8/18付の朝日新聞の記事が、心に残ります。
記事の見出しは、【「感染者死者1」あなたは誰】
記事に登場した長崎市の森田さんは、20年来、原爆で亡くなった人々の名前を
戦没者名簿に筆で記す筆耕を続けている。
作家の姜信子さんは、社会から強制的に隔離されたハンセン病患者をはじめ、
自らの名前や生きてきた記録を許されなかった人々の足跡をたどり、書き記し
てきた人。在日韓国人三世でもある。
コロナ禍のニュースでは、毎日積みあがる死者や感染者の数が報じられている。
しかし、その人がどんな名前を持った人なのかは、プライバシーの問題やその
家族の状況や心情に配慮した形で、名前を隠した形でその数だけが報道されて
いる。実名報道されることで、その当人や家族が、誹謗中傷を受ける異常な社
会状況下であることは、悲しい現実でもあるのだと思う。
しかし、森田さんは、『どの名前にも名付けた人の祈りが深く込められている』
と語り、亡くなった人々の『生まれた証し』の記録を続けています。
姜さんは、コロナ禍でことに亡くなった人の名前が隠され、数字として語られる
ことに、『もうずっと前から私たちはそのことに慣れ、そのことだけではなく、
自分が数字にされていることにも慣れている』と語っています。
その現実に対し、姜さんは『名前は、一人一人の命に与えられた、最も固有の言葉
であると同時に、命と命のつながりの証し』と語ります。
そしてさらには、『名前が数字にされた時、個々の記憶は世界とのつながりを失っ
てしまう。名前と命の結びつきを取り戻すのは、今の社会を作り直す、最初の一歩
なのだと思います。』と語ります。
先日、学び直しのボランティア活動の中で、二つの詩を取り上げました。
石垣りんさんの『表札』と新川和江さんの『わたしを束ねないで』の詩です。
『表札』では、最後の連で
精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。
と語られ、『わたしを束ねないで』の最後には
わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩
と語られています。
二つの詩には、共通した主張があります。
『表札』の詩に書かれている 精神の在り場所は、石垣りんという人の中に
あるのですね。そこは、誰にも侵すことのできない その人だから持つことの
できる その人自身の大切なよりどころとなる場所。
ハタからどう思われようとも、勝手な表札をかけられようとも 私は 石垣りん
という名前の 一人の人間なのです。 という声が聞こえてきます。
『わたしを束ねないで』では、わたしは 一つに束ねられるような存在では
なく、ハタからこうだと枠をはめられるような束ねられる存在ではないのです。
一つに束ねることのできない 自由に流れ拡がっていく わたし(という存在)
なのですから。 という声が聞こえてきます。
共通しているのは、わたしは、名前を持ち、ハタから表札をかけられるような
一つの枠におさまる存在ではなく、自由な精神の在り場所を持つ 一人の石垣
りんであり、一人の新川和江という人間である。
そんな声が聞こえてくるような気がしてなりません。
新聞の記事同様に、二つの詩を通して、数字であらわす人間の存在そのものが
いかに無味乾燥で、名前を持った一人一人が、いかにかけがえのない大切な存在
であり、一人一人が尊い命と精神を持った存在であることを 強く感じます。
名前と命の結びつきの意味や価値を 見直すことのできる これからの社会で
ありたいものだと 痛感します。
表札
石垣 りん
自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。
自分が寝泊まりする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない。
病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様が付いた。
旅館に泊っても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼き場の罐(かま)にはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私がこばめるか?
様も
殿も
付いてはいけない、
自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。
精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。
わたしを束ねないで
新川 和江
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂
私を止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください 私は羽撃き
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音
私を注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮 ふちのない水
私を名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
座りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
私を区切らないで
・(コンマ)や・(ピリオド) いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩
記事の見出しは、【「感染者死者1」あなたは誰】
記事に登場した長崎市の森田さんは、20年来、原爆で亡くなった人々の名前を
戦没者名簿に筆で記す筆耕を続けている。
作家の姜信子さんは、社会から強制的に隔離されたハンセン病患者をはじめ、
自らの名前や生きてきた記録を許されなかった人々の足跡をたどり、書き記し
てきた人。在日韓国人三世でもある。
コロナ禍のニュースでは、毎日積みあがる死者や感染者の数が報じられている。
しかし、その人がどんな名前を持った人なのかは、プライバシーの問題やその
家族の状況や心情に配慮した形で、名前を隠した形でその数だけが報道されて
いる。実名報道されることで、その当人や家族が、誹謗中傷を受ける異常な社
会状況下であることは、悲しい現実でもあるのだと思う。
しかし、森田さんは、『どの名前にも名付けた人の祈りが深く込められている』
と語り、亡くなった人々の『生まれた証し』の記録を続けています。
姜さんは、コロナ禍でことに亡くなった人の名前が隠され、数字として語られる
ことに、『もうずっと前から私たちはそのことに慣れ、そのことだけではなく、
自分が数字にされていることにも慣れている』と語っています。
その現実に対し、姜さんは『名前は、一人一人の命に与えられた、最も固有の言葉
であると同時に、命と命のつながりの証し』と語ります。
そしてさらには、『名前が数字にされた時、個々の記憶は世界とのつながりを失っ
てしまう。名前と命の結びつきを取り戻すのは、今の社会を作り直す、最初の一歩
なのだと思います。』と語ります。
先日、学び直しのボランティア活動の中で、二つの詩を取り上げました。
石垣りんさんの『表札』と新川和江さんの『わたしを束ねないで』の詩です。
『表札』では、最後の連で
精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。
と語られ、『わたしを束ねないで』の最後には
わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩
と語られています。
二つの詩には、共通した主張があります。
『表札』の詩に書かれている 精神の在り場所は、石垣りんという人の中に
あるのですね。そこは、誰にも侵すことのできない その人だから持つことの
できる その人自身の大切なよりどころとなる場所。
ハタからどう思われようとも、勝手な表札をかけられようとも 私は 石垣りん
という名前の 一人の人間なのです。 という声が聞こえてきます。
『わたしを束ねないで』では、わたしは 一つに束ねられるような存在では
なく、ハタからこうだと枠をはめられるような束ねられる存在ではないのです。
一つに束ねることのできない 自由に流れ拡がっていく わたし(という存在)
なのですから。 という声が聞こえてきます。
共通しているのは、わたしは、名前を持ち、ハタから表札をかけられるような
一つの枠におさまる存在ではなく、自由な精神の在り場所を持つ 一人の石垣
りんであり、一人の新川和江という人間である。
そんな声が聞こえてくるような気がしてなりません。
新聞の記事同様に、二つの詩を通して、数字であらわす人間の存在そのものが
いかに無味乾燥で、名前を持った一人一人が、いかにかけがえのない大切な存在
であり、一人一人が尊い命と精神を持った存在であることを 強く感じます。
名前と命の結びつきの意味や価値を 見直すことのできる これからの社会で
ありたいものだと 痛感します。
表札
石垣 りん
自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。
自分が寝泊まりする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない。
病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様が付いた。
旅館に泊っても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼き場の罐(かま)にはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私がこばめるか?
様も
殿も
付いてはいけない、
自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。
精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。
わたしを束ねないで
新川 和江
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂
私を止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください 私は羽撃き
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音
私を注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮 ふちのない水
私を名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
座りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
私を区切らないで
・(コンマ)や・(ピリオド) いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