妄人妄語 衆議院議員野田聖子さんの選挙公約消去 有権者・国民を愚弄するサイト一時閉鎖に抗議します!「非道」はどっち?

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都内某ホテルの「ヨン様プラン」と民放Tの不思議な関係?

2004-12-07 15:35:51 | Weblog
 ヨン様ブームの様子をテレビでみたが、それにしてもすごいと思った。自分は韓国で日本の文化が受け入れられて、日本の作曲家が韓国でさきにブームになってから日本に逆輸入されたなどという話しを聞くと隔世の感を禁じえない。ヨン様ブームについてもそのような感を抱く。日本は平和でお金がある国でいいなと思ったりもする。ただこのブームにはマスコミによる煽りのようなものも感じざるをえない。元来ブームというのはそういうものだし、ヨン様に関してもすでに似たようなことを書かれている人もいるかもしれない。あくまで推測に過ぎないが自分なりに感じたことを以下に書きたい。

 まずこのヨン様ブームに関して特に力を入れて報道しているのがT(略号)という民放の局だというのがまず不自然な感じがする。他の局でもある程度伝えているが、Tは特に力を入れている。なぜNHKでなくTなのか。私の記憶が正しければTではヨン様が帰る道中車の中からわざわざ窓を開けて手を振る映像を流してたが、そういう映像がとれたのはその局だけだと言っていた。しかしヨン様はなぜその車がマスコミの車だと分かったのだろう?全く打ち合わせもなしにこんなことができるだろうか。なんだかおかしい。全く何の車だか分からずにこんなことするはずはないよね。

 なんだかおかしいと言い出せばきりがなくて、夜中の三時にフアンの人の前に現れて一人一人サイン、それも名前を入れてというのも、そのサインの一つを番組で見せていたのがどうも腑に落ちない。そして昨日にはヨン様が泊まったホテルの「ヨン様プラン」について説明していたがますます私の猜疑心は深まった。ヨン様が使った食器で食事ができるかもという話はなんだか本人が聞いたらいやではないだろうか。ホテルのサイトを見てみると、一応そのプランについての説明は見つかったが、それほど目立つ感じではなかった。そしてシングルもスィートも通常の値段より安いみたいである。そして他にもいろいろプランがあって、みんな安いのである。

 つまりテレビを使って自分たちの「格安プラン」を宣伝していたわけだ。しかしそういうプランは色々付加価値をつけるわけだから本当は値段が上がるはずではないか?芝居でもコンサートでも本でもCDでもどんどん値下げして売っている。いわゆるツアーというのもそうだし、色々な会員になると送られてくるカタログはそういうのばっかりだ。つまり格安で売る企画会社の一つが旅行会社であるわけだが、旅行会社にそれでもうけさせるのもばからしいので、ホテルが自分で理屈をつけて値下げしているということなのだろうか。しかしホテルが自らの値段を下げるというのはこれまでにもやってきているのだが、それをごまかすのにヨン様が利用されているような気がするのは残念。本人はそれで何か報償をもらっているのかもしれない。つまりそれも仕事ということか。
いずれにせよ自然にそういう流れになったように見せかけようとしているようで、見ている方はあまりいい気分にはなれない。

 もちろんそれにも広告会社とかいろんなとこが絡んでいるかもしれないがとにかく世の中のからくりが少し見えたような気がする。とにかく今からクリスマス・正月にいたるまでシングルからスィートまで予約を受け付けているんだから。。。そういえばヨン様がこのホテルへ越したのは混乱を避けるためだったっけ?なぜフアンは引越し先分かったのだろう。週刊誌には追っかけの人の写真も載せてたけど肖像権の問題はないだろうか?悪いことをしているわけではなくても、あれは本人の許可が必要な写真ではないかな。とにかく疑問だらけだ。。。

なおこの文はいつものように少し後で補足しました。
またするかもしれません。

百円寿司とネットの微妙な関係?

