ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

嘘つき?

2012-06-19 11:25:21 | ひとの幸福
子供が宿題してないのに、「宿題もうやったよ」と嘘をつくのは、

嘘を言って親を困らせようとか、

その子が既に嘘つきな不正直な子供だからじゃない。

その日その場で嘘をつきたくなるようになっただけ。そう思う。

「なった」という表現は本当に凄いと思ってしまう。

なったのはそうなるようなプロセスが在ったから。

勿論いろんな場合があるだろう。

親にいくら宿題をしてないと、ど突かれても、屁の河童で居る子供も世の中には居る。

それはその子供が努力してそうしているわけじゃない。

自然とそうしてしまうのだろう。

ど突かれるのがイヤで嘘をついてしまうのも、同じく自然としてしまうのだろう。

努力しないで屁の河童で居られる子供のそうなったプロセスは、

その子がこの世に存在する以前のプロセスも大いに関係あるのかと思う。

謂わば、生まれつきというようなものも。

ど突かれて嘘をついてしまうというのも、生まれつきが全然ないとは言えないのか・・

嘘つきという生まれつきじゃなく、

怒られ、責められて不愉快になるのがイヤだと思う、その尺度が高い、という生まれつき・・とか・・・

・・考え付くままに考えて書いたけど、

ようするに、今までの全部の時空のプロセスを経て、そうなった・・ということなんじゃないかと、

まぁ、思っているわけで。

物も事も何もかもが誰のものでもない。

物・事の成り立ちを観てみるとそういうことになるのではないかと・・・
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黙殺?? ⑤

