真田信之
父の昌幸が沼田領を巡る家康からの要求を拒絶し、徳川軍と戦った第一次上田合戦(天正13年)では、信之はわずかな兵を率いて徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せ、勝利に貢献するなど、幸村に勝るとも劣らぬ戦上手ぶりであった。
小松姫[天正元年(1573年)-元和六年(1620年)]
本多忠勝の娘。
天正十五年(1578年)3月に秀吉の命により昌幸を家康の与力大名とすることで決着したことを契機に、小松姫と信之との婚姻が成立した。
子持山
真田信之
父の昌幸が沼田領を巡る家康からの要求を拒絶し、徳川軍と戦った第一次上田合戦(天正13年)では、信之はわずかな兵を率いて徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せ、勝利に貢献するなど、幸村に勝るとも劣らぬ戦上手ぶりであった。
小松姫[天正元年(1573年)-元和六年(1620年)]
本多忠勝の娘。
天正十五年(1578年)3月に秀吉の命により昌幸を家康の与力大名とすることで決着したことを契機に、小松姫と信之との婚姻が成立した。
子持山
北条五代 火坂雅志 伊東潤
「義」を重んじる武将を取り上げ、日本社会に一石を投じた火坂雅志。
歴史を通して現代的なテーマを描いている伊東潤。
志半ばで倒れた火坂の思いを伊東が受け継ぎ、現代人が共感できる新たな北条早雲を生み出した。
末國善己氏
我欲が強かった戦国時代に「義」という理想を掲げた北条家は、五代百年にわたって名将を出し続けた。
その理由を独自の視点で切り取る本書は、日本の閉塞感を打ち破り、未来を切り開くためのメッセージに満ちている。
末國善己氏
北条の家臣が名胡桃城を奪ったのは、秀吉の罠だったのですね
沼田公園 天空の城下町 真田の里 沼田 沼田城址
沼田上の歴史
天文元年(1532)沼田氏12代の沼田顕泰が築城し柳町の幕岩城から移る。
【上杉氏の支配】
【北条氏~真田氏支配】
【滝川氏城代】
【真田氏城主】
沼田城跡
天正八年(1580)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。
沼田城址
沼田公園(沼田城跡)
沼田公園寄贈者
久米民之助《1961-1931》
旧沼田藩士の子息久米民之助翁は、1861年に現在の東倉内町で生まれ15歳となった明治9年6月に上京し工部大学校(現東京大学)に入学、卒業後宮内省に入り二重橋の造営などにあたった。
その後数々の事業を興して成功を収め、衆議院議員も務めた人物です。
現在の沼田公園は久米民之助翁が自分を育んだ故郷に恩返しをしたいと考え、私財を投じて荒れ果てた城址を購入し大正5年9月から、現在の公園の西半分を中心に2ヶ年に亘り造営工事を行い大正15年に沼田町に寄贈されました。
さらに、東側の工事が進められている中、昭和6年に亡くなられました。翁の意志は現代に引継がれ、市民や観光客など多くの人に憩いの場として親しまれています。
関越交通 沼田営業所バス車庫越の子持山
榛名神社の立派な鳥居です。
行く予定はしていなかったのですが、行ってみよう
榛名神社 由緒
戦国時代となり、沼田万鬼才顕秦(ばんきさいあきやす)は武尊様の社地にあらたに倉内城(沼田城)を建てることを決め享禄二年(1529)武尊様、榛名様、天神様を合せ祀り、現在の地に社殿を建立、そして元和元年(1615)真田信之公が改築、現在に至る。
榛名神社本殿
真田信之 小松姫
沼田駅に到着しました。
天狗が出迎えてくれました。
名刹 迦葉山
当駅より16km 上り700メートル
今年の冬、膝が痛くなかったら走って行くか。
