正確な書名は『少年A 矯正2500日全記録』というらしいこの本の著者の記事を「週刊文春」で見た。現物は買っていないが、いくつか問題を感じた。私は「週刊文春」はいい記事があると思う反面、かなり問題のある記事が載ることもあり、実に困った雑誌だと思っている。
もちろん読者に何らかの問題意識を植え付けることやインパクトを与えることが、ジャーナリズムの使命だとすれば、それはある程度仕方がないこととはいえ、少年Aに関するこの女性ジャーナリストの記事はいただけない。まず、肩書きなどから見ていかにもこの人が少年Aを担当した人だという印象はいなめない。記事の内容も鑑別所での具体的なことについて書いてあるのでまるで、この人が少年Aと長い時間を過ごしていたかのような印象を受ける。
しかし、あるブック・レビューを読むとどうもこれは周辺を取材した内容であるらしい。であるとすれば、この人の肩書きはいかにもこの人物が直接担当した人であるかの印象を与えかねず、誇大広告の感は否めない。
すでにそういう批判がネット上にあるにもかかわらず、またしてもその点を曖昧にするかのような記事を載せているのははっきり言って悪意的なものさえ感じる。
もちろんこのようなことを書くことも一種のアナウンス効果、あるいは宣伝となるのを覚悟で言うが、むろんこの本の著者が直接担当した人であるとすれば、「全記録」を公にすること自体の倫理性を問われるであろう。
私はこの本の成り立ちがそもそもそうした点を曖昧にする形で形作られていることに嫌悪感を感じざるを得ない。
公務員には守秘義務がある。それと同時に情報公開という側面もあり、これは制度化されている。この本の著者は一体「ジャーナリスト」と「当局」のどちらの立場においてものを伝えているのかがはっきりしないのである。
むろん退職すれば公務員ではないが、退職すれば情報をもらしていいのかというとそれは違うであろう。この本の著者は自分の経験を元に取材をしているということのようだが、それがいかにも暴露本的印象を読者に期待させる戦略が感じられるのがもどかしい。
よく元税務官や元警察官の本なども自分の体験をもとに本を書いたりタレント活動をしている人もあるようだが、むろん問題がないわけではないだろう。
元外交官の人などでも、旺盛な評論活動をしている人などもいるが、外務省の問題が明るみに出るまでそういうことは一切言わず、外務省に都合のいいことしか書かなかった印象があり、これにも反発を感じた。
話を元に戻すが、法務教官という立場にあったものが、鑑別所の制度や仕組みなどについて商業的利益と結びついた形でコメントすることは非常に問題が大きいと感じている。法務省の記者会見にも問題が指摘されたことがあったが、こうしたことはあくまで当局の側が発表することにとどめるべきであって、一個人のジャーナリズムによって解説されることではないのではないか。
この「ジャーナリスト」は少年Aの現在の所在について事実と違ううわさが出た事に関して、自分が否定しているように書いているが、これこそまさにうわさがうわさを呼ぶといった類の話しであって、特定のジャーナリストが自分の肩書きを利用して情報を分析するような筋合いの話しではないはずだ。
これはあくまで記憶になってしまうが、少年Aの両親の故郷を「公開」したのも吉岡忍という人の「週刊文春」の記事だったように思う。そこにはその故郷を取材した上で、周りの人間が支えて行きそうだからこれを公開してもいいというような分かりにくい理由も添えられてあったはずだが、全くもってジャーナリストの商魂というのはそこまでたくましいものかと驚いた記憶がある。
私は事件報道というのは極力事実のみを伝える程度にしてあまり周辺取材はするべきでないと思っている。むろん、凶悪事件というのはいつの世にも人々の興味を誘うものではあるが、凶悪事件の報道や分析は凶悪事件の防止や現象ということにつながらないことははっきりしているのではないか。
もっともこうした記事や本が売れるということは、もちろんそれを望む人たちが多くいるということの表れであって、なんとも悲しい現実であり、自分もそれと全く無縁とは言い切れない。
別の週刊誌を開いた瞬間おととい行ったばかりの六本木のCD屋とそっくりな場所が白黒でうっつているなと思ったら果たしてそうであった。
そこには著名な女性バイオリニストがうっつていたが、そばにいた男性もうっつていた。私の記憶が正しければ目には修正が入っていた。
たしか宇多田ヒカルも最初に「激写」されたとき同級生の男と抱き合う場面の写真にはやはり男のほうに修正があった。その男は昔の有名ロック・シンガーの息子であって。そのことが書かれていながら修正が施されているのは犯罪者のようで可愛そうだと思ったものだが、その後同じ写真が修正抜きで同じ雑誌に載ったはずだ。
犯人扱いされるうわさになる男性もかわいそうだが、事件をネタに商業的利益を得ようとするものがこの国に少なからずいることはまことに耐え難い話しであって、このことは加害者の親が出版した本に関してもさんざん言われたはずだが、もうこの国のジャーナリズムや出版文化というのはそういうものだと割り切って考えるしかないのだろうか。
