日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

鬼のお面。

2015-02-23 11:47:20 | 発達応援
 鹿児島の桜島は、活発に活動しています。
灰もはらはらと降り、駐車場はうっすらと灰が積もっています。
その灰が昨夜の中途半端な雨で、中途半端に流れていました。
でも、その流されようが、少し、
尾形光琳の「紅白梅図屏風」の流水の部分の様で、うっとり。
鬱陶しい灰も美しくなることもあるのですねぇ。

 さて、みなさんは、こういう光景があったら、どうしますか?

 子どもが勝手に他人のバックを開けて、見ている。
 子どもが何も言わず、他人のポケットに手を突っ込んで、タオルを取って手を拭いている。
 子どもが訪問先の家や施設で、勝手に動き回り冷蔵庫や食器棚を開けたり、押し入れを開けている。

 子どもは好奇心の塊です。
不思議だなぁ、面白そうだなぁ、なんだろう、と思ったら、
即行動に移すし、色々なことをすると思います。

 上記にあげたようなことも、しばしば目にすることだと思います。
かわいらしい、子どもの一面ということで、笑って許される場合もあると思います。

 ただ、発達支援に関わる私としては、すべてアウト!です。
理由は、支援が必要な子どもたちが、小さい頃に許されていても、
大きくなったら許されない行動を自分で修正していく力が弱いと感じているからです。

 もしも中学生や高校生になった時に、他人のバックを勝手に開けて見ていたら、
ましてや、物がなくなったりしたら、真っ先に疑われてしまいます。

 他人のポケットに勝手に手を突っ込む大人は、変態扱いされかねません。

 訪問先の家や施設で、うろつく大人も挙動不審に問われかねません。

 子どもの時に何度言っても、直らないかもしれませんが、
まわりの大人は、優しくバックの位置を変えたり、微妙な笑みでハンカチを貸すよりも、
きちんと「これは私の物よ。勝手に触らないで!」と教えて欲しいと思います。

 うろうろする子どもにも、うろうろして良い範囲を示して、
その範囲で行動することを教えて欲しいと思います。

 許されていたことが許されなくなる境目が、ちゃんと認知できれば良いのですが、
認知する力が弱い子が、大きくなってからそういうことが元で否定されたら、びっくりしてしまうと思います。

 まわりの大人は気長に、根気強く、時には鬼のお面もかぶりながら、
一緒に自立の道を探り、歩いていかなくては!と思うのです。
 
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失敗も経験。

2015-02-22 19:02:12 | 発達応援
 「ピンポ~ン」と玄関のチャイムの音がすると、
猫の梅ちゃんはいちばん奥の部屋まで全力で逃げていきます。

 音の大きさが問題なのか。
音とともに、知らない人が来るからなのか。
前者ならば、聴覚の問題。
後者ならば、音とその後の因果関係がわかっていて、賢い。
どちらが原因かは不明。
できれば、賢いほうを原因に…と目論む猫の日の母でありますにゃ。

 失敗するということが、大人になるとあまりありません。
たまに、失敗しても、自分で回復できたり、
しようと思っていなくても失敗することもあるから、それはそれで仕方ない、
どうカバーするかを考えよう!と思うからでしょうか。
失敗をそう、大きな問題にとらえていないせいかもしれません。

 ただ、私が自分の仕事についての責任は考えなくてはいけませんが、
組織の一員ではなく、組織の中の責任も負わされていない、
お気楽な身分であるからかもしれません。

 小さい頃の失敗は、「ごめんなさい」で済むことも多い気がします。
もちろん、そのことでまわりに迷惑をかけることにもなるのですが、
「ああ、こういうことしたから迷惑かけちゃった。」という実感が子どもになければ、
何が失敗だかわからずに、失敗も経験せずに大きくなっていくように思います。

 そして、年齢が上がるほど、失敗が「ごめんなさい。」で済まなくなるのに、
なんで、失敗したのか、何で怒られているのか、何がいけなかったのかわからずに、
呆然と立ち尽くすだけの大人になって、
本人は困惑、まわりは迷惑、ということになってしまう気がします。

 子どもたちの中には「ほら、危ない!」とか
「それはしちゃダメ!」と失敗しそうなことには、
事前に大人がストップをかけて、失敗の経験を極力させられていない場合があります。

 一見、お行儀が良いのですが、
そういう子は、自分のした行動がどういう結果になるか予想ができずに、
結果が予想できないため、同じような場面で同じようなことを繰り返して、
同じように「だめ!」と注意されて…の繰り返しじゃないのかな、と思うことがあります。

 失敗して、子どもが心から「しまった!」と動揺して、
それから「だめ!」と注意を受けたほうが、
年齢なりに因果関係がわかって、失敗を繰り返さない、
あるいは、失敗を自分で振り返ることができるのではないかな、と思います。

 子どもがあまりに小さいとその失敗の尻拭いは保護者にまわってくるので、
そこの部分が面倒な場合もあると思います。

 そんな時は、しっかり、尻拭いをしてあげて、子どもに恩を着せて、
幼心に「気をつけなくちゃ!」を植えてあげたら良いかな、と思います。

 私は、たくさん尻拭いをしてもらって、恩を着せられて、
心に刻んでも、なお失敗して…の繰り返しで大きくなりました。
まわりの大人に感謝、感謝ですね。

 

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脱力自在。

2015-02-21 21:39:29 | 発達応援
 夕べ、夜にどどんっと振動。
ああ、桜島が爆発したのね~、灰が来るかなぁ~。
朝、車もバイクも灰まみれ。
昼過ぎ、外に出ると灰がはらはら降っています。
タイヤが滑らないように、バイクもそろいそろいです。

