8月18日 猿投神社~足助神社~足助八幡宮~松平東照宮~高月院
愛知県豊田市猿投町大城猿投神社 の標高は 約139.88m
猿投神社
三河国の三宮のひとつに数えられています
主祭神は大碓命。古墳時代の皇子で、日本武尊という名で知られる小碓尊の双子の兄にあたります。
大碓命はそんな弟、小碓尊に殺害されたとも、父、景行天皇(けいこうてんのう)の命に背き、
逃亡したことで美濃国に封じられたなど、英雄的な扱いである弟とはまったく逆に出来の悪い兄として
知られています。が、他説やこの地によれば、大碓命はこの地の開拓に力を入れ、
最期には猿投山の山中で毒蛇に噛まれ亡くなられた、といわれているなど、
他に比べ、少しは救いがあるのが印象的。その後、大碓命は猿投山に葬られ、
この地に神として祀られました。墓は現在も西の宮に建てられています。
毎年10月には猿投まつりが開催され、日本武術の形をした踊りの伝統芸能
「棒の手」を披露、奉納することで、多くの観光客から注目されています。
猿投山は日帰りトレッキングスポット
標高は629メートル。
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御祭神が「大碓命(おおうすのみこと)」であることです。
大碓命は景行天皇の第一子ですが、日本武尊とは双子の関係にあり兄弟でした。
景行天皇は日本武尊に西国の平定を命じ、尊は無事平定を成し遂げ大和に帰ったのですが、
次に東国を平定しようとした際に「今度は兄の大碓命が行くべきだ」と主張したそうです。
ところが大碓命が拒んだので、やむなく日本武尊が東征に赴くことになったのでした
日本武尊に双子の兄がいたなんて知らなかった。
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足助神社
鎌倉時代末期に、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の旗をあげ、
笠置山に立て籠ったときの
篭城軍総大将となった武将 足助次郎重範を祀る。この時の戦は、
歴史上「元弘の変(1331年)」と呼ばれている。
足助次郎重範は弓の名手であった。
足助八幡宮
本殿は、国の重要文化財。1466年に再建されたもので、室町時代の特色が遺されている。
境内には、わらじの像が置かれている。
その昔、「足を助ける神」として信仰されていた。
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龍とカエルの手水舎
松平東照宮は、徳川家康と、松平氏の始祖松平親氏をまつる神社。
松平親氏がこの地に居を構え、氏神として若宮八幡を勧請したのが
はじまりであると伝えられている。
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手水舎
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ここに落ちたら怪我するよ。
産湯の井戸
現在あるものは、
7つあった井戸のなかでもっとも古い井戸と言われている。
松平家では代々、この井戸の水を産湯に使っていて、
徳川家康も産湯として用いたと言われている。
ハチがブンブン飛んでいて、
日傘をブンブン振り回しながら参拝。
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松平郷園地内の天下池、ハス(蓮:ハス科の多年生水生植物)の花。
高月院は、松平氏の菩提寺。元々は「寂静寺」といい、
在原信重(親氏の妻の父親)が建立したと言われている。
親氏が1367年に本尊阿弥陀仏をはじめとした堂・塔のすべてを寄進してから「高月院」と改め、
松平氏の菩提寺になったと伝えられている。
家康は寺領百石を寄進し、以来、松平家・徳川家ゆかりの寺として、
明治維新まで時の将軍によって手厚い保護を受けてきた。現在の山門や本堂は、
1641年に徳川家光によって建立されたもの。松平氏の歴史に深く触れられる。
お釈迦様の足跡。仏足石は、インドにおいてお釈迦様の代理を意味し、
そこで説法されたことを示す。足裏には、
千輻輪相(せんぷりんそう)という図が描かれている。
徳川家の始祖松平太郎左衛門親氏
松平郷 松平城址
松平氏・徳川氏の始祖とされる松平親氏(まつだいら ちかうじ)が、
松平館の詰めの城として築城したと言われている。
松平親氏-泰親(やすちか)-信光--親忠(ちかただ)--長忠(ながただ)--信忠(のぶただ)--清康--広忠--家康
家康は松平九代目として誕生。二十四歳の時徳川姓に変えた。
松平館からほど近い、標高298mの山頂に築かれた山城。
駆け上ってまいりました。
愛知県豊田市猿投町大城猿投神社 の標高は 約139.88m
猿投神社
三河国の三宮のひとつに数えられています
主祭神は大碓命。古墳時代の皇子で、日本武尊という名で知られる小碓尊の双子の兄にあたります。