もちろん読者に何らかの問題意識を植え付けることやインパクトを与えることが、ジャーナリズムの使命だとすれば、それはある程度仕方がないこととはいえ、少年Aに関するこの女性ジャーナリストの記事はいただけない。まず、肩書きなどから見ていかにもこの人が少年Aを担当した人だという印象はいなめない。記事の内容も鑑別所での具体的なことについて書いてあるのでまるで、この人が少年Aと長い時間を過ごしていたかのような印象を受ける。
しかし、あるブック・レビューを読むとどうもこれは周辺を取材した内容であるらしい。であるとすれば、この人の肩書きはいかにもこの人物が直接担当した人であるかの印象を与えかねず、誇大広告の感は否めない。
すでにそういう批判がネット上にあるにもかかわらず、またしてもその点を曖昧にするかのような記事を載せているのははっきり言って悪意的なものさえ感じる。
もちろんこのようなことを書くことも一種のアナウンス効果、あるいは宣伝となるのを覚悟で言うが、むろんこの本の著者が直接担当した人であるとすれば、「全記録」を公にすること自体の倫理性を問われるであろう。
私はこの本の成り立ちがそもそもそうした点を曖昧にする形で形作られていることに嫌悪感を感じざるを得ない。
公務員には守秘義務がある。それと同時に情報公開という側面もあり、これは制度化されている。この本の著者は一体「ジャーナリスト」と「当局」のどちらの立場においてものを伝えているのかがはっきりしないのである。
むろん退職すれば公務員ではないが、退職すれば情報をもらしていいのかというとそれは違うであろう。この本の著者は自分の経験を元に取材をしているということのようだが、それがいかにも暴露本的印象を読者に期待させる戦略が感じられるのがもどかしい。
よく元税務官や元警察官の本なども自分の体験をもとに本を書いたりタレント活動をしている人もあるようだが、むろん問題がないわけではないだろう。
元外交官の人などでも、旺盛な評論活動をしている人などもいるが、外務省の問題が明るみに出るまでそういうことは一切言わず、外務省に都合のいいことしか書かなかった印象があり、これにも反発を感じた。
話を元に戻すが、法務教官という立場にあったものが、鑑別所の制度や仕組みなどについて商業的利益と結びついた形でコメントすることは非常に問題が大きいと感じている。法務省の記者会見にも問題が指摘されたことがあったが、こうしたことはあくまで当局の側が発表することにとどめるべきであって、一個人のジャーナリズムによって解説されることではないのではないか。
この「ジャーナリスト」は少年Aの現在の所在について事実と違ううわさが出た事に関して、自分が否定しているように書いているが、これこそまさにうわさがうわさを呼ぶといった類の話しであって、特定のジャーナリストが自分の肩書きを利用して情報を分析するような筋合いの話しではないはずだ。
これはあくまで記憶になってしまうが、少年Aの両親の故郷を「公開」したのも吉岡忍という人の「週刊文春」の記事だったように思う。そこにはその故郷を取材した上で、周りの人間が支えて行きそうだからこれを公開してもいいというような分かりにくい理由も添えられてあったはずだが、全くもってジャーナリストの商魂というのはそこまでたくましいものかと驚いた記憶がある。
私は事件報道というのは極力事実のみを伝える程度にしてあまり周辺取材はするべきでないと思っている。むろん、凶悪事件というのはいつの世にも人々の興味を誘うものではあるが、凶悪事件の報道や分析は凶悪事件の防止や現象ということにつながらないことははっきりしているのではないか。
もっともこうした記事や本が売れるということは、もちろんそれを望む人たちが多くいるということの表れであって、なんとも悲しい現実であり、自分もそれと全く無縁とは言い切れない。
別の週刊誌を開いた瞬間おととい行ったばかりの六本木のCD屋とそっくりな場所が白黒でうっつているなと思ったら果たしてそうであった。
そこには著名な女性バイオリニストがうっつていたが、そばにいた男性もうっつていた。私の記憶が正しければ目には修正が入っていた。
たしか宇多田ヒカルも最初に「激写」されたとき同級生の男と抱き合う場面の写真にはやはり男のほうに修正があった。その男は昔の有名ロック・シンガーの息子であって。そのことが書かれていながら修正が施されているのは犯罪者のようで可愛そうだと思ったものだが、その後同じ写真が修正抜きで同じ雑誌に載ったはずだ。
犯人扱いされるうわさになる男性もかわいそうだが、事件をネタに商業的利益を得ようとするものがこの国に少なからずいることはまことに耐え難い話しであって、このことは加害者の親が出版した本に関してもさんざん言われたはずだが、もうこの国のジャーナリズムや出版文化というのはそういうものだと割り切って考えるしかないのだろうか。