CDを友人が送ってくれたので、聴いていると、
空が高くて、からっとした空気の中、
その友人と宮崎の綾町や矢岳高原にドライブに行ったこと、
帰り着いて、熱々の熱いアールグレーのミルクティーを飲んだこと思い出しました。
機嫌良く過ごしている休日です。
「決定権」についての本を読みました。
ここでいう決定権というのは、
子ども何か行動をはじめるとき、その行動を終わらせるとき、
だれが決定権を持つのか、というようなことです。
私はこれまで、「決定権」などということを意識していなかったので、
なるほどなぁ~と感心することばかりでした。
本で紹介されたエピソードです。
例えば幼稚園で、
「雨が降りそうだから、外で遊ぶのはおしまいですよ。部屋に入って」と指示が出れば、
たいていの子が「雨がふりそうなんだ~、じゃあ、部屋に入るか」と思うものの、
中には、「今、降ってないんだから外で遊べる」と考え、
「雨が降り出すまで、外で遊ぶ」と指示に従えない子もいます。
こういう子どもは、大人に「中に入りなさい」と注意を受けたり、怒られると
言った大人に対して、「このひとは、自分のことを嫌いだから命令するのだ」とか
「いじわるで言っているんだ」と思う可能性があり、
実際にそう受け止めている子もいるということでした。
そして、そのような受け止め方が続くと、
「自分はみんなに嫌われている」とか「自分は怒られてばかりだ」という、
被害的な見方が定着する可能性があるとのこと。
そういう子どもに対しては、
幼稚園の中で、「おしまいを決めるのは先生の仕事」ということを
きちんと教えなくてはいけないということなどが書かれていました。
それは自分のことを自分で選択できる子どもの自主性とは別で、
事柄や場所によっては、決定権が大人にある場合があるよ、ということを
ちゃんと意識させておく必要があるということのようです。
このことで、職場でのできごとを思い出しました。
それは、別の部署で働く、青年のことです。
彼は、私が一緒に働く年配の女性のことが大好きで、
「ぼくの彼女」と青年にしては幼い物言いで、その女性に挨拶をするのが日課です。
このことは、たぶん、以前ブログでも書いたことがあるエピソードです。
その青年が、先日、私たちが片付けをしているとやってきました。
私たちは数日、彼の姿を見ていなかったので、お休みかと思っていたら、
開口一番、「ぼくが挨拶しても、無視したでしょ~。」とちょっと怒っています。
どうやら、私たちが仕事をしている時に、
彼は手を振ったり、「おはよう~」と呼びかけていたらしいのですが、
誰もリアクションをしてくれなかったと、
ちょっと怒ったような、がっかり気味なようなそんな感じでした。
でも、私も年配の女性も全く気がついていなかったので、
「気がついていなかったんだよ。」ということを言いましたが、
疑うような眼差しで、彼は「次は無視しないでね~」と去っていきました。
この青年の自分が誰かに対して起こした行動は、必ず相手に届いているという揺るぎのない確信。
決定権は100%彼にあります。
でも、実際は自分が誰かにむけて起こした行動に対しての決定権は相手にあります。
行動を受け止める権利も相手にあるし、たとえ無視されても相手には無視する権利もあります。
決定権が誰にあるかがわかることは、
自他の区別ができているかどうかにも関わる大切なことだなぁと、
本を読みすすめながら思うことです。
空が高くて、からっとした空気の中、
その友人と宮崎の綾町や矢岳高原にドライブに行ったこと、
帰り着いて、熱々の熱いアールグレーのミルクティーを飲んだこと思い出しました。
機嫌良く過ごしている休日です。
「決定権」についての本を読みました。
ここでいう決定権というのは、
子ども何か行動をはじめるとき、その行動を終わらせるとき、
だれが決定権を持つのか、というようなことです。
私はこれまで、「決定権」などということを意識していなかったので、
なるほどなぁ~と感心することばかりでした。
本で紹介されたエピソードです。
例えば幼稚園で、
「雨が降りそうだから、外で遊ぶのはおしまいですよ。部屋に入って」と指示が出れば、
たいていの子が「雨がふりそうなんだ~、じゃあ、部屋に入るか」と思うものの、
中には、「今、降ってないんだから外で遊べる」と考え、
「雨が降り出すまで、外で遊ぶ」と指示に従えない子もいます。
こういう子どもは、大人に「中に入りなさい」と注意を受けたり、怒られると
言った大人に対して、「このひとは、自分のことを嫌いだから命令するのだ」とか
「いじわるで言っているんだ」と思う可能性があり、
実際にそう受け止めている子もいるということでした。
そして、そのような受け止め方が続くと、
「自分はみんなに嫌われている」とか「自分は怒られてばかりだ」という、
被害的な見方が定着する可能性があるとのこと。
そういう子どもに対しては、
幼稚園の中で、「おしまいを決めるのは先生の仕事」ということを
きちんと教えなくてはいけないということなどが書かれていました。
それは自分のことを自分で選択できる子どもの自主性とは別で、
事柄や場所によっては、決定権が大人にある場合があるよ、ということを
ちゃんと意識させておく必要があるということのようです。
このことで、職場でのできごとを思い出しました。
それは、別の部署で働く、青年のことです。
彼は、私が一緒に働く年配の女性のことが大好きで、
「ぼくの彼女」と青年にしては幼い物言いで、その女性に挨拶をするのが日課です。
このことは、たぶん、以前ブログでも書いたことがあるエピソードです。
その青年が、先日、私たちが片付けをしているとやってきました。
私たちは数日、彼の姿を見ていなかったので、お休みかと思っていたら、
開口一番、「ぼくが挨拶しても、無視したでしょ~。」とちょっと怒っています。
どうやら、私たちが仕事をしている時に、
彼は手を振ったり、「おはよう~」と呼びかけていたらしいのですが、
誰もリアクションをしてくれなかったと、
ちょっと怒ったような、がっかり気味なようなそんな感じでした。
でも、私も年配の女性も全く気がついていなかったので、
「気がついていなかったんだよ。」ということを言いましたが、
疑うような眼差しで、彼は「次は無視しないでね~」と去っていきました。
この青年の自分が誰かに対して起こした行動は、必ず相手に届いているという揺るぎのない確信。
決定権は100%彼にあります。
でも、実際は自分が誰かにむけて起こした行動に対しての決定権は相手にあります。
行動を受け止める権利も相手にあるし、たとえ無視されても相手には無視する権利もあります。
決定権が誰にあるかがわかることは、
自他の区別ができているかどうかにも関わる大切なことだなぁと、
本を読みすすめながら思うことです。