所用で鹿児島に行ってきた。北京オリンピックの開会式をホテルの部屋で見ながら、前回のアテネ・オリンピックの開会式も県外(東京)のホテルで見たことを思い出した。4年前の8月13日の夜、ホテルに帰ってテレビをつけたら、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落したというニュースが流れた。驚いてそのあとずっと続報を待っていたのだが、報じられるのは巨人の渡辺オーナーの辞任に関することが中心で、そのうちアテネ・オリンピックの開会式が始まり、詳しい状況を知ったのは翌朝の新聞によってだった。
全国紙の扱いは一面トップは一つもなく、ヤマトゥのマスコミの認識はこういうものか、と呆れると同時に怒りが募った。大手マスコミに幻想はないつもりだったが、ここまで酷かったのだな、と認識を新たにさせられた。事故の翌日、某全国紙の社会部の記者と話す機会があったが、死者が出なかったのでトップ記事にはならなかった、ということだった。
首都圏の大学に落ちていたらどう扱ったか、という話にもなったが、そういう議論をすること自体馬鹿げたことだろう。沖国大のように金網を隔てて米軍基地と隣接している大学が首都圏にあるか。首都圏には置けない危険な基地だから、沖縄に置いてあるのだ。これが日本政府の本音だろう。厚木基地や岩国基地周辺の住民などは他人事ではないと考えたかも知れないが、ヤマトゥに住む圧倒的多数の人には、オリンピックやナベツネ辞任ほどの関心もなかったということだ。
あれから4年が経って、連日のオリンピック報道の中で、他府県で明日の沖国大の事故を思い出す人はごくわずかだろう。沖縄以外の地域(厚木や岩国などをのぞく)では、米軍基地の脅威にさらされることもなく、日米安保条約の問題はとうに忘れられている。平和運動の中においてさえ意図的に遠ざけられている。この数年、全国で雨後の竹の子のように九条連ができ、憲法九条を守れ、という「平和運動」をやっているが、その中でどれだけの団体が日米安保条約の問題も取り上げているか。
九条を守れ、とは言っても米軍基地の撤去は言わず、自衛隊に反対するわけでもない。保守層も含めて幅広く人を集めるためにと、日米安保という対立する問題は棚上げにされ、国民投票が行われた場合に九条を守る、という一点に運動が集約される。そういう中味の護憲運動は、自衛隊が自衛軍に変わり集団的自衛権を行使する、そのことさえ食い止められればいい、というものでしかなく、沖縄の米軍基地問題は端から蚊帳の外に置かれるのだ。反安保なき護憲運動とは、沖縄への米軍基地押しつけはそのままにして、日本「本土」の平和と安全さえ守られたらいい、という虫のいいものでしかない。
基地撤去か、県外移設か、国外移設か、県内移設か、そういう議論を沖縄の中で行い、苦しみ悩んでいるウチナンチューのことなど、ヤマトゥの大多数の人にとっては関心すらないだろう。ヤマトゥにとって沖縄とは、「平和憲法」と日米安保体制を併存させる矛盾を処理するための都合のいい場所でしかない。いかに日米安保の問題を争点化していくか。その追求を沖縄から徹底してやっていかなければならないし、その方法は多様であっていい。正論だけを言って通用する相手ではない。
全国紙の扱いは一面トップは一つもなく、ヤマトゥのマスコミの認識はこういうものか、と呆れると同時に怒りが募った。大手マスコミに幻想はないつもりだったが、ここまで酷かったのだな、と認識を新たにさせられた。事故の翌日、某全国紙の社会部の記者と話す機会があったが、死者が出なかったのでトップ記事にはならなかった、ということだった。
首都圏の大学に落ちていたらどう扱ったか、という話にもなったが、そういう議論をすること自体馬鹿げたことだろう。沖国大のように金網を隔てて米軍基地と隣接している大学が首都圏にあるか。首都圏には置けない危険な基地だから、沖縄に置いてあるのだ。これが日本政府の本音だろう。厚木基地や岩国基地周辺の住民などは他人事ではないと考えたかも知れないが、ヤマトゥに住む圧倒的多数の人には、オリンピックやナベツネ辞任ほどの関心もなかったということだ。
