DNAの増幅法であるPCR (polymerase chain reaction)の発明者でノーベル化学賞受賞者 (1993)であるキャリー・マリス博士(Kary Banks Mullis 1944-2019)の伝記「マリス博士の奇想天外な人生」(福岡伸一訳、早川書房2000)はとても面白い。マリスはアメリカの生んだ型にはまらない破格の科学者で、その破格ぶりはこの書にいかんなく披露されている。
(1993年キャリー・マリスノーベル化学賞受賞)
マリスは1966年に「時間逆転の宇宙論的な意味」というタイトルの論文をNature誌に投稿した。当時、彼はカリフォルニア大学バークレー校の生化学専攻の無名な大学院生にすぎなかった。天文学や宇宙論の専門でもなく、ひやかしのつもりで投稿した論文がNatureに採択されるなどとは、まったく期待していなかった。しかし、驚くべき事にそれは掲載と判断され堂々とNatureの数ページを飾ったのである。世界中から、その論文別刷りの請求が届き、通信社は「奇想天外なSF小説に聞こえるかもしれないが、マリス博士の鋭い洞察によれば宇宙に存在する物質の半分は時間に逆行しているという」と報じた。まだ大学院生だったマリスは面食らって科学の世界はどこか狂っていると感じたそうだ。
後にPCR法を開発したマリスは、このときも意気揚々と原稿をNatureに投稿した。この本によると方法はデートの最中に思いついたそうである。革命的な発明とおもえたので(実際そうだったが)、この論文はすっきり採択されると思い込んでいたのである。しかし、Nature編集部の返事はなんとreject(掲載拒否)であった。彼は仕方なくScience誌に再投稿したが、ここでも掲載拒否。ごていねいな事に、「貴殿の論文はわれわれの読者の要求水準に達しないので別のもう少し審査基準のあまい雑誌に投稿されたし」という嫌みな手紙がそえられていた。結局、それは「酵素学方法論」というあまり名の知られない雑誌に掲載されたが、それが1993年のノーベル賞の受賞論文となったのである。マリスは金輪際、これらのNatureやScienceに好意をもつことはしないと誓ったそうである。
Nature誌やScience誌に研究論文や記事が掲載されたりすると、日本では赤飯を炊いてお祝いすると言う。それほど、これらはインパクトの高い権威ある雑誌として認定されている。新聞記者も掲載後、いそいそと著者のところに記事をとりにくる。「Natureなんて、昔はデモシカ雑誌だったよ」という年寄りの先生がいたので、1950年以前はたいした雑誌ではなかったようだ。ところが1953年にワトソンとクリックによるDNA二重螺旋の論文が発表されたころから、急に掲載が難しくなった。ワレモワレモとうぬぼれ屋が投稿し始めて掲載率が低くなったせいもある。しかし、激しい競争と厳しい審査の眼をくぐり抜けて掲載されたはずのNature論文の信憑性に疑義が投げかけられた例は、STAP細胞のみならず枚挙にいとまがない。売れる雑誌をモットーにする商業主義が、大事な基礎研究を無視し見てくれのインチキ研究をたくさん拾うといった構造を生んでいるようだ。
追記(2024/10/11)
マリス博士はHIVはAIDSの原因ではなく、結果であるという説を持ったいたので、医学界でのあらゆる講演が拒否された。彼は免疫不全は不健康で不自然な生活が引きおこすものであると主張した。これは間違っていたが、「人のいうことを鵜呑みにしない」を人生の主義にしていた博士らしいエピソードである。多分、彼の言うことは半分ぐらいは真実で半分はとんでもない間違いのようである。毒蜘に刺されて皮膚が化膿しペニシリンの助けをうけるまでのエピソードは、マリスの「とんでもない」の側面を物語っている。また思念をこらすと身体の電気抵抗が変わるので、電気スイッチになるという挿話はほんとうなんだろうか?
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