駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

怖い嘘つき

2012年11月30日 | 町医者診言

      

 子供の頃、嘘つきは泥棒の始まりと近所のガキ大将と言い合った記憶がある。今、考えるとこれは妙なことわざだ。なんだか泥棒の方が嘘つきよりも悪いみたいだ。こそ泥なら嘘つきの方が悪いと憤慨するかも知れない。確かに泥棒は悪いが、嘘つきはそれに劣らず悪いのではないか。

 嘘も方便とか可愛い嘘というのはさほどの悪事ではないだろう。親切な場合もあるかも知れない。しかしながら多大の損害を与え、多数の犠牲者を生みだす嘘は泥棒以上に悪いと思う。

 恐ろしい嘘は自分が嘘をついているとは思っていない人物の嘘で、物の怪が取り憑いたか自己暗示か、信じ込んで主張されるとつい本当のように聞こえてしまう。冷静に本当かなと批判力を保ちながら聞ければ、いくつかの反証を挙げることができ、騙されることはないのだが、これは中々難しい。

 巧みな嘘はこちらの顔色を見ながら、少しずついつの間にか内容をすり替えてゆく人物の嘘で、これも中々手強い。これには記憶力で対応したい、確か三週間前にはこんな事は言っていなかったと思い起こせば、騙されるのを免れるだろう。

 まあ、嘘と言えば人聞きが悪いが、言葉巧みに誘導する手法は世に溢れている。私は大丈夫と思わないで、時々頬を抓り、眉に唾を付けよう。

 

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富有柿

2012年11月29日 | 身辺記

      

 兄嫁と妹から富有柿が送られて来た。懐かしい故郷の味だ。私は岐阜県、美濃の産で、しかも母は本巣郡糸貫町の出身だったので、柿と言えば富有柿を食べてきた。

 柿というものはこういうものだと思っていたのだが、岐阜を離れた当初、店先で小振りの柿が売られているので、なぜ渋柿を売っているのだろうと妙な気がしたのを覚えている。職員にお裾分けするとワー大きな柿と驚いていた。今年も彼女たちに差し上げたいと思う。

 故郷を離れて暮らすようになるとは、子供の頃には思いもよらなかったが、当地に三十二年ここが第二の故郷になった。患者さんにも七、八人に一人くらい故郷を離れてここに移り住んだり、転勤でやってきた人が居る。鳥取島根奈良佐賀の人はまだお目にかからないが、そのうち全都道府県が揃うだろう。

 岐阜県と言うのは地味な県で、何処のご出身と聞かれ岐阜と答えるのに気遅れを感じていたこともあったが、外から見て今は確かに地味ではあるがキラリと光るところもあると見直している。。

 

 

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週末の外食でも良い

2012年11月28日 | 人生

     

 若い時は年寄りは昔の思い出ばかり、それも何度聞いたかという話が多いと口には出さないが秘かに思っていた。自分も年を取り、この話はしたかも知れないがと思いながら話をするようになった。

 しかし前期高齢者になっても、おそらく後期高齢者になっても、明日の夢や楽しみがないわけではない。勿論、世界一周旅行に行くとか大論文を書いたりというような夢は見ないわけだが、週末に何か旨い物を食べに行こうと女房と相談して、ひとつ星を予約すれば、それが結構な楽しみになる。来年の連休はどの国へ行こうかなどというのは一つの夢で大きな楽しみに感じる。つまりなにがしか、小さくとも先の楽しみは人を生きさせる力になる。

 ちょっと飛躍する。運不運の相半ばする過ぎ来し方ではあったが、自分が生きてきた世界には愛着がある。二十年三十年先と言えばもう自分は居ない未来かも知れないが、その時代を楽しみのある光の見える世界にしたいと願う。自分に出来ることなぞたかが知れているとしても、不知火の海やみすず刈る山辺の未来をきちんと考えようとする人達を応援したい。

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巧言令色ではなく

2012年11月27日 | 町医者診言

     

 私が予言した(殆どの人が予想した?)通り、誰と誰がくっついた離れたという報道が飛び交っている。有権者は興味本位のマスコミの視点を離れて、政策中心に動きを見極める必要がある。

 なぜマスコミは維新を厳しく批判しないのだろうか。人気があり、選挙で一大勢力になればご機嫌を取っておかなければならないということか。維新は橋下の個人商店で、政策は二の次にして受け狙いで動く、芯のない政党なのが明らかになった。数は力なので数合わせは当然(例えば小林興起氏などを受け入れる)に理解を示すのでは辻褄が合わない。ついこないだは、だからけしからんと誰かを叩いていたではないか。スポンサーの意向で偏向するマスコミの話は四分の一と受け取りたい。

 話を作るのは簡単、口では何とでも言える。実効性があるか実行できるかを厳しく問う必要がある。そう言われればこう言い返す式の口喧嘩は面白いだけで中身が薄い。もしやるならばラウンドテーブルディスカッション形式で各党に現議席数と立候補者数を併せた数に比例した時間配分で基調演説をさせ、あとは発言時間一分十回まででフリーに討論して貰ったら良い。

 耳触りのいいうまい話を聞かされた揚句、出来なかった弁解を立て板に水で聞かされては敵わん。本当に命懸けで頑張っている人は私は命懸けなどと大見えを切らない。大向こうからは年寄りの冷や水、大きく出たか沈む太陽と声を掛けたい。

 自分で判断しようとしない傾向のある日本人はついマスコミの流すイメージ人気に囚われてしまう。エネルギー政策、TPPへの対応、消費税を含めた税制と生活の最低保障問題、取り調べ可視化を含めた情報開示への取り組みなど、個々の問題への対応を自分で調べて考えたい。

 

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力は溜めるのが良い

2012年11月26日 | 小考

     

  昨日NHK将棋を半分居眠りしながら見ていた。森内名人が阿久津七段にきっちり勝ったのだが、弱いアマチュアの私には後手の囲いを破り飛車が成り込んだ先手の阿久津七段の方が有利に見えた。佐藤王将の解説ではこうした直接的で単純な攻めは上手くゆかないと感じる、プロはもう少し溜めのある手を考えるものなんですが、ということだった。実際その通りでぎりぎりのところで森内名人が残していた。

 どうも直線的に攻める手は反動が大きい上に自分の守りに隙が出来てしまうようで、皮を切った時には肉を切られ、肉を切ったときには骨を切られてしまうことが多いようだ。

 どうして直接的な攻めよりも溜のある手の方が勝利に結びつく確率が高いのか非常に興味がある。こうした溜というか紆余曲折があるプロセスを踏んだ方が有利な局面を導きやすいというのは、人間社会の色んな場面でも真実のような気がする。どういうわけだろうか。

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