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駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

高齢者医療をどうするか

2008年04月22日 | 医療
 75歳以上を後期高齢者とした新しい医療制度が発足した。間際に名前が失礼?とゆうことで長寿医療制度に改名したようだが、図らずも福田さんのメンタリティと限界が見えた。
 医療制度の根本問題は決して難しくない。医療にはそれ相当の費用が掛かり、質の良いものほど高額になる。果たしてどの程度の支出と負担を妥当としますかとの問いに国民が答えれば良いのだ。医療は公共性が極めて高い。俺は二十年医者に掛かったことがないなどと豪語していたおじさんが、ある日突然末期の肺癌や結腸癌の肝転移で奥さんに押されて受診されることはよくある。どんなに頑健を誇る人も大丈夫、必ず死が訪れる。誰にも等しく医療が必要なのは明白。健康に生き、そして安らかに死にたいというのは国民の願い。
 厚生労働省には医療費の抑制が第一という暗黙の方針がある。本当に国民生活を脅かすほど医療費が嵩んでいるのか。誰がそれを判断するのか。政府には誰よりも何よりも説明責任がある。手の内を隠さず、わかりやすく議論して、英断を下さねば、日本の医療はどんどん偏在化し格差が拡大する。不都合に見えることを先送りや隠蔽しては、手遅れになるのは間違いない。
 姥捨て山などという表現にはきっとマスコミが虚しく浅薄皮相な批判を展開すると思うが、一見不当に見えることや嫌なこと辛いことも突き詰めて己のこととして考えなければ、やがて来る危機を乗り越えることはできない。
 親方日の丸は虚妄。親方は実は自分の分身、親方の病は篤い。情報を公開し、力を合わせて診断治療しなければ予後不良と町医者は診断する。
 
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何だか似ているぞ

2008年04月21日 | 
 直木賞の桜庭一樹と本屋大賞の伊坂幸太郎の写真を見て驚いた。なんだか凄く似ている。血の繋がりがあるのではないかとさえ思う。何処が似ているか、それは眼差し、いや眼光だ。顔の輪郭も似ている。個性的な美男美女と思う。
 いつもは、なんとか賞は読まないが、顔を見て読んでみることにした。文庫好き(吝嗇)なので、文庫を探した。桜庭さんの作品は上手く見つけられず、伊坂さんのオーディポンの祈り、ラッシュライフと重力ピエロを読んだ。私にはオーディポンの祈りが一番良かった。これを超える作品が書けているのだろうか?本屋大賞受賞作を読むかどうか微妙だ。桜庭さんの作品はどんなだろう、最後まで読めるか、楽しみだ。
 待合い室にいくつか雑誌が置いてある。ナンバー、サライ、暮らしの手帖、NAVI、ダンチューとナショナルジオグラフィック(これは数冊だけ)。それと絵本、サザエさんと赤塚不二夫の漫画。ひょっとしたら、患者さんたちの好みではないかもしれないが、自分も読むので自分好みにしてある。週刊誌は嫌いなのでない。テレビもない。
 よほど風邪でも流行らない限り、40分以上お待たせすることはないので、これだけあれば十分だと思う。本よりも知人友人とのおしゃべりを楽しむ患者さんも多く、診察室まで聞こえる大声で話す爺さんもいる。順番で呼んでも聞こえないほど難聴なのに、会話が成立しているのだろうか。順番の方は不思議なことに抜かされると直ぐ気が付くからいいのだが。
 まあ、小説より奇なりと言われる現世だが、待合室には安穏が望ましく、もし愛読者になっても待合室に桜庭さんや伊坂さんの本を置くことは無いと思う。
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町医者もプロ