 力を抜いて!と言われて、
瞬時に力を抜ける人と抜いているつもりの人がいます。

 どちらがいい、悪いはありませんが、
無用な力は抜けたほうが、力のムダ使いをせずに良いかと思います。

 私の少ない経験で、
「はい、横になって~。目をつぶって~。いいよ~というまで動かないでねぇ~。」
といったとき、動かずにゆったりしていた子どもとは、
いまだ、ひとりしか出会ったことがありません。

 みんな、目をぎゅっとしすぎていたり、
足がごにょごにょ動いたり、指がぴょこぴょこしていたり、
目をつぶっているのに眼球運動がすごかったり。
なかなか、どーんと力を抜いて、
時間とともに呼吸も深くなっていくという子どもはいません。

 それだけ、みんな緊張したり、からだに力を入れて過ごしているのですね。
学校でも「ぴしっとして!」とからだに力を入れる動作はするし、教えるけれども、
力を抜くことはあまり教えていない気がします。
もしかしたら、まったく教えていないかもしれませんね。

 大人でも緊張が過ぎると、からだの力の抜き方がわからなくなっている方もいらっしゃいます。

 自分が力を入れたい時に力を入れる、力を入れなくていいときは抜く。
力の出し入れが自分の自在になるといいなぁ~と思いながら、
フォイヤーシュタインやアロマの時にお伝えしています。

 

 

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選択の自由。

2015-02-20 16:07:47 | 発達応援
 昨日から天気予報で、
「放射冷却で寒いでしょう」と言っていましたが、
今朝の通勤は久しぶりに空気の冷たさを感じました。

 家を出て、バイクを走らせていると途中、川があります。
その川を境にして、体感温度が変化します。
こういうのを感じるのもバイク通勤の醍醐味ですね。
まぁ、感じなくてもいい気もしますが。

 人と人との関係は難しいものです。

 ちょっとした失言。
でも、小学校だったら、きっと反省を促されるような失言がありました。
簡単にいうと、体つきに対する失言です。

 その場にいたものは、私をはじめ、皆、一瞬凍りましたが、
失言された方は、失言とも感じず、繰り返し同じ発言を面白そうにされました。

 私は「わ~、しつこいなぁ。小学生か!はい、おしまい!」と言って、
その体つきを揶揄する発言を無理やり、幕を下ろさせたのですが、とき既に遅し。

 いわれた方は、その場では笑い、「まだ言うか!」と応じていらっしゃいましたが、
その後、お二人の関係はぎくしゃくしています。

 言った本人は、言ったことも忘れているのでしょう。
でも、近頃、自分と話をされないし、話しても目が合わないから、
私、避けられているんだ…、と気にされています。

 言った本人以外は、皆、なぜそうなったか、
ああ、あのときの発言がきっかけだと、理解しています。

 学校での学習には困難がなくても、
コミュニケーションの力や察する力がないとこういう事態に陥るのものですね。

 でも、話をしたくない相手と話をしない選択はあると思います。

無視するなんて、最低!ではなく、無視する権利は、私にも、相手にもある。

 同じく、「どうして話してくれないの!」と聞く権利もあり、
相手には、それに答える権利も答えない権利もある。

 そういうことを日々、この事態に接して考えるのです。

 そして、私が今まで接してきた子どもたちは、
自分に選択の自由があり、相手にも選択する自由があることを知る機会、
わかる学習をしてきたかなぁ、と振り返るのです。

 選ぶこと、選ぶ自由があること。
自分を認めて、相手を認めることにつながる大切なことですね。



 
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退屈しのぎ。

2015-02-19 20:25:48 | 発達応援
 裏の家の庭で梅が満開で、家も畑見えません。
なんて、きれいな!猫もうっとりです。
これだけ満開の梅の木に、どれだけの梅がなるのか。
よその家のことだけど、楽しみです。

 子どものときに、「ああ~、ひまだなぁ~」とか、
「たいくつだなぁ~」と思うようなことがありました。

 一人っ子だったので、からむ兄弟姉妹もおらず、
日曜日や祝日は、普段、学校から帰って遊んでいる友だちの家にも行ってはいけませんよ、という
私が子どものときはそうだったのか、それとも、うちだけの暗黙のルールだったのか、
縛りもあったので、公園などで偶然出会えば遊びますが、
退屈な休みの日というのも、けっこうあった気がします。

 何度も読んだ漫画を読んだり、その漫画の絵を描いてみたり。
ひとりトランプをしてみたり、トランプでピラミッドをたててみたり。
新体操の選手に憧れて、竹のものさしにリボンをくくり付けて踊ってみたり。
足の指と手の指であやとりしたり。
鞠つき1000回を自分に課してみたり。
勉強をしてみよう!というのだけは思いつかず、
その他、もろもろやっていた記憶があります。

 私が退屈をしていたとき、うちの家で父や母は何をしていたのかというと、
父は家でやる自分の仕事があったので、それに打ち込んでいました。
母も自分でやりたいことをやっていたので、
子どもの相手をしましょう~ということは、そうなかったように記憶しています。
でも、それは特別なことではなく、自分にとっては当たり前のことだった気がします。

 私が支援で関わった子どもたちは、
この「退屈しのぎ」がとても苦手で、休みの日も何しよう~、という感じでした。

 自分で自主的に何かを創造したり、想像することが苦手だからかもしれません。
でも、ときには、父は父がしたいことを、母は母がしたいことを、
子どもは子どもがしたいことを、したいことがなければ放っとくことも必要かもしれませんね。

 計画や予定がないとこで、時間をつぶす。
人生では大切かもしれません。
 
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