ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「言えないコトバ」 益田ミリさん

2012-06-27 09:47:10 | 新聞を読んで
私の好きな新聞の書籍広告の欄に今日、こういうのがあった。

「言えないコトバ」というタイトルで、

その案内としてのコピー・・「ズボンをパンツって呼べない!など、

言葉の不思議を綴るコミックエッセイ。」

・・・というもの。

どんな内容なんだか読んでないからわからないのは勿論だけど、

こういう本が世に出て来ている事が嬉しく感じる。

言葉の不思議と表現してあるけど、

ズボンをパンツと呼べない、その意識カラクリがわかると不思議でもなんでもなくなる。

どんなことも不思議が不思議でなくなるのは、

それがどうしてそうなるかを合点!した時。

そうなったプロセスを納得した時だ。あ~、そうなのかって。

だからこそ、不思議?だと感じることが大事というか、大きい。

それを不思議と思わなかったら、意識に何も始まらない。



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「死の街」 と 「なにこれ、腐ってる」 ②

2012-06-26 21:54:01 | 本を読んで
意識は一瞬という時間に二つのことは浮かばない。

その街を見た一瞬は(死の街だ)が浮かんだ。

リンゴを口にした一瞬は(なにこれ、腐ってる)が浮かんだ。

それと同じ瞬間に(どうしたんだろ?)とか思う、と言う人もいるかもしれないけど、

それは(なにこれ、腐ってる、どうしたんだろ?)というような意識の流れが起こっている、

ということだろう。

(どうしたんだろ、腐ってる、なにこれ?)という順序の流れかもしれない。

どっちにしろ、(なにこれ!)と(腐ってる)と(どうしたんだろ?)は別の瞬間に起こっている思いだ。

なんせ1秒に6個、思考は浮かぶそうだから。

浮かんでは流れていき、浮かんでは流れてゆく。

全部時点が異なる。

いろいろなトラブルは「黙殺」というタイトルでも書いたけど、

その現象が起こった時点と、それを観測した時点とを、

ごっちゃにしているせいが大いにあると思う。

それに観測自体が自分流であることに気付いていないことも多いと思う。

勿論、それが悪いわけじゃないけど、

それが引き起こした現象で、経験したくない経験をする人が生まれる、

ということはあるかもしれない。

「死の街」発言をした政治家もその一人なのかもしれない。



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「死の街」 と 「なにこれ!腐ってる」

2012-06-26 21:05:36 | 本を読んで
政治家が福島の街に行った時に「死の街だ」と洩らしたことで、

お役ごめんになった・・事件があった。


養老先生が「意識は止まっているものしか扱わない、というか、扱えない」

・・ということを云っている。

それでこのような情報化社会になった、と。


タイムリーな話題じゃないけど、

この「死の街」という言葉が元で騒ぎになったことについて考えたいと思う。

その政治家は原発事故で人が居なくなった街を見て、

予想はしていたけど、ショックだったのだろうと思う。

誰でもそうだと思う。

人が作った建物が少ない田舎なら、人がいなくても当然だけれど、

たくさんの建物があり、看板があり、電線があり、

店の中にはまだ商品も見えたかもしれない。異様な感じだろうと思う。

その政治家はその土地に住んでいた人じゃないので、

そこになんの思い出も無いのは当然だ。

切り取られた一枚の写真のようにそれが見えたかもしれない。

止まっている写真のようだったかもしれない。

そのワンカットは死の街と表現して当然だ。

生き生きした街にはどうしても見えない。

けれど、その街で生まれ、学校に行き、友だちと遊び、

仕事をし、たくさんの人と共に暮らした住民にとっては、

そのワンカットだけには見えないのだろうと思う。

あぁ、あの店で子供の玩具を夫と買ったとか、

あそこで初めてデートしたとか、何十年もそこの会社に勤めていたとか、

あの映画館には何度も通ったとか・・・

「死の街」という言葉に反感を持った住民にとっては、

誰も居ない死んだような街の向こうに、

生き生きとした自分の街が見えるんだろうと思う。

けれど、

あの言葉を発した瞬間に、その政治家は、

そこに住んでいた人たちのことをどうでもいい、