2008年04月18日 | 医者
 町医者といっても内科(自分が内科医で他科の経験はないので)の話だが、そんな簡単な診察でちゃんとわかるんだろうかと訝しげな患者さんが時々居る。もちろん、わかるとも。
 プロの棋士が盤面を一瞥して、この一手ですねと指摘すれば驚くのに、町医者がちょいちょいと診察して、これは・・・ですねというと本当ですかと言う人まで居る。この辺りが町医者の辛いところで、だめ押しの検査を追加したり、病院を紹介したりしなければならないこともある。もしプロ棋士が考え込んだら、それはわからないからで、それは町医者も一緒なのだが、棋士と違い、町医者の場合は時間をかけて診察し、しばらく考えて結論(あまり自信のない)にたどり着くと高く評価される。どうしても医療には接遇の要素があるので、丁寧に時間をかけると三つ星***が付いたりする。やっかみで言えば、実力はそこそこなのに患者さんの多い医院もあるし、納得できないことに、実力はあるのにもう一つ患者さんが伸びない医院もある。まあ、そうしたことはどちらかというと例外のようだが。
 プロ棋士もそうらしいのだが、町医者はコレではないアレではないという省く思考過程(ほとんど無意識)が速いので、直ぐ二、三の可能性に絞り込め、早く結論にたどり着ける。省くと言っても、町医者のよく遭遇する病気はせいぜい三、四十で、知っている病気も万病の内、四、五百と言ったところだから、驚くことはないかも知れない。ただ経験を積んで、それぞれの疾患のバリエイションを把握しているから、もう少し鑑別している数は多いかも知れない。それと、これが肝なのだが、正常範囲が掴めているのが大きい。新米の医者は人三化け七に惑わされてしまう。
 しかしまあ、プロを任じていても、残念ながら直ぐわからないことも結構ある。
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PDAで生きる

2008年04月16日 | 世の中
 人間万事塞翁馬と言います。確かに振り返ればそうだなあと感じますが、生き生きと生きてゆくにはちょっと違う見方も必要と思います。
 長い臨床経験から、確率を考え、程度を見極め、結果を鑑賞する能力を養うことが、生きる知恵と見付けました。万が一よりも千が一、百が一に備える方が効果的です。万が一が柔らかな脅しや逃げ道に使われることがあります。万が一と言われたら、どれくらい万が一か聞き返すのが良いのです。日本人は白黒を付けず、灰色決着を好むと言われますが、正確には曖昧で済ますのを好んでいるのだと思います。群れて生きるための技術かもしれませんが、もう一歩踏み込んで灰色の程度を見極める必要があります。曖昧では次の一歩が踏み出せません。灰色の程度がわかれば、次の一歩の踏み台にできます。確率と程度がわかったら、その意味を鑑賞(評価、吟味)して決断し、その結果を鑑賞(味わい、感謝する)する能力が生きることを豊かにすると思います。別に医療の現場に限らないと思いますが、決断を促すために言い切り、訴訟を恐れるために可能性を並べる傾向があります。決める前に十分見極め弁えることです。
 人間の予知能力など多寡が知れているとしても、たとえ禍福があざなえる縄としても、確率と程度を把握しそれが使われる背景を考慮して決断し、結果を鑑賞する余裕を持つことが生き生きと生きる知恵のように思えます。
 角を矯めて牛を殺すと言います。ほとんどの医師は何とか役立ちたいと備え待っています。医療に(限りませんが)PROBABILITY,DEGREE、APPRECIATIONで向き合っていただければと思います。
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遅れて来たイタリアン

2008年04月15日 | 旨い物
 学生時代のナポリタンといえば、既に茹でて絡まっているスパゲッティを一塊り摘み上げ、おもむろにほぐしながらバターで炒め、タマネギとピーマンやシャンピニオンを少し加え、最後にトマトケチャップで和えて出来あがり、コッテリとそれなりに美味しかった。脇見をしながらでも食べられ、牌を摘んでいる時など結構人気があった。それが二十年くらい前から、徐々に本格イタリアンが出現、茹で上げが主流となった。今では昔懐かしいベトベトナポリタンは絶滅危惧種になりつつある。
 40年前には本格的なイタリアンレストランは少なく、圧倒的にフレンチが多かった。もっともどちらにも自前で行ったことはなく、一人前何千円なんて食事があること自体、不思議だった。
 今ではフレンチよりもイタリアンレストランの方が多くなった。イタリアンが出遅れたのはたぶん和風スパゲッティがイタリア料理の代表と思われ、レストランで食べるほどのものではないと見なされたからだろう。1980年代になって海外旅行が手軽になり、イタリア滞在経験者が増えるにつれ、イタリア料理の素晴らしさがわかり、テレビなどマスコミで紹介されイタメシブームが起きた。味もさることながら、お値段もフレンチよりややお手軽なのも、ブームに拍車をかけたのだろう。
 味覚というのは不思議だ。最初ゆであげスパゲッティを食べたときは少し物足りなく感じたのだが、二三度食べる内に素材の持ち味、麺の歯ごたえと喉越しの気持ちよさを美味しく感ずるようになった。こってりソースの伝統的なフレンチよりも、元々日本人の味覚に向いていたのかもしれない。連れ合いと出かけ、お互いの注文を取り分けて倍の味を楽しむ、これもイタリアンの良さだ。
コメント (2)
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