9月21日 晴
JRで米原乗り換え彦根へ。
1時間半くらいでついた。1,450円。
駅のコンビニで赤飯おにぎりとグミ購入。
彦根駅は思ったより静か、ですね。 井伊直政公。
駅から歩いて 佐和山城跡へ。 滋賀県彦根市古沢町
近道行こうと思ってちょっと迷ったりした。地元の方に道を聞いたり、、、。
線路の向こう側なんだよね。
彦根駅の北側、佐和山(232.5m)にある城跡。
天正18年(1590)石田三成(いしだみつなり)(1560-1600)が、佐和山城主となってから
5層の天守を構え、鳥居本(とりいもと)を大手とする立派な城だったといわれる。
檀家さんの墓の先に山がある。
龍潭寺(りょうたんじ) 井伊家の菩提寺。
すてきなお庭があります。 「ふだらくの庭」
この日は、彼岸に入っているので墓参りをしている人が。
頂上まで600m。
櫓跡からの眺め。
三成が関ヶ原から逃亡している間に居城、佐和山城は落城。
城は高崎城主の井伊直政に与えられた。
走って頂上へ。頂上にはちょうど記念撮影をしている
10人ほどの初老のおじ様プラスきれいなお姉様1人の団体が。
佐和山の山頂、標高232.9mの位置に本丸が設けられていた。
弁天様まで行くとのことで後ろをついて行った。
大洞弁財天 彦根城の鬼門に当たる地。
この石は、わずかに残った隅石垣ということ。 周りは草ぼうぼう。
ハイキングコースとあるけど、平坦な道ではないよ。
そしてお昼休憩から彦根城まで一緒に行くことにした。
大阪からいらしたとのことです。
あるおじさんが、大阪から彦根までの運賃で 往復買ったのになぜ自分の方が
他の人より高いのか?(百円弱くらいの差)とかで結構盛り上がってしゃべっていた。
埋木舎(うもれぎのや)は、滋賀県彦根市尾末町にある、
旧彦根藩主井伊家の屋敷跡。
彦根城佐和口御門に近い中堀に面した質素な屋敷で、創建は宝暦9年(1759年)頃と見られる
井伊直弼が生まれたのは、文化12年(1815年)10月29日。彦根城の一角にある
「槻御殿[けやきごてん]」というお屋敷で生まれた。
大名のこどもは、父のあとをついで大名になれるのは1人だけで、
ほかの男子は、あとつぎのいない家の養子となるのが、
社会で活躍できる方法だった。
直弼が17歳から住んだのが彦根市尾末町にある「埋木舎」という屋敷。
埋木舎とは、世の中の出世・競争とは離れて、この屋敷に埋もれて、
学問・文武の芸に励もうという気持ちをこめて、直弼がつけた名前
埋木舎に住んでいたころからそばにいた彦根藩士の娘との間に
直憲[なおのり]・弥千代[やちよ]ら15人のこどもが生まれた。
このうち成人したのは7人だけだった。
1850年 直弼が十三代彦根藩主となったのは三十六歳。
幕府の大老職についたのは八年後。
安政七年(1860) 三月三日 桜田門外の変で 四十六歳で死去。
玄宮園 広くてすばらしい庭園。
お堀に黒鳥~。
天守閣への道。 ここから、石段が、、、。
とても歩きでがあるよ。
天下普請の城、彦根城。
天守建築では珍しい切妻破風。
2階と最上階に華頭窓が用いられた。
華頭窓とは釣鐘状の形をした尖頭型の窓。
天守は大津城、天秤櫓は長浜城、太鼓門は佐和山城、西の丸三十櫓は小谷城からの移築。
天下普請(てんかぶしん)とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、
行わせた土木工事のこと。
ひこにゃん すごい人気。
馬屋 元禄時代に建てられ常に十数頭の藩主用の馬がつながれていた。
現存する馬屋は全国で彦根城のみ。
3時過ぎて、帰り道に
滋賀県 護国神社
ゆっくり歩いて彦根駅へ。
初めての近江鉄道。 車両内に整理券発券機が。
わ~すごい! なんてぼやっとしてたら
こっちの車両は、反対方面で 乗らなくてはならないのはあっちだよ!