と思っていたわけじゃないだろうし、

原発事故がその住民のせいで起こったと思ってたわけでもないと思う。


リンゴを食べて、「なにこれ、腐ってる」と言ったら、

それはリンゴを作った農家の人のことを考えてない、良くない行為だ、

なんて言えないのと一緒だと思う。

続く・・・


















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男と女

2012-06-26 17:06:28 | ひとの幸福
ちょっと過激かもしれないけど、

「強姦」という名の現象がこの世にある。

「強 男
    男男」という文字は無い。
                      
女が数人寄ってたかって、弱い男に「強 男三つ」したという話しは聞いたことがない。

何故男はそんなことが出来るのか・・・

女に比べ、男はアホだから、男は自分勝手だから、男は衝動を抑えられない獣だから、

というような、男に失礼な理由を聞いたことがある。

それいうこともある場合もあるかもしれないけど・・・


女が力ずくで「強 男三つ」をしようとしても、

それが成立するには、男のモノが立たないといけない。

男がその気にならないと成立しない。

「強 姦(女三つ)」の時は女にその気がなくても成立する。

女の身体はどんな時も誰でもそれを受け入れられるようになっている。

残念ながらそうなっている。

男はその気に“ならない”と出来ない。多分。

男じゃないから、いまいちわからないけど。

女はいつでも出来る・・ようになっている。

この生物学的違いはなんなんだろう・・と思う。

福岡伸一先生の本でこういうのがあった。

聖書ではアダムのあばら骨でイブが出来たという話があるけど、

生物学的にいうとその反対だという。

イブの一部が変化してアダムになったらしい。

男の性器は排尿の管と兼用している。

女のものはちゃんと別もの仕立てになっている。

分化されてないというのは分化してるのより未熟な段階・・らしい。

男のこの姿は進化の途中なのかもしれない。

男と女で、男の方が唯一優っているのはその体力、重いものを持つ力だという、

・・ことが書かれてある本を読んだことがある。

その真偽はわからないけれども、

そうだとして、作家、画家、政治家、建築家、医師、パイロット、弁護士、

教師、料理人、宇宙飛行士、映画監督、電気技師、建物の設計士・・・

に、男が多いのはどうしてなんだろう?という?が自然に浮かぶ。

社会的な問題は大きいのかと思う。

男と女の待遇の違いはしっかりこの社会にある。

けれど、そういう目立つ場で活躍することが、

そういう場以外で活躍する事より良いというわけでもない。

それぞれの人生で何を味わって日々生きているのか・・・

そのことが・・人生なのかと思う。


いつでも誰でも受け入れられるようになっている女の身体の特性と、

女の意識の特性は、似ているのかもしれない。

勿論個体差はあるのは当たり前だけど。

この前、コンサートに行って聞いた話しだけど、

母を歌った歌は数え切れないくらいあるのだけど、

父を歌った歌は本当に無いと言ってたけど、そうなるのもありだなぁと思った。

直接子供に接する場が多いからなのかもしれないけど。

最近、日本は男の子に比べ女の子が元気だという。

女の子が在りのままの姿を出すことが出来る時になったのだろうと思う。




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選択

2012-06-25 18:49:20 | ひとの幸福
彼女は独身で、私は子供が二人いて、二回目の結婚をしている。

彼女が「私は結婚も子供を持つという経験も出来なかった」というような事を言った。

その時に「私は結婚しないという経験も子供を産まないという経験も出来なかったよ」

と、話した記憶がある。

そういう動きをしたというプロセスと、そうじゃない動きをしたというプロセスを

比較することなど出来ないのは無論。

自分が選んだ方ではない選択肢を選んでいないということは、

そのプロセスが無いということなのだから。

比べる対象が無い。

味わったことのない饅頭と、今食べてる饅頭とどっちが美味しいかと聞かれても、

何とも言えないのと一緒だ。

自覚しているしてないに限らず、

私たちは自分が味わった人生しか食べたことがない。
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丸いボールと四角い箱 ②