大碓命はそんな弟、小碓尊に殺害されたとも、父、景行天皇(けいこうてんのう)の命に背き、
逃亡したことで美濃国に封じられたなど、英雄的な扱いである弟とはまったく逆に出来の悪い兄として
知られています。が、他説やこの地によれば、大碓命はこの地の開拓に力を入れ、
最期には猿投山の山中で毒蛇に噛まれ亡くなられた、といわれているなど、
他に比べ、少しは救いがあるのが印象的。その後、大碓命は猿投山に葬られ、
この地に神として祀られました。墓は現在も西の宮に建てられています。
毎年10月には猿投まつりが開催され、日本武術の形をした踊りの伝統芸能
「棒の手」を披露、奉納することで、多くの観光客から注目されています。
猿投山は日帰りトレッキングスポット
標高は629メートル。
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御祭神が「大碓命(おおうすのみこと)」であることです。
大碓命は景行天皇の第一子ですが、日本武尊とは双子の関係にあり兄弟でした。
景行天皇は日本武尊に西国の平定を命じ、尊は無事平定を成し遂げ大和に帰ったのですが、
次に東国を平定しようとした際に「今度は兄の大碓命が行くべきだ」と主張したそうです。
ところが大碓命が拒んだので、やむなく日本武尊が東征に赴くことになったのでした
日本武尊に双子の兄がいたなんて知らなかった。
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足助神社
鎌倉時代末期に、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の旗をあげ、
笠置山に立て籠ったときの
篭城軍総大将となった武将 足助次郎重範を祀る。この時の戦は、
歴史上「元弘の変(1331年)」と呼ばれている。
足助次郎重範は弓の名手であった。
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足助八幡宮
本殿は、国の重要文化財。1466年に再建されたもので、室町時代の特色が遺されている。
境内には、わらじの像が置かれている。
その昔、「足を助ける神」として信仰されていた。
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龍とカエルの手水舎
松平東照宮は、徳川家康と、松平氏の始祖松平親氏をまつる神社。
松平親氏がこの地に居を構え、氏神として若宮八幡を勧請したのが
はじまりであると伝えられている。
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手水舎
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産湯の井戸
現在あるものは、
7つあった井戸のなかでもっとも古い井戸と言われている。
松平家では代々、この井戸の水を産湯に使っていて、
徳川家康も産湯として用いたと言われている。
ハチがブンブン飛んでいて、
日傘をブンブン振り回しながら参拝。
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松平郷園地内の天下池、ハス(蓮:ハス科の多年生水生植物)の花。
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高月院は、松平氏の菩提寺。元々は「寂静寺」といい、
在原信重(親氏の妻の父親)が建立したと言われている。
親氏が1367年に本尊阿弥陀仏をはじめとした堂・塔のすべてを寄進してから「高月院」と改め、
松平氏の菩提寺になったと伝えられている。
家康は寺領百石を寄進し、以来、松平家・徳川家ゆかりの寺として、
明治維新まで時の将軍によって手厚い保護を受けてきた。現在の山門や本堂は、
1641年に徳川家光によって建立されたもの。松平氏の歴史に深く触れられる。
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お釈迦様の足跡。仏足石は、インドにおいてお釈迦様の代理を意味し、
そこで説法されたことを示す。足裏には、
千輻輪相(せんぷりんそう)という図が描かれている。
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松平郷 松平城址
松平氏・徳川氏の始祖とされる松平親氏(まつだいら ちかうじ)が、
松平館の詰めの城として築城したと言われている。
松平親氏-泰親(やすちか)-信光--親忠(ちかただ)--長忠(ながただ)--信忠(のぶただ)--清康--広忠--家康
家康は松平九代目として誕生。二十四歳の時徳川姓に変えた。
松平館からほど近い、標高298mの山頂に築かれた山城。
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駆け上ってまいりました。