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人生アラカルト

どうせ過ごすなら楽しくね。

かおるちゃん頑張る

2023-11-06 21:00:58 | 友達
かおるちゃんは原発に就職した時に
舞鶴から京都に遊びに来た。

若狭のある農家に婿養子入ったかお
るは200万円だったか400万円だった
か貯めたといっていた。

しんどかったといっていた。すでに
女の子をもうけていた。
奥さんは一人娘だったのでいっちゃ
悪いが婿養子の役目を果たし、さ
らに倉を作ったと嬉しそうに話して
いた。

かおるちゃんがくもった声で電話を
掛けてきた。
妻が白血病で東舞鶴の病院に入院し
た、と。

電話の向こうでぽつぽつ話すかおる
ちゃんの顔を思い出す。
彼は背が高くなくがっしり体付きだ
った。農村青年そのもの。
仕事は農作業と原子力発電所の仕事。
私には想像もできない離れた内容の
仕事だった。

かおるちゃんの人生

2023-11-06 10:24:00 | 友達
第2次大戦末期のころ、私たち一家は
京都市内から、京都府の東舞鶴へ移っ
た。父の職業は学校の先生。京都府教
委から、東舞鶴の旧制中学校校長へ異
動した。

一家は校長官舎へ引っ越した。
いきなりの田舎暮らしは都会から来た
ものには珍しいことばかり。

そんなころ同級生の「かおるちゃ
ん」と親しくなった。

都会っ子にとって、オタマジャクシな
んて初めて見る小動物で、すぐに手足
が生えてカエルになるんや、とかおる
ちゃんは教えてくれた。

仲良くなったかおるちゃんとは長く付
き合った。

私たち一家は再び京都へ戻ったが、
かおるちゃんの訃報を聞いたのはお互い
青年になってからであった。

かおるちゃんの短い人生には婿養子とし
ての苦労が詰まっていた。





米軍機の思い出

2023-11-03 16:06:52 | 父の事
東舞鶴という京都府の北端の
舞鶴湾近くに我々一家は住ん
でいた。
第2次世界大戦の終わりごろ、
3,4年いた。
東舞鶴は軍港であった。

だから、空襲に遭ったこともあ
った。

家からすぐに山であった。
舞鶴湾を取り囲むように山に囲われていた。・・・今もそうだが

終戦前の事。
ある日山を登っていると米軍の戦闘
機1機が山すれすれに飛んできた。撃
たれる、と思った。
だが攻撃はなかった。
飛行機はそのまま湾に浮かぶ日本の海
軍の艦隊へ向かって飛び去った。
飛行機の目的は舞鶴湾であった。
すぐに湾から煙が立ち上った。

米軍機による日本艦隊への攻撃は激烈
であったと。

当時私は国民学校3,4年生のころ。父は
東舞鶴の旧中学校の校長をしていた。

東舞鶴では、爆弾だけでなく、米軍機に
よるチューインガムやチョコレートなど
ばらまきがあったが、「拾うな」という
学校の指示を子供たちは守っていたよう
である。



8日に米寿を祝って

2023-11-03 09:49:07 | 80はミステリーゾーン
8日に私の88歳を祝って米寿
の会を兄弟たちが上越に集まり
開いてくれる。

兄弟は私を頭に4人そろって健
在。私を除いて3人が夫婦そろ
って元気。会には従妹が1人出
席する。

38年前、京都で高校の校長を
してい父が病死した。母と4兄
弟は、父が住職をしていた金沢
のお寺に移住した。
そして今兄弟が住んでいるとこ
ろは私のすぐ下の妹が富山県、
弟は石川県、末の妹は埼玉県。
弟が石川県金沢市金石のお寺の
父のあとを継いで住職をしてい
る。(続く)