2012-06-25 16:06:53 | ひとの幸福
ひとは 幸福で居たいとする呪縛からは逃げられない。

存在がすでにそう“なっている”ので。

どの瞬間も人間はそういう状態になっている。

植物の種は、種から成長するどの時点でも(次に繋げ、成長しろ)という意志を忘れていない。

子葉が出ようとする時、本葉の一枚目が出ようとする時、

二枚目が出ようとする時、三枚目が出ようとする時、

花が散って、実になる時も・・・

どの瞬間もその在りようだからこそ、そう“なる”

私たちは幸福で居たい存在で、(次に繋げ、成長しろ)という意志を忘れない存在なので、

頭痛の時に(なんでこんなに頭が痛く“なる”んだろ?・・)が浮かび、

経験したくないことを経験した時に(なんでこう“なって”しまったんだろう?・・が浮かび、

辛い時に、早く忘れてしまいたいと願ってしまい、

イライラしてる時、怒った時、ひがんでいる時、憎んだ時・・なんかに、

不愉快に“なって”しまうのは、

(次に繋げ、成長しろ)という存在の意志を忘れていない証なのかもしれない。

この意志は顕在意識の意志とは全く違うもの。

存在の性質とでもいう・・存在の本質・・人間の本質なんじゃないのかな。
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牛糞を頂きに ④

2012-06-25 15:09:44 | 日々の暮らし・思い出
(まだかまだか)があるのと、それが無いのとでは実際に時間に差が出るのだろうか?

という疑問が生まれたので、

そういう実験のことを考えたんだけど・・・

時間に差が出るかという実験があるんだろうか・・?

待たないで下さいと言っておいたチームは待たないでいるだろうか・・・

実験でそう言われたチームの人は何かを(そうか、待たないのか・・)と最初は思うかもしれない。

じゃあ、待たないことにしよう・・と思って・・

その部屋で(まだかまだか、がない)チームは・・

何を待たないんだっけ?・・・えーっとなんの実験だっけ、これ。

そうか、何かが来るのをまだかって待たないって言ってたな・・

何にも来ないんだな、いや、来るけど待つなって言ってるのか・・・

暇だなぁ・・この実験早く終わらないかな・・・まだかなぁ・・!?


観測効果から行くと、観測される側も観測してしまうという現象が起こってしまうんじゃないか・・・

実験はいつも何かを“するもの”だ。

するということがない、こういった実験は不可能なんじゃないかと思う。

意識は実験が可能なんだろうか?

実験は誰がしても同じ結果になることを目指している。

古典的な物理学がそうなんだろう。

けれど、「誰がしても」の、その「誰」かの意識がどうしても介入せざるを得ないのが

観測なんだろう。

意識は止まっていない、それをそこに留まろうと意識すると、

留まろうとする観測から又影響を受けてしまう。

実験でまだかまだかチームと

まだかまだかが無いチームとを比べることは出来ない・・んじゃないかと思う。

えーっと、何を考えているのかというと・・・?

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牛糞を頂きに ③

2012-06-25 12:56:02 | 日々の暮らし・思い出
まだか、まだか、とその時を待っている意識と、

まだか、まだか、とその時を待たないでいる意識を比べることって出来るんだろうか。

実験で、こちらのチームには何かが来ますが、「まだかまだかと待っていて下さい」と指示し、

もう一方のチームには「まだかまだかと待たないでいて下さい」と指示する。

そして、一つの部屋にその人たちを座らせる。


待たないで下さいと言っておいたチームは待たないでいるだろうか・・・
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時間がかかる(牛糞を頂きに②)

2012-06-25 11:42:04 | 日々の暮らし・思い出
そう観ない状態より、沸くのが遅いという現象になる量子ゼノン効果と似てる。

帰りは(まだかまだか)が浮かばない。

帰り道は(まだかまだか)と観ていない。

沸くのが(遅い)。時間が(長く感じる)どちらも感覚だ。

沸くのが遅い の「遅い」は人から観て、

対象の事実の在りようを表現している言葉じゃなく、

遅いと感じた という人の感覚には違いない。

遅いという事実は無い。

早く着かないかなぁと思っているので、遅いと感じるのであって、

そういうことを思わない子供だったら、遅いとは感じないかもしれない。

けど、途中でつまらなくなって、遊びたいとなる子供はまだぁ?と思うかもしれない。

どちらも何らかの願いがあるから、そう“なる”


