池田清彦氏(1947年生)はウィキペディア記事 (2019/04/25)によると「 日本の評論家、生物学者。早稲田大学名誉教授、山梨大学名誉教授。東京都立大学理学博士」となっているが、生物学者の間では構造主義生物学の論客の一人として知られている。構造主義生物学とは、今は流行らない観念論の一種で、エンテレキーを前提にした妄説である。すなわち、生物の「かたち」を支配しているものは、物理学的・幾何学的な形態形成場であり、それは生物であるか無生物であるかを問わず、普遍的なジェネリックな「生成的空間」によるものであるとする。物質世界でも生物世界にも、目に見えないある構造が元々あって、森羅万象はそれに従って存在が規定されると主張する。ジグソーパズルにたとえていうと、個々のピースが進化の過程でランダムにできて、折り合いをつけて生物世界が出来上がったのではなく、もともと台(世界)にはめ込み型のようなパターンが存在し、生物はそれに合わせて出来上がっているという。誰がそんなはめ込みパターンを作ったのかという話になると、もちろん誰にも分からんので生気論にならざるを得ない。この学説の人達はモーリス・エッシャーの絵の反転画像にだまされているようなものだ。日本では柴谷篤弘(1920- 2011)がこの説のオピニオンリーダーであった。
池田氏はヒメギフチョウやヒオドシチョウの個体群生態学を本職としていたようだが、単著や共著の多くの著書がある。その中の池田氏、養老孟司、奥本大三郎との鼎談をまとめた『三人寄れば虫の知恵』(新潮社 1996)はまことに愉快な昆虫談義で、庵主の本箱に並んでいる。その後書きで南伸坊さんが書いているように、三人とも虫と虫好きの人の話を、時に脱線し冗談とユーモアを交えて談笑しており読んでいて楽しい。
この池田氏の著作に少し古いが、幾つかのエッセイを集めた『科学は錯覚である』(洋泉社 1996)がある。最初は宝島社から出版 され、後に洋泉社で新版が出されたようである。後書きに「この本はネオダーウニズムや分岐分類学の悪口がかれている」としている。エッセイ集なので様々なテーマが混ざっているが、それなりに面白い問題提議があって、批判的に読むには良い本である。ところが、途中の「おまけ」という部分でK.T(池田の本では実名)というエッセイストの著書に関してぶっ飛びの悪口が展開されている。その部分を幾つか抜粋する。Tはドーキンスの利己的遺伝子の説を俗流に解釈して、いくつか本を出している女性作家である。
「Tの著作を題しか知らずに論評するのもあんまりと思い、その著書を読んでみた。私は驚嘆し、Tをドーキンスの亜流だとばかり信じ込んでいた自分の不明を恥じた。Tの略歴には、京都大学理学部卒業後、同大学院に進み、博士課程を修了と書いてある。京大の大学院の博士課程という所は、論理的な思考能力が全く欠如していても修了することができるのだという事実に、私はいたく感動し、しばらく天を仰いで動けなかった」
「ここに(Tの複数の著書に)見られるのは自分の政治的な意見を、遺伝子の利己性仮説に論証抜きで妥当しようとするヒステリックな意志と妄想だけであると言ってよい。もしかしたら、Tのこの本は、精神病理学者が扱うべき1症例として読むのが正しいかも知れない」
「Tの肩書きは、動物行動学者ということであるが、私にはどうみてもただのアンポンタンとしか思われない」
今までおとなしく酒を飲みながら気持ちの良い会話をしていた紳士が、急に豹変し目が三角になって、「お前はなんだよ」と言って、相手にからみはじめたような雰囲気である。悪口の要件にはまず品がなければならぬ。あるいは少なくとも品を装ったものでなければならない。あまりに露骨な悪口は、聞いている方が白けてしまう。
最後に池田氏はこの章を次のように締めくくっている。「それにしても、Tに完全無欠のスーパースターと言われたドーキンスや、百年先を読んでいたと褒められたダーウィンはいい面の皮という他はない。ダーウィンは死んでしまたので口をきけぬが、ドーキンスが日本語に練達であれば、オレをほめ殺すのはやめてくれ位の事は言うに違いないと思われる。そこで私の希望としては、Tに最大級の賛辞でほめ殺されているもう一人の人物、Tの師であるT. H(これも実名で出ている。現在は物故の京大名誉教授)のT評を是非聞きたいものである。まさかHもTと同じ穴の狢という訳ではないだろうね」と。敵は本能寺にありという事のようであった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます