人間の記憶は当てにならない。患者さんに問診する時、必ずいつから始まった症状かを聞く。今朝からとか一昨日からとかはっきり特定できる表現は非常に有り難い。大抵は、ちょっと前からとか暫く前からという表現が多く、何度も問い直さねばならない。何月何日からかが分かれば一番良いのだが、徐々に始まる症状もあり、数時間、半日、一日、二三日,五六日、一週間、二週間、一ヶ月、二三ヶ月、半年、一年、二年以上程度まで特定できればよしとする。中高年女性に多いのだが、何時だったかと聞かれ「孫が遊びに来た日」。とか「嫁が東京へ行った日」。などという返事をされるのも困る。
これも中高年の女性に多いのだが、この前貰った軟膏を又頂戴と言われて、二三ヶ月遡っても記載がない。あれれと、どんどん遡ると一昨年だったりする。要するに多くの人は、自分標準の世界に住んでいて、変わりなき日常を生きていると一年前も一昨日と同じように感じられてしまうのだ。
良好な記憶力や記銘力は正常な脳の働きの証なのだが、どうもこれが正常と思える人でもかなり変容してというか編集して記憶装置に直されている。だから三ヶ月三年前の記憶も、まして十年、二十年前の記憶など鮮明なうちにきちんと記録しておかないと変質することがしばしばある。
これは記憶の一般的な印象なのだが、もう一つ日本人はと言いたいことがある。日本人は竹を割ったような性格が褒め言葉なのから分かるように、あっさり淡泊を好むようで何時までも執念深く粘着するのを好まない。確かにご近所づきあいの場合はあっさりが良いのだろうが、権力や大資本の失敗や失態に淡泊なのは、前進浄化を妨げていると思う。政府や東電が原発の事故情報を隠し、パニックを防ぐためと称して情報を全面公開しないのは、時間稼ぎの為だと気が付くべきだ。日本人は(例外もあるだろうが)怒っても恨んでも直ぐ忘れてしまう。怒りが鎮まった三ヶ月後や半年後に事実を出せば、嘘を付いたことにはならないし、糾弾の声も鎮まっているという作戦なのだ。
何時までも孫子の代まで忘れず糾弾の声が緩まないとすれば、先送りで矛先をかわす作戦が効かないので、もっと早期から事実が明かになり、現時点で既に浜通りからの住民撤退も根本的で抜本的な形になっていただろう。隣近所のトラブルに寛容で淡泊なのは良いが、政府大資本の失敗過失にはアラブの執念(語弊があればお許しを)で対応したい。
杜撰極まる年金処理と底抜け無責任体制を、君忘れる事なかれ。