(牛糞をくれる所)は、まだかまだかと思っている、と表現するけど、

(牛糞をくれる場所に着く時)はまだかまだかと、感じているわけだ。

その時が来ないと感じている。

待つ、というのがそれだ。

待ち人が他の場所にいる状態からここにいる状態に変化して欲しい。

その変化を待っている。

それは時間が過ぎるのを待っているとも言える。

時間、時、というものは人の観念だとついこの前書いた。

太陽の周りを地球が一周したという動きを、1年と呼ぼう。

地球もくるくる回りながら、そうしているようなので、

そのくるくる回っているその1回転の動きを1日と呼ぼう。

太陽を一周する間に何度くるくる回っているか数えたら365回・・だったんだけど、

そうすると、宇宙の動きとぴったりしないので、

余りはこうしよう、と「うるう年」を考え付いた。

どれも人間がそうしましょう、そう呼ぼうと決めたこと。

絶対のものじゃない。相対から生まれた観念。

なんでそう決めたかというと、

人の動きや自然の動きを表現する術が欲しかったんだろうと思う。

表現や認識というものは“分ける事”を必ず求めるものだから、と思う。

一日と二日、おとなと子供、男と女、右と左、上と下、東と西、美と醜、善と悪・・・

コレはアレと違う、咲いた花と散った花・・・

そういう物の違いや変化を人は認識する。

そしてそれを表現するのに人は言葉を生み出した・・・

「“昨日”咲いてた花がもう“今日”は散っている」とか。

動き、変化を認識する人間は「時」という概念を考え付いた。

時 は そのものの動きや変化を表わすのに使う“考え”だと言える。

時間という人の“考え”は絶対なものじゃない。相対的なもの。

続く・・・
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牛糞を頂きに・・

2012-06-25 11:36:02 | 日々の暮らし・思い出
近所の人に牛糞を貰いに行かないかと誘われ、昨日の午後出かけた。

牛糞は畑に入れるととてもいいので、普段ホームセンターで買っている。

それをタダで下さるところがあるという。

どこへ行くのか私たちは知らない。彼等の車の後を走った。

途中今まで通ったことの無い道も走った。

林の中の細い道に入ると、あ、もうすぐかなと思う。

牛糞は幹線道路のすぐ傍にはないだろうから。

その細い道を抜けると、又幹線道路になった。

あそこじゃなかったんだ、ただ、近道をしていたんだなと納得。

前の車の後を追って、右へ曲がり左に曲がり・・・走っていた。

その最中、(まだか、まだか・・)が頭に浮かんでいた。

夫もそうだったようだ。後で聞いた。


結局50分くらい走った所に古ぼけた大きな建物があった。

そこが牛舎だった。その並びに牛糞が置いてある背の高い建物がある。

以前買った牛糞の袋をたくさん持ってきたので、それに入れる作業を夫とペアでやった。

袋を持つのとスコップで入れるのとを、

腰が痛くなったり、腕が重く感じたりするので、その度に交替。

軽トラにほぼ一杯。膨らんだ袋が45個。疲れた~

これを畑の物置に又、エンエンと運ぶ作業が残っていると思うと、

疲れが増したような感じ。そんな先のことが頭に浮かばなければ、

(あ~、疲れた)でおしまいなのになぁ~。

(今ここ)だけに生きていれば、こういう羽目になることはないね~

ま、いいか。

結局その場所はよく通る幹線道路からしばらく走った地点だったので、

帰りは彼等の後は追わず、勝手に帰って来たんだけど、

その早いこと早いこと・・・

早く感じたということなんだけど、(まだかまだか)と思っていると、

本当に遠く感じる。時の経つのを遅く感じる。

知らない土地に行く時、そこが頭では何県、何市とわかっていても、

行く時はとても遠く感じる。時間がかかったように感じる。

家へと戻る帰りは行く時ほど時間がかかる感じがしない。

こういう感覚は他の人からも聞いたことがある。

いつもそうなので、この(感覚)はどういうことなんだろ・・?があった。

まだ沸かないか、まだ沸かないか、とヤカンを観てると、

そう観ない状態より、沸くのが遅いという現象になる量子ゼノン効果と似てる。

帰りは(まだかまだか)が浮かばない。

(まだかまだか)と観ていない。

続く・・・
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ホームベーカリー ②

2012-06-23 21:37:28 | 日々の暮らし・思い出
焼きあがる予定時間の30分くらい前に焦げ臭いニオイがして来た。

何にも料理してないのになんでこんなニオイがするんだろ?

