あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

春の気配

2013-02-17 17:37:45 | インポート

立春を過ぎ、三寒四温の言葉通りに寒暖の日が交互にやってくるような印象があります。春一番かと思わせるような風も吹き、少しずつ春に向かって季節が動き始めている感じがします。

家の庭や畑には、まだ雪が溶けずに残っていますが、日当たりのよいところから地面と緑が少しずつ顔を見せ始めてきています。もう少しすれば、雪もすべて消えそうです。

毎年、庭の一画に ふきのとうが芽を出す場所があるのですが、今はまだ雪に覆われた状態です。雪の下で春を迎える準備をしていることと思います。雪が溶けたら一気に芽を出すでしょうから、その時を逃さず収穫をして 春を味わわせてもらおうと思っています。

近くの水田には渡り鳥の雁や白鳥が群れをなして舞い降り、餌をついばんでいる様子を見かけるのですが、寒さがゆるむにつれその姿も少しずつ見られなくなることと思います。

晴れた日の空の青さも、凛とした色合いから穏やかな色合いへと変わりつつあるような印象を受けます。吹きつける風も、冷たさを心地よく感じられるようになってきました。

こうして 一日一日 近づく春の息吹と気配を感じていくのでしょう。

3月になれば、卒業・進級・進学・就職・転勤と いろんな行事や新たな旅立ちの中で、あわただしく人も心も動く時期を迎えます。2年目の3.11もやってきます。

だからこそ、今はゆったりとした気持ちで 春と向かい合う時間を大切に過ごしていきたいものだと思っています。

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演劇 「くにこ」 を見て

2013-02-17 00:18:45 | インポート

今日は、仙台演劇鑑賞会の2月例会:文学座の「くにこ」を見てきました。向田邦子の少女期から青春期を描いた作品です。邦子を演じた栗田桃子さん、父親役の角野卓造さん、祖母役の塩田朋子さんの演技が特に印象に残りました。30人を超える登場人物を出演者:9人で演じていたので、それぞれの俳優の方々の演技力を多様に味わうこともできました。改めて、ライブである演劇の良さを実感しました。

ゲーテの「野バラ」の詩に込められた深い意味。手折られた花の痛みと、花のトゲを刺された心の痛みはどちらが痛いのか。

事前に目にふれた パンフレットに書かれた一節が妙に心に残り、そのことを考えながら観劇しました。劇全体は、家族の心の結びつきやその中で成長する邦子の人間性がどこかユーモラスで温かく描かれているのですが、ところどころに深い意味を込めたセリフが散りばめられていました。

そのセリフを自分なりに解釈すると、

喜びの裏に悲しみがあるように人生は裏表の関係で成り立ち、また男女の関係も同様である。一つ一つの出来事や思い出が紡ぎ合うように人生は織り込まれていく。

劇の山場は、妻子ある男性を愛した邦子の苦悩であり、浮気をした父と家を出ようとした母の和解に奔走した邦子の姿であったように思います。邦子は、父が浮気した女性と会い、母親が父親のために積み重ねた時間の尊さを 持ってきた 母のすれ切れた足袋や 使いこなした鍋といった物を 見せながら語ります。そのことに 心を打たれ、浮気相手の女性は自らの意志で身を引くことになります。それはまた、自分にとっても妻子のある男性のもとから身をひくという決断でもあったのかもしれません。

母の痛みは、手折られた花の痛みであり、父の痛みは、花のトゲを刺された心の痛みだったのかもしれないと思いました。では、邦子の痛みはどちらだったのでしょうか。

どちらであっても、人生とは、そういった痛みを抱え 乗り越えながら 生きていくのだということを、向田邦子さんは 言葉を紡ぎ 台本を書き 作品を世に送り出しながら、伝えたかったのかもしれません。

劇の向こうから、そんな思いが伝わってくるような感じがしました。

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真央スマイル

2013-02-12 08:26:29 | インポート

フィギィアスケートの四大陸選手権を見ました。特に印象に残ったのは、SPの終了後に見せた浅田真央選手のはちきれんばかりの笑顔でした。これまで封印してきたトリプルアクセルを完璧な形で成功できた喜びがあふれ出た笑顔だったのでしょう。デビューしたての頃に見せた笑顔を思い出させる無邪気な笑顔でもありました。