2012-06-19 10:42:25 | 新聞を読んで
昨日の朝日新聞の記事についての奴で、

こういうのは善意的過ぎるというような感想もあるのかもしれないなぁと思った。

実際、文科省の次長の、公表すればよかったと今は思うのですが・・

・・その発想がその時なかった・・

という発言や原発保安院の言葉を、記者は(黙殺)と捉えたんだろうけど、

実際、黙殺であったのか、そうじゃなかったのか、はどうでもいい。

例えば、その次長が公表しないことにしよう、黙殺しよう、

と去年の3月のその時点で思ったとして、

嘘を言おうと決めた、その意識の状態がその人のその時の在るがままの意識状態だ。

嘘を言いたくなる、ということが起こるのは、

それ以前の無数の経験を経て、その人に瞬時に現われる平衡状態と言える。

嘘を言いたいその事をしたくて言うんじゃない、と思う。

こう言った方が自分が痛めつけられないで済む・・・

それを実現したくて瞬時にそう言ってしまう、ということかと思う。

この感情は当たり前と思う。

それまでの時空全体でそうなって来ている、嘘を言いたくなる、その気持ちが、

自分一人で創って来たものではない、

と心の奥深くでひとは知っている。

共に創って来たんだ、一部である自分だけ責めないでくれ・・・

そんな悲鳴のようなものが嘘をつくという現象に現われているんだと思う。

謂わば、その行為は誰のものでもない。

その人も含め人類の時空全体で共に創った行為だ。

まぁ、全ての現象がそうなんだけど、

そのようになっている現象を、どう捉えるのか、

それがそれ以後の展開に繋がる。

(黙殺)と捉え、その個人、組織を犯人扱いし、とっちめる。

それも一つの方法ではあると思う。

今までそうしてこの世界を創って来た私たちだ。

身体の一部が不調になり、それを犯人扱いして取り除くという今の医学と同じだ。

(捉え)という意識がそのような行動を起こすのだから、

いろいろな場面で同じような現象が生まれるのは当然。

その現象をどう捉えるのかで、現象は変わって来る。

全ての現象に言えること。
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エセ?手作り

2012-06-18 20:10:33 | 日々の暮らし・思い出
今年は梅の実が結構採れたよ。

傍にある夏みかんもかなり採れて、これは近頃めったに食べられない酸っぱい夏みかんなので、

オレンジピールを作ったりする。義父はこれをみかんの佃煮と言う。

言われてみるとその通りだ。

今年初めてその果汁でポン酢醤油を作ってみたら、

結構いけた。

四国の馬路村のポン酢醤油が好きでそれを買っていたんだけど、

近くの店にないし、結構高いので、そうだ!夏みかんがあるじゃないか!と思って、

やってみたのが成功した。

そのビンに貼ってある成分を見て、同じようなもので家に在るものを、

適当に入れて作ったら似たような味になったよ。

私の舌で同じようと感じただけで、もっとグルメな人が味見したら、

全然違う!と言われるだろうけど。

適当に入れる時、一応なにをどれだけ入れたとメモしておいたので、

そのレシピで3瓶作った。なかなか重宝してる。

そうそう、梅の実は今年、普通の梅漬けと、ほの甘い梅漬けと、

らっきょう漬け用の漬け汁に漬けたのと、甘味噌漬けと梅酒と梅ジュースとを作った。

梅漬けと梅ジュース以外は近くの友人に聞いたレシピ。

初めて挑戦したのもあるから凄く楽しみ♪


湯上りに去年古シーツで作った白のワンピースを今日着た。

これを着るとすっかり夏だ。

前から持ってた湯上り服がそうとう疲れて来たので、

何か適当な布が無いかなぁと探した時に、

亡くなった義母の時代に使っていただろう木綿100%のブロードシーツがあった。

大きな一枚の布なので、よし、これでやってみようと思って作った奴。

一部黄ばんでいたので、紅茶かインスタントコーヒーで染めればいいやと思った。

結果的に今は染めてないで使ってる。白の服もなかなかいい。

洋裁はちゃんと習ったことはないんだけど、

(洋裁教室に多分2、3回通って、つまらなくてやめた)

出来上がっている物を見て、そうなるように作るとなんとか出来る。

製図は自分で着ているワンピースを新聞紙の上に広げて、

これよりこの位大きくしよ、と切ってゆく。

売るわけじゃないから、着れればいいや位の気持ちで作っても、

それなりに形になる。そのプロセスが楽しい。

完成品があると、それを見ながら、そうなるようにと考えて、

適当に縫う。ミシンは苦手なので手縫い。何度も洗うものだから、

ほとんど返し縫いで縫ったり、袋縫いしたりする。


ポン酢もワンピースも、そうなるようにと、作る。

そうだ、これは真似だ。

そういえば小さな頃私はとてもままごと遊びが好きだった。

中学の時、演劇部に入ってたのも真似事が好きだったからなんだろ。

ままごとの語源は真似事らしいから。
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黙殺??④

2012-06-18 17:55:40 | 新聞を読んで
この世にある言葉・・・

「済んでからだったら、なんとでも言える」

「そんなに言うんだったら、おまえがやれ」

こういう言葉に共感出来る。

これは悲鳴だ。魔女狩りに遭った人たちの。
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黙殺??③

2012-06-18 16:15:32 | 新聞を読んで
その朝日新聞の記事の中に「責任の所在はあいまいなままだ」

「避難国民に一刻も早く情報を伝えるという責任感は文科省にも保安院にも希薄だった」

というのがある。

本当に大雑把な独りよがりの観察だなぁとつい思ってしまうし、

責任をハッキリさせてそいつをとっちめたい、というようなニュアンスを感じる。

国民がどうなってもいい、被爆してもかまわない、

そういう意識が顕在化していた、なんて言えないんじゃないか。

みんなそんなに非情じゃない。

あの地震があったあの頃、いろんな場のたくさんの人たちが

そんなふうに悪人だったとはとても思えない。

人間というものをそんなに見くびってもらうのは困る。

そういう記事を書く人たちには、

人間はそういう邪悪なものだという大前提があるんじゃないのかなぁ・・・
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黙殺?②