アッ!パンだ!こんなニオイはやばいと思って、

すぐにコードを抜いた。取り消しボタンを押したけど、オフにならなかったので。

開けて見た。やはり予想通りというか・・・

そこにあった物は「パン」ではなかった。

粘土の固まりのような物体。取り出すとふにゃふにゃして、

中はまだ生っぽい。フライパンで焼こうと思った。

そのままだと火が通りにくいと思ったので、大き目のクッキー位にちぎって、

オーブンとフライパンの両方で焼いてみた。

食べられない物は入ってないのだから、

「パン」ではなくても食べられるだろう・・・

オーブンで150度、20分設定。フライパンで弱火30分。

焼けた。そりゃ焼ける。どんなものでもフライパンで熱すれば焼ける。

食べてみた。とてつもなく不味いというほどでもない。

美味い!というほどでもない。当然か。

予想はしていたけど、本当にどうなるか、やってみたかったのでやった。

どうなるか、それを見るのは本当に好きみたいだ、わたし。

でもこういう経験はこれっきりにしたい。

夫は「パンはいくら焦げてもいいから、ベーカリーは焦がさないでくれ」と。

私がなんでもよく焦がすので、そう言ったのだろう。

「本当だ!あんなもの入れて大丈夫だったかな!?」わたし。

すぐに調べたけど大丈夫そうだった。

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ドーナツの穴

2012-06-23 19:02:53 | テレビを見て
NHKの朝の連ドラ「梅ちゃん先生」を見てる。

今度のはあまり視聴率がよくないんじゃないかと思ってたら、

結構いいみたいだ。私の尺度は当たらなかったよ。

この頃、面白くなって来たなぁ、と思っている。

主人公の梅ちゃん先生が惹かれる松岡ドクターが、

今日もドーナツについて言っていた。

「ドーナツの穴はドーナツか?」という問い。

ドーナツの穴は火が通りやすいために空いているんです、と梅子が言っても、

そういう問題じゃないという。存在と意味の問題だと。

本当だ。

ドーナツに穴がなければ、それはドーナツではない。ただの丸い揚げ物だ。

そう松岡ドクターは言っている。

そこに穴という無が在る、ということを云ってるのかな。

無は無いことだけど、「無」はある。

ドーナツをドーナツたらしめるには穴という非ドーナツが必要。

非ドーナツとドーナツで完全なドーナツ。

ふーん、なるほど・・・
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お腹が空いた

2012-06-23 15:46:04 | ひとの幸福
(お腹が空いた)が浮かぶ。

すると、何か食べたく“なる”  そう“ならない”場合もある。

真面目に半日断食というのをし出して、もう6年くらいになる。

それ以前もやろうとしたことがあるけど、

そうしようという意志が希薄だったせいもあるし、

台所にはいつでも食べ物はあるしで、

結果的には食欲に任せて一日何度も食べていた。

いまは朝起きてから昼ご飯までには水分以外摂らないようにしてる。

旅先や友人宅やなんかでは頂くこともあるけど、

今は基本的にそうしているので、

午前中お腹がグーッと鳴っても、食べたくは“ならない”。

意識の状態が「朝ご飯は食べないもんだ」に“なっている”のかもしれない。

そういうプログラムが効果を発揮してるのかもしれない。

食べ物が少ないという地域が世界にはある。

飢えで子供が死ぬことも今の時代、まだある。

今の日本では(お腹が空いた)と感じる→食べたく“なって”→食べる、

というコースが当たり前だろうけど、

そういう地域の子供たちの中で、

(お腹が空いた)と感じても、食べたく“ならない”子供も居るんだろうか・・

食べたいと感じたことがそれ以前あったとしても、

多くの経験によって、食べる物が無いということがわかると、

お腹が空いても、食べたく“ならない”という意識状態になる子供も居るんだろうか。

その子供は食べたいのに食べられないという不満は持っていない、と言える・・

食べ物が在っても無くても、

(食べたい)という思いが無ければ、(食べられない)という思いも無い。

食べたいのに食べられない・・それが不満だろうから。

お腹が空いたと感じても不満にならない私の例と同じかも。