長い不調の時期があり、お母さんとの悲しい別れも体験しました。それらを乗り越えていくために、たくさんの努力と苦労を積み重ねてきたのではないかと思います。その成果が少しずつ実を結び、今季はいろんな大会で優勝することができました。でも、その後のインタビューで語る言葉には、喜びではなく まだまだ課題が多く努力が必要だ といった厳しく自分を評価する 思いを感じました。見せる笑顔にも、すっきりとしない 印象がありました。

でも、今回の大会で見せた笑顔は、くもりがなく、心から喜びを表現する さわやかな笑顔でした。自分の目指す最高の演技ができたという充実感もあったのだと思います。ひとつの山を登り終えたような だからこそ 次に目指す 山の頂も見えてきたような 前向きな笑顔でもあったと思います。

絶えざる向上心の中で、自らの表現力を磨き続ける浅田真央選手。3月の世界選手権でも、はちきれんばかりの 輝く笑顔をみたいものだと 思います。

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ごんぎつね を思い出して

2013-02-09 10:31:54 | インポート

先日  天声人語に、新美南吉の書いた「ごんぎつね」が取り上げられていました。ごんぎつねは、教科書にも掲載されている作品なので、ご存知の方もたくさんおられることと思います。その中で紹介された二つの短歌が、ごんの住んでいた世界を想い出させてくれました。

○ごんぎつねも通ったはずの川堤(かわづつみ)燃え上がるようにヒガンバナ咲く   中村桃子

○名にし負わば違(たが)わず咲きし彼岸花ごんぎつねの里真赤に染めて     伊東紀美子

いずれも朝日歌壇に投稿された短歌で、作者はどちらも南吉の生まれた愛知県の方だそうです。南吉の故郷(愛知県半田市)を訪れた折りに、ヒガンバナを目にされてつくられたのでしょうか。

物語の中で、ヒガンバナは次のように描かれています。

~ 墓地には、ひがん花が、赤いきれのようにさき続いていました。 ~ そう列は、墓地へ入ってきました。人々が通ったあとには、ひがん花がふみ折られていました。

ごんの視点で描かれた 情景の中に たったこれだけしか ひがん花は登場しないのですが、なぜか とても心に残ります。毎年、ひがん花を見かけると、私の心の中にまず第一に浮かんでくるのが、この情景であり 赤いきれのようにさき続く 花のイメージです。このひがん花の咲く墓地で ごんは兵十のおっかあの死を知ることになり、それがその後のごんの気持ちと行動を 大きく変えてしまいます。

~そのばん、ごんは、あなの中で考えました。「兵十のおっかあは、とこについていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。それで、兵十が、はりきりあみを持ち出したんだ。ところが、おれがいたずらをして、うなぎを取ってきてしまった。だから、兵十はおっかあにうなぎを食べさせることができなかった。そのまま、おっかあは、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと思いながら死んだんだろう。ちょっ、あんないたずらしなけりゃよかった。」

自分と同じひとりぼっちになった兵十に つぐないをしようと くりやまつたけを運び続けるごん。その行為が神様のしわざとされても つぐないを続けます。ひがん花は、こういったごんの心情をつくりだした起点の情景としてイメージされるから、印象に残ったのかもしれません。

最後の場面で ごんは 兵十に火なわじゅうでうたれてしまいます。

~「ごん、おまえだったのか、いつも、くりをくれたのは。」 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました。

うった後に、ごんの行為に気づく兵十。これまでの行為(つぐない)を兵十にわかってもらえたことに、うなずく ごん。青いけむりは、こういう結末でわかりあえたことを象徴するものであったのかもしれません。さらに色にこだわって考えるならば、赤いひがん花の赤は、ごんの献身的な行動を象徴する色であり、青いけむりの青は、その献身が 自分と同じひとりぼっちになった兵十によせる純粋なつぐないの思いであることを象徴する色だったのかもしれません。