すでにドアは閉まり、ゆっくりと走り出している、、、。大汗。
結局、16時18分発のJRに乗り、米原乗換
名古屋駅17時42分着。
JR高島屋の地下で、家族の晩御飯用にお弁当、サラダ、揚げ物など買って
市バスで帰った。
JRで米原乗り換え彦根へ。
1時間半くらいでついた。1,450円。
駅のコンビニで赤飯おにぎりとグミ購入。
彦根駅は思ったより静か、ですね。 井伊直政公。
駅から歩いて 佐和山城跡へ。 滋賀県彦根市古沢町
近道行こうと思ってちょっと迷ったりした。地元の方に道を聞いたり、、、。
線路の向こう側なんだよね。
彦根駅の北側、佐和山(232.5m)にある城跡。
天正18年(1590)石田三成(いしだみつなり)(1560-1600)が、佐和山城主となってから
5層の天守を構え、鳥居本(とりいもと)を大手とする立派な城だったといわれる。
檀家さんの墓の先に山がある。
龍潭寺(りょうたんじ) 井伊家の菩提寺。
すてきなお庭があります。 「ふだらくの庭」
この日は、彼岸に入っているので墓参りをしている人が。
頂上まで600m。
櫓跡からの眺め。
三成が関ヶ原から逃亡している間に居城、佐和山城は落城。
城は高崎城主の井伊直政に与えられた。
走って頂上へ。頂上にはちょうど記念撮影をしている
10人ほどの初老のおじ様プラスきれいなお姉様1人の団体が。
佐和山の山頂、標高232.9mの位置に本丸が設けられていた。
弁天様まで行くとのことで後ろをついて行った。
大洞弁財天 彦根城の鬼門に当たる地。
この石は、わずかに残った隅石垣ということ。 周りは草ぼうぼう。
ハイキングコースとあるけど、平坦な道ではないよ。
そしてお昼休憩から彦根城まで一緒に行くことにした。
大阪からいらしたとのことです。
あるおじさんが、大阪から彦根までの運賃で 往復買ったのになぜ自分の方が
他の人より高いのか?(百円弱くらいの差)とかで結構盛り上がってしゃべっていた。
埋木舎(うもれぎのや)は、滋賀県彦根市尾末町にある、
旧彦根藩主井伊家の屋敷跡。
彦根城佐和口御門に近い中堀に面した質素な屋敷で、創建は宝暦9年(1759年)頃と見られる
井伊直弼が生まれたのは、文化12年(1815年)10月29日。彦根城の一角にある
「槻御殿[けやきごてん]」というお屋敷で生まれた。
大名のこどもは、父のあとをついで大名になれるのは1人だけで、
ほかの男子は、あとつぎのいない家の養子となるのが、
社会で活躍できる方法だった。
直弼が17歳から住んだのが彦根市尾末町にある「埋木舎」という屋敷。
埋木舎とは、世の中の出世・競争とは離れて、この屋敷に埋もれて、
学問・文武の芸に励もうという気持ちをこめて、直弼がつけた名前
埋木舎に住んでいたころからそばにいた彦根藩士の娘との間に
直憲[なおのり]・弥千代[やちよ]ら15人のこどもが生まれた。
このうち成人したのは7人だけだった。
1850年 直弼が十三代彦根藩主となったのは三十六歳。
幕府の大老職についたのは八年後。
安政七年(1860) 三月三日 桜田門外の変で 四十六歳で死去。
玄宮園 広くてすばらしい庭園。
お堀に黒鳥~。
天守閣への道。 ここから、石段が、、、。
とても歩きでがあるよ。
天下普請の城、彦根城。
天守建築では珍しい切妻破風。
2階と最上階に華頭窓が用いられた。
華頭窓とは釣鐘状の形をした尖頭型の窓。
天守は大津城、天秤櫓は長浜城、太鼓門は佐和山城、西の丸三十櫓は小谷城からの移築。
天下普請(てんかぶしん)とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、
行わせた土木工事のこと。
ひこにゃん すごい人気。
馬屋 元禄時代に建てられ常に十数頭の藩主用の馬がつながれていた。
現存する馬屋は全国で彦根城のみ。
3時過ぎて、帰り道に
滋賀県 護国神社
ゆっくり歩いて彦根駅へ。
初めての近江鉄道。 車両内に整理券発券機が。
わ~すごい! なんてぼやっとしてたら
こっちの車両は、反対方面で 乗らなくてはならないのはあっちだよ!
すでにドアは閉まり、ゆっくりと走り出している、、、。大汗。
結局、16時18分発のJRに乗り、米原乗換
名古屋駅17時42分着。
JR高島屋の地下で、家族の晩御飯用にお弁当、サラダ、揚げ物など買って
市バスで帰った。