震災が起きてから4ケ月余り経ちました。仮設住宅が建ち,漁港ではカツオ等の水揚げができるようになり,復興へ道は少しずつ目に見える形で進んできたような印象があります。町づくりそのものを具体的に進めて行く上での課題や新たな課題等も山積しているようですが,一日も早く被災された方々が希望をもち笑顔で生活できる環境が整うことを願います。
一方では放射能で汚染された食肉の流通問題も生じ,福島の方々の心労は休まることがないのではないかと思います。丹精込めて育てた牛も,作物も,船から水揚げされた魚も,市場に乗せて売ることができない状況の中,新たな形で風評被害が拡大し,安全なものまで市場から締め出されることが心配になります。そこで生きるための術さえ奪われていくことは,どんなに辛いことでしょう。また,避難地域に指定され,もどりたくても故郷の地に足を踏み入れることのできない福島の人の悔しさや悲しさを想います。
いい方向へ変わりつつあるものと何も変わらないものがあり,さらには時間が経過することで,悪化するものまであるのですね。何とかならないのかとこらえきれない憤りを感じます。
今日の新聞の「鎮魂を歩く」のコーナーに,岩手県山田町の船越漁協に勤めていた夫婦のことが掲載されていました。二人は職場結婚だったそうですが,奥さんの繁子さん(40)は津波で亡くなり,残されたのはご主人の敏明さん(41)と長男の一史さん(12),隼人さん(8)の男ばかりの3人です。敏明さんは,几帳面な繁子さんに家のことをすべて任せていたことを後で実感します。それだけなくてはならない,大切な妻であり,母であり,かけがえのない存在だったのだと思います。3人そろって泣いたことが,これまで4回あったそうです。
繁子さんが行方不明だった震災3日後,「もう会えないと覚悟しろ」と告げ,3人でだきあった時。遺体が見つかり,花と線香を手向けた時。火葬の時。葬式で喪主の挨拶をした時。
それでも,ふとした時に思い出がよみがえるそうです。着ていた服を見つければ卒業式の日のこと。おけが出てくると,一緒に子どもたちを風呂に入れた時のこと。食事の時に,よくけんかになったこと。
「でも,ほんとにいなくなるとよ。けんかだっていいから,あいてえよ。」
敏明さんの思いが切々と伝わってきます。小さい子どもさんたちも,ふと同じ思いになる時がたくさんあるのではないでしょうか。三人の心の中に,今でもしっかりと繁子さんは生きているのだと思います。
記事の中に,笑顔の繁子さんと自宅の一画にかかっている繁子さんのブラウスの写真がありました。ブラウスと一緒になって,今でも繁子さんが3人の男たちを家の中で温かく見守っているような気がしました。
繁子さんのご冥福と 男3人の幸せを 心から祈ります。
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