2012-06-18 15:33:51 | 新聞を読んで
福岡先生の「「平衡が揺れているということは本当はそこに秩序がないということ。

なにかしら生命現象に因果関係を求めるのは、幻想なのかもしれない。

なにかがなにかの原因であるということは、

止めたときにドミノ倒しのように見えているだけで実はそうじゃない。

後から振り返っていくと、この現象が起きたからここが原因だ、

と見えてきますが、そのプロセスを巻き戻していくだけだから、

同じ現象が起きたら同じことがまた起きるとは限らない」

・・という発言があるけれど、

意識というものは人が創ったものではないし、生命であり、

生命現象だと思うので、

今回の報道が云っているのも、ここが原因だと見たい、

そういう意志が働いているように見える。

ひとは見たいものを選択して見ている。無意識に。

見たいものを見ている、という記述もどこかにあったし、そうなんだと思う。

「動的平衡」か「せいめいのはなし」どっちだか忘れたけど。


『動的平衡』は「意識の問題」と「記憶の問題」とも、

福岡先生は云っているけど、わかる気がする。

「後から振り返っていくと、この現象が起きたからここが原因だ、

と見えてきますが、そのプロセスを巻き戻していくだけだから、

同じ現象が起きたら同じことがまた起きるとは限らない」

・・・全くその通りと思う。

全ての一致で、事はその時その場で起こった。

この現象で、もしアメリカ側の誰かが、

「このデータを送ったけど、

日本政府はどうして公表しないのですか」と菅首相に電話して、

公表を勧め、「危険地域に避難する事は避けた方がいいと思いますよ」

とでも言っていたら違う現象がそれに続いたかもしれない。

(実際どんなことがあったのか知らないので、勝手に書いてるけど)

アメリカ側がそれをしなかったのは、

そこまでするのは僭越だと思ったとか、思わなかったか・・

データだけただ、送ればいいと思ったか、

送れと指示した人がその位わかるだろうと思って、そこまで指示しなかったのか、

これも勝手な妄想だけど・・・

そのアメリカ側からの電子メールを受け取った外務省の誰かが、

文部科学省や原発保安院にそれを送信する時に、

危険区域に避難することは避けた方がいいのではないか、というような

コメントをつけていたら、違った現象が起こったかもしれないし、

外務省の誰かも他のことに頭を占められていて、

そういう発想が浮かばなかったのかもしれないし、

そういう発想が浮かんだけれども、無意識のうちに、

それは越権行為になるからというのが働き、やめたのかもしれないし。

これみんな今、考え付いた私の勝手な推測なんだけど、

実際にはこういった無数の意識の可能性がある。

その瞬間瞬間で無数の選択肢の中から無意識にそれを選んでいる、のだけれど、

ひとは無数という全体を見られないから、

部分である自分のその時の意識で何かをしている。

仕方がない。起こったことは済んだこと。

けれど、その意識プロセスを明らかにするのは意味あることと思う。

あぁ、自分はこういう意識の状態になって、こういうことをしたんだな、という自覚は、

必ずその後の時点で役立つ。

人をより自由なものにする。

どの時点での現象と意識なのかを観察出来ない状態で、

過去の現象の止まった形を見て、自分流にその“原因”を探り、

それを事実かのように、無自覚に判断し、

それを非難否定する魔女狩りは、

人をすくませるし、生きる事を窮屈にし、不自由にする。

そう思う。
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黙殺???

