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「テニアン島沖縄県人戦没者追悼式」に続いて、専習学校の慰霊祭が行われた。南洋興発株式会社付属専習学校は、一切給費、全寮制の学校として、1938年(昭和13年)4月にテニアン島に設立された。『記念誌 はるかなるテニアン』(沖縄テニアン会)所収の阿部興資「教育と松江春次」には次のように記されている。
〈この専習学校は南洋興発が中堅技術社員の育成を目的とする三ヶ年過程の社内養成機関として、設立者松江春次名義で南洋庁へ届け、学科内容を一応、甲種実業程度としましたが、上級に進みますと工、農の旧制専門学校に比すべき高度の教育を施したもので、十分これに耐え得る智能と健康を具有する青年でなければ修学は困難でした。
入学資格は原則として、サイパン、テニアン、ロタの各補習学校卒業の志願者中より、選抜試験の結果入学を許可しましたが、昭和十五年四月入学の第三期生以降はこれに加えて、パラオ、トコベなど南興全事業地から優秀な健児を簡抜したわけです。
なお、会社当局は、専習学校設立と同時に、給費、全寮制、二ヶ年課程のテニアン製糖所付属徒弟学校を設立、昼は工場実習、夜は授業を行いました。専習学校は南洋庁立サイパン実業学校と毎年野球、庭球、柔道、剣道の定期対抗試合を挙行して大いに青春の血を湧かしたものであります。
まことに千歳の恨事、それは昭和十九年六月のテニアンの戦禍によって学校が解散の憂き目に会ったことです。
しかし、その間、小原、藤原、中川の歴代校長を送迎し、専習、徒弟共七期を数え、その卒業生、在校生は、専習一四八名、徒弟四六名に達しました。松江社長の教育への素顔ここに実ったと云わねばなりません〉(173~4ページ)。
写真は「沖縄の塔」の隣にある「専習健児慰霊之塔」の前で祈祷をあげるシッド・オグロ神父。
〈この専習学校は南洋興発が中堅技術社員の育成を目的とする三ヶ年過程の社内養成機関として、設立者松江春次名義で南洋庁へ届け、学科内容を一応、甲種実業程度としましたが、上級に進みますと工、農の旧制専門学校に比すべき高度の教育を施したもので、十分これに耐え得る智能と健康を具有する青年でなければ修学は困難でした。
入学資格は原則として、サイパン、テニアン、ロタの各補習学校卒業の志願者中より、選抜試験の結果入学を許可しましたが、昭和十五年四月入学の第三期生以降はこれに加えて、パラオ、トコベなど南興全事業地から優秀な健児を簡抜したわけです。
なお、会社当局は、専習学校設立と同時に、給費、全寮制、二ヶ年課程のテニアン製糖所付属徒弟学校を設立、昼は工場実習、夜は授業を行いました。専習学校は南洋庁立サイパン実業学校と毎年野球、庭球、柔道、剣道の定期対抗試合を挙行して大いに青春の血を湧かしたものであります。
まことに千歳の恨事、それは昭和十九年六月のテニアンの戦禍によって学校が解散の憂き目に会ったことです。
しかし、その間、小原、藤原、中川の歴代校長を送迎し、専習、徒弟共七期を数え、その卒業生、在校生は、専習一四八名、徒弟四六名に達しました。松江社長の教育への素顔ここに実ったと云わねばなりません〉(173~4ページ)。
写真は「沖縄の塔」の隣にある「専習健児慰霊之塔」の前で祈祷をあげるシッド・オグロ神父。