

ち自らのできる限りの協力で解決への方向へ一丸となって行動しなければ

その効果はない。そして、国民の総力で東京オり・パラを成功させよう!

という気概を世界に向って発信する国家・国民であるべきだと思うが、今

の日本には、残念だがその纏まりが無いのが現実である。


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