ごんの側に立って考えると、ごんと兵十が 最後の一瞬であってもわかりあうことできたことには 大きな意味があるように感じます。ごんは、自分がくりやまつたけを届ける行為を神様のしわざにしてほしくない、自分のつぐないとして兵十に理解してほしいと強く願っていたのではないでしょうか。だからこそ、兵十にうたれたという事実よりも、自分のしたことを兵十に認めてもらったことの方が、はるかに意味があり うれしい出来事だったのではないかと思います。

兵十も、くりやまつたけを届けてくれたのがごんだと気づき、その行為がごんのつぐないであったと 受け止めることができたのではないかと思います。しかし、その行為の主を自分の手でうってしまったという後悔の念は、消えることはないでしょう。ごんも、後悔の念からつぐないを考えました。後悔が後悔を生む わかりあうことの難しさを描いた作品としてとらえるなら、大人の童話とも言える作品なのかもしれません。

その意味では、子どもとこの作品を読み進めていく時には、ごんの側によりそう形で読んでいった方が適切なのかもしれません。最後の場面も、悲しい結末であるけれども、自分の行為とつぐないの思いを兵十にはわかってもらえた というごんの気持ちに焦点をあてて読んでいくことに 重きを置いた方がいいのかなと思うのですが …… 。ただ、この作品を学習する子どもたちは4年生で、この時期の子どもたちはこれまで以上に感性が豊かに磨かれ、物事を深く見つめたり考えることができるようになってきます。そう考えると、兵十の気持ちも子どもなりに読み取っていけるように思います。わかりあうことの難しさと同時に、わかりあうことの大切さも感じとってくれるのかもしれません。

ひがん花からスタートしながら、どう読むかという方向にまで、足を延ばしてしまいました。道草をくいすぎてしまったようです。それだけ「ごんぎつね」という作品が好きな証拠なのかもしれません。南吉の故郷、愛知県半田市には『新美南吉記念館』があるとのこと。そこには、ごんぎつねに出てくる場所が再現され、散歩コースがつくられているそうです。いつか、出かけてみようかなと思っています。

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インフルエンザ流行の時期を迎えて

2013-02-06 10:23:06 | インポート

東京の老人介護施設で働く娘が、インフルエンザで数日ダウンし、昨日からやっと仕事に復帰できたようです。ただ病み上がりの体調だったにもかかわらず、ハードな勤務が割り当てられ、昨日は朝早くから働き4日連続しての勤務が続くようです。本人の体調や回復状況を見て働いてもらうという配慮は、雇用者側にはないようです。休んだ分を取り返してもらうように働いてもらうといった言葉を上司からもかけられたとのこと。インフルエンザにかかる前には、他の職員が体調を崩して休んだたために、休日返上で働き、その疲労で体力的に弱まったところで罹患したのではないかと推察していたのですが……。

十分な人員配置ではない現状が、働く側の負担を大きくしているような印象があります。介護する方の健康を守る立場の者が、自らの健康を守れないような労働環境でいいのだろうかという疑問も抱きました。自分なりの志を持って職場を選んだので、娘なりに一生懸命働いてはいるのですが、親としては娘の健康を第一に心配しています。遠くで働いているので、病気になった折りに、すぐに駆けつけることができませんし、そばで見守ることもできません。親バカなのかもしれませんが、今はハードな職場環境に負けずに娘が健康回復できるよう祈るだけです。近いうちに、娘の顔を見に上京したいと思っています。豪華なデイナーでも一緒に食べて、元気づけできたらと考えています。

娘のように親元を離れて都会で働く若者たちは、たくさんいることと思います。インフルエンザの流行の中、くれぐれも体調面での管理を万全にし、健康で働くことのできる日々であることを祈りたいと思います。

また、同時に 心身両面で 働く人たちが 安心して仕事に専念できるような職場環境であってほしいと願います。企業論理の中では、利潤追求が求められ、現在の厳しい経済環境下では、一番に人件費の節約が求められる状況にあるのかもしれません。それだけ、働く側にとって厳しい現実があるのかもしれませんが、雇用側が働き手を単なる労働力と見なさずに、会社にとって貴重で大切な人材ととらえる目を持ってほしいと思います。それは、働き手一人一人の個性や健康面にも十分に配慮し、持っている力が十分に発揮できるような職場環境をつくっていくことにもつながります。

理想論かもしれませんが、働き手が働きがいを実感できる働く場所であってほしいと思います。

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