2012-06-18 11:57:34 | 新聞を読んで
今朝の朝日新聞の一面、

「米測定 避難に生かさず」

「福島原発事故 政府、線量図放置」

2面に「命守る情報 黙殺」と大きな活字が並んでいる。

アメリカのエネルギー省が去年の3月17日から19日、

米軍機で空から放射能測定(モニタリング)を行なって詳細な汚染地図を作成したが、

その情報を受けたのに、日本政府は公表せず、

住民の避難に活用しなかった、との批判記事。

あぁ、又、メディアは正義の味方をやってるなぁ、と思う。

正義の味方には悪役が必要。

そして悪役を創りだす。


新聞を読むと、その情報を3月18日に外務省から受け取った文科省の次長は、

「すぐに公表すれば良かったと今は思うが、

当時は提供されたデータを住民避難にいかすという発想がなかった。

安全委などにも伝えるべきだった」と話したという。

とても正直な話しだと思う。

その時点でそのようで在ったというのはわかる気がする。


「黙殺」と言えるからには、

このデータを公表した方がいいと、その時点で思っていたが、

公表しないことにしよう、という意志があったということだ。

「黙殺」の意味はそれを無視したということだ。

無視とは在ることを知って、見ない振りをすることだ。

無視するとは意志を表わす言葉だ。

そういう意志がこの次長に在ったと、朝日新聞はわかったのだろうか。

そういうことだとわかっていたのだろうか。

いつ、それがわかったのだろうか。次長がそう発言したのだろうか。

実は黙殺したのです。国民の事なんか何も考えちゃいなかったんですと

彼は言ったんだろうか。朝日新聞の記者は多分自分の書いた原稿について、

そこのところが無自覚だったのではないかと思う。

この人は公表しないことにしようと意志したのではないと思われる。

これは私の推測だけれど、この発言の文脈からは、

正直に話していると感じる。

あの当時、それどころではなかった・・・

原子力・安全保安院の人も原発制御で必死だった、という記事もあったように、

この次長も他のことで頭がいっぱいだったのだと思う。

なんでそうしなかった、なんていうのは

その事故の全体が見えるようになった後の時点での発想だし、

現象は意識の流れで起こるということを知らないことからの発想だと思う。

それをこの記事にした朝日新聞は「黙殺」と大きな活字で世の中に発信した。

それはそれでその時点では仕方の無いことではあるけれど。

自分が黙殺と書いたその意味を知らなかった、

ただ未熟だということなんだから。

けれど、思ってしまう・・・

この報道でまた誰が悪かったのか、

そんなふうな続きがありそう。

中世の魔女狩りに似たような感じ・・・




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在るだけじゃ何も起こらない ③

2012-06-18 11:06:26 | ひとの幸福
子供が犬を苛めていた、という現象の一番最初の基はどういうものだろうか?

愛、それなんじゃないか。

この現象だけに限らず、全ての現象が今の時点でその姿になったプロセスの一番最初の基は、

愛、それなんじゃないだろうか、という仮説。

今の時点で今の姿になっている(姿・現象は止まってないから、こんな表現している)、

それをどんどん遡って行くと(愛)に突き当たるし、

その途中途中のどの時点でも、(愛したい、愛されたい)が在る。

その(愛したい、愛されたい)が生む(不安)が在る。



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在るだけじゃ、何も起こらない

2012-06-17 17:02:04 | 量子力学と心
道端に色あざやかな花が咲いている。

その道を通る人たちは誰もそれを見ない。誰もがなんの関心も寄せない。

すると、何も起こらない。花は咲いてやがてその場で散る。

道端で犬を苛めている子供がいる。

誰もそれを見ない。誰もが何の関心も寄せない。

すると、何も起こらない。子供はやがてその場を去る。

所謂よくないこと、経験したくないこと、経験させたくないことは、

それに誰もが関心を寄せなければいい。


在るがままでいい。

犬を苛める子供は、その瞬間、次の瞬間も、その次の瞬間も在るがままでいい。

関心を寄せない、とは、「在るがままでいい」という心境が行為に移ること。



いま、そこで苛めている。

誰もが何の関心も寄せないでいるのを見た子供は、

次の瞬間はどうするのか、どうしないのか、

その子供がやること。

その子供の動き続ける在る状態は、

「在るがままでいい」という眼差しに影響を受けないで居ることはないだろう。



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ガン検診 ③

2012-06-17 15:45:37 | 本を読んで
今までいろんなことを例題にして、考えて来た。

どんなこともそのことを問題にするから問題になる、

干渉が現象を歪にさせる、

というようなことはあるんじゃないかと書いて来た。

たくさんの人が言うところの、所謂、良くないこと、

そう、経験したくないことには、

関心を寄せないでいるのがいいんじゃないか・・・

ガンに関心を寄せている、そのことがガン細胞に影響する・・

これは日光の三猿、“見ざる言わざる聞かざる”の教訓と、

インドのガンジーの無抵抗運動「悪を見るな、言うな、聞くな」

の云っていることと同じなのか思う・・

ある現象を「悪」と観る、捉える、そのことから、

「悪」をやっつけるという思考になりやすい。

「悪」と捉えてしまったら、既に「悪」を見てしまっているということなので、

「悪を見るな」にならないんじゃないか・・なんてことも書いたこともあるけど、

(「悪」は認識であって、現象そのものではないのだからという意味で、

無を見るな、なんてのはナンセンスだからね。)