いや、それは自分の意志でやってることで、

そういう子供は自分の意志じゃないんだから・・という声もあるだろう。

それもわかる。けど、その場に食べ物は無いという多くの経験からの、

諦めなのかもしれないけど、

(食べ物は少ないもんだ)というプログラムになっているのかもしれない。

諦めているという自覚もないかもしれない。

食べ物はその場には無い、ことを受容している状態かもしれない。

いつだったか、黒柳徹子さんが国連ユニセフ親善大使をしていた頃、

テレビで見たんだけど、

飢えてやせ細り、何かの病に伏しているどこかの国の子供が黒柳徹子さんに、

「あなたに幸せが訪れますように」というようなことを言ったという。

徹子さんはその子供の在りよう、その瞳の純粋さに感動した・・

・・というような事を言っていたような記憶がある。

その子供が食べたいのに食べられない、病気を治したいのに治せない、

という不満状態にいたなら、そのような子供の姿はないだろうと思う。

勿論、飢えでやせ細った子供がいるのは世界がどこか間違っているからだ。

けれども、現象に左右されない、人間の崇高さというものをそこに見てしまう。

世界の外的改善は本当に必要だし、

ほんの少しだけど、スリランカの二人の子供のペアレントみたいなのを10年くらいしている。

今の世界の状態ではそういう症状改善というやり方も必要かなと思うけど、

そういう必要がなくなる、例えば、風邪をひいて薬で症状をその時だけ治める方法でなく、

風邪をひかなくなる身体に“なる”というような方法を見出して、

実現したいなぁと思う。

いつか、人間の崇高さが現象世界に現われる時が来るのだろうと思う。

そういう人が増えることが、目に見える世界が進化、よく“なる”という結果に

必然的に繋がるのだろうと思う。
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ホームベーカリー

2012-06-23 15:35:49 | 日々の暮らし・思い出
朝、ホームベーカリーという機械でパンを焼こうと思って、

材料をそれに入れてスイッチを入れた。

出来上がりの合図が鳴ったので、夫がそれを取り出した。

それを見て、「なんだ これは!?」

!!な、なんと!!!

水を入れてなかった!!

あーあぁ!水を入れるのを忘れるなんて。

夫も「あるんだよな~、こういうこと。

入れたって思い込んでる・・・確認することだ・・」と。

確認したつもりだった・・・粉、バター、砂糖、塩、スキムミルク、イースト・・・

それをうん、うん、と確認したのも憶えてる。

確認したけど、確認してなかった・・・

水という文字は確かにそこに在った・・確認しても見てなかった!

何か他に考え事をしていた記憶はない。

その話をランチの時に夫としていて、

「自分で捏ねて、発酵させてってやってたら、

水を入れないというのはあり得ないね~」と私。

それでも水以外の何かを入れるのを忘れることはあり得る。

人間は間違うものだ・・ということを、

松本のサリン事件で誤認逮捕された河野さんが言ったけれど、

私のこんな例はその事に比べたら、どうということはないけれど、

思い込みって恐いなぁ。

ベーカリーに入ってた十分加熱されたパンもどきの粉を、

もう一度水を入れてベーカリーに入れ、スイッチを入れた。

今、見たら「ねかし」という工程中。

きっと既に過熱され経験のある彼らはねてないと思う。

どうなる・・多分パン風になる可能性は少ないと思うのだけれど、

やり直しのパン人生がどうなるか、見たくてやっている・・・

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桜桃忌

2012-06-22 20:55:17 | 日々の暮らし・思い出
たしか6月19日は桜桃忌だ。忘れていたけど。

太宰治が死んだ日。

昔、若い頃、三鷹の禅林寺によく行った。太宰治の墓がある。

夜にも行ったことがあって、お墓に夜は恐かったけど、

会えるなら幽霊でもいいから会いたいと思ったもんだよ。

彼のことをわかるのは私だけだ、くらいに思ってた。

人間は本当に凄い事も思ってしまうもんだと思うよ。

何を思うのか、計り知れないね~

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