石巻で、震災の記録書ともいうべき新刊書を購入した。
うち1冊が三陸河北新報社発行の「津波からの生還」
であった。図書は石巻地方へ発行する日刊紙「石巻か
ほく」に「私の3・11」のタイトルで連載されたものを編
集したものだった。
いくつもある《体験》のなかで、「児童に山へ登れと叫
ぶ」を紹介しよう。
相川湾に面する相川小学校校では、津波が起こっ
た時の避難行動は、昔から高台のお宮さんに児童たち
避難させるように決まっていた。地震発生後、校長の片
倉誠之助先生は、子供たちをお宮さんへ逃がしたが、
津波は想像を超えるものだった。「山へ登れ!!」 と
片倉校長は叫んだ。必死に山を登る子供たち。
震災の5日後、10人の卒業式を行う。その時の状況は
次だった。
「卒業式は学校近くの道路で行われた。卒業証書はあ
りませんでしたが、『卒業、おめでとう!』 お祝いの言
葉を贈りました。涙を流す子どもたち。教師たちは声を
振り絞り、校歌を歌いました。横断幕も、花もない殺風景な式典
でしたが、涙、涙の感動の卒業式になりました」
その光景が見えるようではないか。
石巻に限らず津波の跡をたどるには「足」をどうするかが
問題となろう。私は石巻市に着くとすぐ、レンタカーを借りた。
正解だった。女川や大川小学校など石巻から離れると、そ
こまでどうして行くかが最大の問題になるからだ。
ところが石巻市は小都市とえども、かなりな広さ。そして、海
と市の中心地の間には日和山という丘陵地がある。
石巻滞在二日目、私は市役所へ行った。市役所はjrの駅近くにあり、
市役所へ行けば、なにか資料を得られるであろう、と思った。
甘かった。
久しぶりに飛行機に乗った。石巻市へ行くのにpeachを利用した。
関空も久しぶりだ。peachは第2ターミナルから出発する。
関空はものすごく大きくなっている。
たまたま選んだ朝7時30分発仙台行きがめちゃ安い料金にぶ
つかった。それで、ぎりぎり空港へ駆け込むのを避けて、空港近
くのホテルに前泊した。
この計画は全てによかった。空港の仕組みも分った。
飛行機は定刻通り出発。新幹線のように「のぞみ」や「ひかり」の
ように遅い、早いがない。飛行機は快適だった。その代わりサー
ビスは一切ない。
短い時間でも食事を出す外国旅行よりすっきりしている。
1時間で飛行機は仙台へ。
仙台空港にはjrが待ってくれている。仙台からは、仙石線で石巻
に向かうのだが、仙石線は津波の影響で松島海岸かちょん切れ
ていて、代行バスが切れた鉄路をつなぐ。人々の多くは直通バス
で石巻に行くそうだ。私は列車やバスを乗り継いで被災地へ行く
方が変化があっていいと思った。
女川町は町村合併で石巻市に入らなかった。多くの復興地域を
抱える石巻市と違って、云わば単独で計画を推し進めるこ
とが出来る。やりいいのか、それは旅人には分らない。のっ
ぺらぼうになった被災地で力強く重機が働いているのを見て
最も人的被害が多かった女川町の復興を願わずにいられな
かった。
帰り道、路傍に児童像があった。像はヘルメットを被っていた。
車を安全な所に止め、雨の中を像まで歩き、手を合わせた。
この写真は「重くて」アップできない。残念!
波が引いたあと、累々たる児童たちの死体に住民らは
息を呑む。言葉が出がない。散乱するランドセル、教室
の机など・・・
高くなっている橋へ移動しようとグラウンドから歩き出し
た全学童へどす黒い大津波が襲った。
校庭の横には逃げようと思えば、はいあがることの出来る
低い山がある。
そこへ何故走らなかったか。
山と堤防にさえぎられ、波を確認することが出来なかったの
だ。津波は湾に集中してきた海水が狭い通路状になった北
上川を逆のぼる。波はいきなり校舎の上からやって来た。
もうひとつ重大な見落としを行政も地域住民までもしていた。
学校がなにかあった時の避難所になっていた。
これまでの津波に影響がなかったからだ。
地元新聞の報道によると、県も「大丈夫」だといっていた。
郵便局も警察、駐在所も流された。住民の犠牲者は地区の
4割に当たる74人に及ぶ。
学校にいて児童の世話をしていた先生は11人中9人が亡く
なった。
これだけの犠牲を払ったのだから、後の人達に確実に伝えな
ければなんとする。