東京高尾山の薬王院、栃木県鹿沼市の古峰[ふるみね]神社とともに関東三大天狗として名高い。Wikipediaより
知らんかった。
薬王院と古峰神社は、行ったことがあります。
改札を出ました。
ようこそ沼田駅へ
真田信之と小松姫ですね。
一村一山上越線 道中絵巻
沼田 子持山 標高1296M
迦葉山 タクシー40分
奉仕への道
法師じゃないのか
沼田駅
群馬県指定史跡 名胡桃城址
ここ名胡桃城は、群雄割拠の戦国時代を勇猛に駆け抜けた真田昌幸が築いた上野国利根郡の山城で、10年ほどの歴史にもかかわらず、ここを舞台とした小さな事件が乱世を終わりに向かわせることとなりました。
この時期の利根沼田地方は上杉氏・武田氏・北条氏による争いが繰り広げられていましたが、天正7年(1579)頃、真田昌幸が吾妻方面から進出し境目城(さかいめのしろ)として名胡桃城を築き、翌年には沼田城を手中に収めました。
天正17年(1589)、豊臣秀吉は北条氏政・氏直親子と真田昌幸による北毛地域の領地争いを裁定しましたが、同年、真田領に残された名胡桃城を北条氏の家臣が攻略してしまいました。それをきっかけに翌年、豊臣秀吉は小田原城北条氏を滅ぼし、事実上、天下統一を果たしたのです。その後、名胡桃城は廃城になりました。
発掘調査
西側の広い般若郭は駐車場になっています。
名胡桃城址全景空撮
名胡桃城址
名胡桃城址案内所で御城印を買いました。
案内所でたくさんパンフレットをもらいました。
帰ります。行きで気がつかなかった石仏群
徒渉橋から名胡桃城址を振り返ります。
飲みながら帰ろう
後閑駅
高崎駅で補給
名胡桃城址 完
本郭からささ郭へ行こう
ささ郭
ささ郭とは、城の主体になる本郭が外に対してむきだしにならないように設けた郭で、唯一この城跡に残存する土塁を両側にもつ狭長な通路でした。ささ郭の先端側には袖郭(そでくるわ)と物見が続き、尾根づたいに下方に通じていました。
ささ郭は長さ約31m幅約14mで、中央には約1m掘り込んだ幅2〜5mの通路があり、その両側を1mほど盛り上げた土塁で挟んでいました。通路の先端には礎石が4個設置され、搦手門がありました。土塁の内側には、自然石を3〜4段乱雑に積んだ石積みがみられます。
本郭との間は、幅約12m深さ約6mの堀切で区画されていました。
現在、礎石門址・通路・石積み・土橋などは、保存のため埋め戻されてみられません。また、ささ郭堀切に設置した階段通路は当時の復元物ではありません。
イラストマップ
次回は、沼田城址に行くじょう
三峰山のやまなみがきれい
今日はここまでです
二郭から本郭へ行こう
本郭
名胡桃城址は、大正12年に地元の有志で結成された保存会によって、よく保存管理されてきました。昭和2年、本郭に「名胡桃城址之碑」を建立し、本郭とささ郭に松・桜などの樹木を植え史跡公園として完成させました。この碑文を書いたのは文豪の徳富蘇峰であり、文字の彫りも深く見事で、石材は地元の富士山でとれた安山岩、村中の人たち総出で運び建てました。隣の副碑は、昭和43年の明治百年記念で建立しています。
本郭は長さ約51m幅約30mの洋梨形ですが、両側の崖面とも大きく崩落してコンクリートで補強されていることから、当時はもっと広かったことがわかります。郭の縁辺には土塁の基底部分が残っていて、土塁が廻っていました。この城には天守はなく、本郭内の虎口や建物の状況はわかっていません。
東側
名胡桃城址之碑
石材を切り出した「地元の富士山」?
この方角に「冨士浅間の砦址」があるみたい。そのうち行ってみたい。
国道17号の橋が見えます。ということは、橋から見えた幟旗はここ本郭のものだったのですね。
今日はここまでです