ま、それはおいといて・・

ガンを経験したくないなら、

検診しない方がいい、ということになる。

これは福岡先生のガン検診しない考えに通じる。


見ざること。

何を見ないかというと、ガンに関心を向ける、その心を見ないこと。

その心って、ガンになったらどうしよう・・という不安だろうか。


ガンになったって一向に構わないよ~と心底思って居ればいい、

ということになるのか・・・な。

検診しても検診しなくても。

うーん・・さて・・
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布団の中で・・・

2012-06-17 06:05:25 | 日々の暮らし・思い出
昨日書いた奴、まだ観察も考えも足りない・・・

今朝、布団の中で、アレのことをあーだこーだ、又、考えていた。

表に現わせるようになってないんだと思い、奥にしまった。

もっと考える。

昨日は図書館やら買い物やらでほぼ1日出かけていた。

幾つかの店を周っていただけなんだけど、

帰って来て、目がしょぼしょぼする。

こういうことがあると、つい、どうしてこんなふうになったんだろ?

と思ってしまう。

秩序を求めてしまう、意識・・なんだろう・・・
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お喋り、楽しかった♪

2012-06-16 20:44:05 | 日々の暮らし・思い出
昨夜、娘の友人と電話でお喋り♪楽しかった。

なんと85分くらい話していた。

その瞬間瞬間の関心が向くままに言葉を発し合った。

それが響き合った。そんな感じだった。

彼女とは時々こうして話すようになった。

会ったことがあるのは数回。それも会釈程度なんだけど。

前の電話で彼女から「動的平衡」を読んでいると聞いて、

それがキッカケで私も読むという展開になった。面白い。

こういう場合、「たまたま彼女がその話しをした」という表現をする場合もあるんだろうけど、

その本を読んでなかったら勿論その話をしなかったろうし、

話しの流れの中で彼女はそれを読んでいる事を話したく“なった”のだと思う。

もしかして、違う本や雑誌やなんかも読んでいたかもしれないけれど、

流れの中で、そのことを(あ、話そう)という意識状態に“なって”、

そうした展開になったのかもしれない。

以前、ベンジャミン・リベットの脳の動き実験みたいな経験をしたと書いたことがあるけど、(12月14日だった)