2004-12-06 14:05:50 | Weblog
 もう20年ほど前だったろうか、ある隠れ家的名店のようなすし屋で聞いた話しであるが、すし屋の名店というのは百円寿司に脅威を感じないそうである。要するに客層が違うということであるが、百円寿司のようなものが広まるとかえって、本物志向が高まり自分たちも潤うというようなことであった。その店がそれほどの名店かということはさておきこの話は首肯できるものだと思っていた。

 今現在も言うまでもなくグルメ・ブームでむしろ高級店が大衆化しつつあるやにも思われる。もちろん高級な店でも庶民的な店でも儲かるところもあれば大変なところもあるであろうが、高級な寿司屋もたくさんあるし、百円寿司もたくさんあれば、デパートで買える寿司も多様になってきていると思われる。

 これと同じようなことが、「情報」ということにもいえるのではないかという気が最近ますますしている。かつてわれわれは情報を得る手段としてはテレビであったり新聞であったり、本であったりしたものだ。しかし最近はネットが情報を得る手段としてかなり比重が高まってきたことは言うまでもない。しかし、少なくとも本に関する限り、毎年出版される本の数はあいかわらず無限に近い。

 新聞や週刊誌などはある程度ネットに喰われている部分もあるかもしれないが、当初一部で言われていたように、ネットの発達によって紙の消費量が減るというような未来予測は見事に裏切られているようである。

 よくネットの情報は価値がないとか表面的だということが言われる。しかしそれは必ずしも当てはまらない。本にも色々あるように、ネットの情報にも色々ある。そういうことを言う人はあまりネットを見ないで言っているのではないだろうか。ネットでなければ表現できないことはないかもしれないが、ネットでは実にたくさんの人のさまざまな意見を聞くことができるのは絶対的な利点であると思っている。

 最近自分のお気に入りは爆発しそうないきおいである。これほど一生懸命ブログを更新されている方が多いことに驚いてもいる。自分も自分で書いている量には驚いているが、できるだけ多くの人により深く訴えかけられるブログを作りたいと思っている。

ちょっとまた長々とこ難しい話ですが『春琴抄』におけるイメージ論について

2004-12-05 01:52:59 | Weblog
『春琴抄』を読んでいて感じたことの一つは松本清張の「或る『小倉日記』伝」に似ているということであった。それは、この小説を書いている作者本人がその小説の中で、その作品の執筆の経緯を明らかにしているということであるが、これは小説技法の上でそれほど珍しいこととは言えないだろう。しかしそれを自然に行うのは難しいように思われる。

特にこの二つの作品においては執筆のきっかけとなった小冊子あるいは日記について書くことが、小説の一部となるわけで、その小冊子がどういうものであるのかを書くこと自体がかなり難しい部分もある。ためしに新潮文庫版で8ページの最初の6行ほど(「伝によると」の前まで)を読んでほしい。ここでは「検校」(けんぎょう)という言葉が何度も出てくるのであるが、もうこれだけでちょっと自分などは参ってしまう。

ただこうした文章を経て初めて作者谷崎自身の春琴に対する視点と言うものが獲得されてくるのであり、このような作業の後に小冊子が描く春琴ではなく、作者谷崎の春琴に対する視線というものが生まれてくるように思われる。9ページには春琴の37歳の頃の写真のなかの彼女の風貌が描かれる。

ここで谷崎が長々と春琴の風貌を書いていることには理由がある。その理由は10ページの段落の終わりの4行ほど、「検校がこの世で最後に見た」から始まって「作り上げていたであろうか」で終わる部分に明らかになっているように思われる。つまりここで谷崎がやっていることは一種のイメージ論であって、これは大変奥行きの深い問題であるが、考えようによってはここで谷崎は写真で見ることのできる春琴の美しさをあえて言葉という全く違うメディアに置き換えようとしているのではないだろうか。あるいは写真によって伝えられる美しさを言葉によって伝わる美しさが超えられるかという実験をしているのかもしれない。そして言葉によって女性の美しさが伝わるのであれば、眼の不自由な人にとっての視力に代わる役割を言葉がなしうるかもしれない。

つまりわれわれはその写真を見ていないわけだからある種われわれも眼の不自由な人と同じ立場に立って谷崎の言葉によって春琴のイメージを作り上げていると言うことになる。
当たり前のことであるがこの作品に限らず小説と言うものはそのように言葉によってイメージを作り上げてゆくものであるということがいえるが、そのことを写真を見てその風貌を言葉で記すと言うことにより明確にしているということがいえるのではないだろうか。