そんなふうに、意識には流れがある。

このブログでいくつも自分の意識体験の観測例を出しているけど、

意識の流れは川の流れのようだ。

川の流れのようにどこもプッツンと切れてはいない。

繋がっている。

話しの流れの中で、私が(今どんなの読んでるの?)と言った。

その日の話しの流れで、その時に、

(私の意識の状態)がその言葉を発したいと“なった”。

発したいと“思った”、という表現は相応しくない。

意識の“状態”がそう“なった”のである。

そして、それを止める意志はその時働かなかったので、それを発した。

その言葉を聞いた彼女も、その日の話しのそれまでの流れを経て、

コレコレを読んでいる、と発したくなり、

それを止める意志はなかったので、それを発したのだと思われる。

非局所的に存在していたその意識が、その日その瞬間の観測(関心)によって、

波動関数の収縮という現象が起こり、

その場その時という局所的な場に出現した、という現象が、途切れることなく、

流れていた。

その日の電話の後も途切れることなく、意識は流れ続けている。

その流れで「動的平衡②」を読むようになり、

「動的平衡」を読むようになり、「せいめいのはなし」を読むようになり、

その日その日のブログを書くようになり、

意識は途切れることなく流れ、過ぎてゆく。

ご飯を食べ、洗濯をし、お使いに行き、夫や義父と話し、

友と温泉に行き、笑い、娘と電話で話し、そういう現象の意識の流れも、

川の流れのように過ぎてゆく。


瞬間瞬間、動的平衡という状態が作られ、壊され、作られ、壊され、

そのサイクルの川が流れている。

彼女も私も、世界中の誰もが、その川の流れを生きているのかと思う。

その川は全世界全宇宙に繋がっているし、

宇宙や地球が生まれてからの全ての時間に繋がっている。

七面倒くさくて、全く下手糞な表現だけれど、

なんとか意識にあるものを現わしたくて書いてみた。

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「無数の可能性」 ③

2012-06-15 18:44:57 | 本を読んで
Aさんは徘徊していると捉えたので、

家族が心配してるかと思って、家族に連絡した。

~と捉えたので、~と思い、~した。 

徘徊していると見たけど、面倒くさいと思って、

放っておいた、ということもある。

徘徊していると見たので、家族が探しているんじゃないかと思って、

警察に報せた、というのもあるかもしれない。

「無数の可能性②」で書いたように、

その他可能性はいろいろあるだろう。

その瞬間、その現象をどう観測してるか(解釈してるか・捉えているか)、

その観測の元、どうしたいと思うのか、どうしたいと思わないのか、

そう願ってどう行為するのか、

そう願わず、どう行為するのか、

一つの形がその時現れている、その瞬間から、人の数だけの展開がある。


「すべてが同時的に並行的にあること、これが本当の『自由』だと思いますが、

人間は自由が恐いのです」

全てが同時的に並行的にあること。やっぱりこれは意識のことを云っているのか、

と思わせる文章だなぁ~と思っちゃう。

その無数の可能性から、どういう選択肢でもあなたは選べるのですよ、

それは「自由」じゃないですか・・・

・・そう福岡先生は云っているんだろうか?

実際ひとは自由だ、ということだ。

自覚してなくても多くの可能性の中から選んでいるのだから。


こういう読み方は全然ナンセンスなのか、

読み間違えているのか、わからない。

福岡先生に聞くっきゃないか~??


けれど、この福岡先生の文章という現象にも、無数の解釈の仕方がある中で、

どう解釈しようと全く私の自由であるとも言えるわけだ。

なので、まっ、いいか・・・
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まだかまだか・・②

2012-06-15 14:30:03 | ひとの幸福
まだかまだか・・と思っているという状態は、

何かが早く来ないかと願っている状態ということもある。

子供の頃の遠足や、好きな人と会う約束をしているその時間を、

まだかまだか、と四六時中そんなことを思っていたら・・

その願いが叶う時間が遅れるのかもしれない。

でも、まだかまだか、と待っている、その時間は幸福な時間だ。

幸福な時間は長い方がいい。

その予定を待っているある日、その予定がなくなっても、

幸福な気持ちでいた“時”は消えないはずなんだけど、

消えることがある。

その“時”というもの自体は概念、意識なので、

多元的世界である意識は非局所的に拡がっている。

その無数の中から、

えーっ!!!とがっかりし、悲しむという観測を選びとると、

それまで楽しんでいた“時”は一瞬にして、波動関数が収縮して、

別のものに変化する。

幸福な時間だったのが、

あんなに楽しみにしてたのが馬鹿だった・・

・・というような幸福ではない時間に変化する。
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まだかまだか・・・

2012-06-15 11:50:21 | ひとの幸福
日常生活でも、まだかまだかと待っていると、とても長く感じるものだ。

反対にそれを忘れていると、えっ、もうそんな時間!?と思ったりする。

(時間)も多元的世界の一つをぎゅっと絞って観測したものと思う。

在るのは動いている流れだけであって、時間なんてない。

それを記述するのに人間は時間という概念を考え出したのだから。

そういう意味で(時間)も意識。粒子であり波動。


子供は 時間が早く経つ なんて思わない、

大人は あっという間に一年経った なんてよく思う。

大人は何故、時間が過ぎるのが早く感じるのか、について書いたことあったけど、

多分同じようなこと書いたかなぁ。忘れた。

早いなぁと捉える(観測する)ことで早いと感じるようになる。

早いなぁなんていう観測自体が無い子供は・・・

そういう感じ自体がない。

時間という概念を観測することによって、感じる、思う、そのことが発生する・・・

・・のかなぁと思う。




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