あれから4年が経って、連日のオリンピック報道の中で、他府県で明日の沖国大の事故を思い出す人はごくわずかだろう。沖縄以外の地域(厚木や岩国などをのぞく)では、米軍基地の脅威にさらされることもなく、日米安保条約の問題はとうに忘れられている。平和運動の中においてさえ意図的に遠ざけられている。この数年、全国で雨後の竹の子のように九条連ができ、憲法九条を守れ、という「平和運動」をやっているが、その中でどれだけの団体が日米安保条約の問題も取り上げているか。
九条を守れ、とは言っても米軍基地の撤去は言わず、自衛隊に反対するわけでもない。保守層も含めて幅広く人を集めるためにと、日米安保という対立する問題は棚上げにされ、国民投票が行われた場合に九条を守る、という一点に運動が集約される。そういう中味の護憲運動は、自衛隊が自衛軍に変わり集団的自衛権を行使する、そのことさえ食い止められればいい、というものでしかなく、沖縄の米軍基地問題は端から蚊帳の外に置かれるのだ。反安保なき護憲運動とは、沖縄への米軍基地押しつけはそのままにして、日本「本土」の平和と安全さえ守られたらいい、という虫のいいものでしかない。
基地撤去か、県外移設か、国外移設か、県内移設か、そういう議論を沖縄の中で行い、苦しみ悩んでいるウチナンチューのことなど、ヤマトゥの大多数の人にとっては関心すらないだろう。ヤマトゥにとって沖縄とは、「平和憲法」と日米安保体制を併存させる矛盾を処理するための都合のいい場所でしかない。いかに日米安保の問題を争点化していくか。その追求を沖縄から徹底してやっていかなければならないし、その方法は多様であっていい。正論だけを言って通用する相手ではない。
小学生のとき、飛んでる米軍のヘリコプターを見たら写真撮られて誘拐されるとさわいでました。
中学、高校にあがって子どものたわいない妄想から卒業して、ちょっと大人。
大学に入学して3年目、自分の大学にヘリコプターが墜落。墜ちッこないヘリが墜ちてきた。
子どもの妄想と思ってたもののほうが現実味を帯びてきて、自分はヘリなんか落ちないと妄想する大人になっただけだと痛感。ですがそれは事件直後ではなく日がたつにつれて鮮明になってきました。
ヘリ墜落のシンポジウムの手伝いをしましたが、学内がすでに2つに割れてました。ポスターを貼るのにもびくびくしていました。
「教授にさせられてるんじゃないのか?」と言う人間と「ポスター貼って嫌がらせうけてないか?」と言う人間の間をうろちょろしてなんで自分がびくびくしなきゃならないんだろうと奇妙に感じました。
内地の大学院生が沖縄にくるので案内についていくことになりました。高台から普天間基地を見ながら、その大学院生たちに必死で説明する初老の男性。カメラを構えた大学院生の後ろで音をたてないようにわたしたち聞いていました。
突然、戦闘機が近くに現れると初老の男性の声をさえぎってキャーキャー言う黄色い声とデジカメのシャッター音がにぎやかでした。
なんで、わたしたちではなくてこの大学院生たちが説明を聞いているんだろうと思っていました。
そのくせ、わたしはシンポジウムでは受付業務を必死でやり、会場に入ろうとはしませんでした。
学生に雑務だけやらせて当のシンポジウムの中身にはかかわらせないのはひどいから、今回はみんなちゃんと聞けるようにしますからと言われていました。
それでも、聞きたくなかったのがその時の心境です。どうやってこの場所から逃げようかと考えていました。
フリーチベットと、誇らしげに叫ぶ日本人の気持ち悪さに気付いてだんだんとそこに目を向けなければと思い始めました。
ときどき、自分の家にヘリが墜落したとき、どこが一番安全な場所かと探すことがあります。それが杞憂なのかもうわかりません。
寝ていて、外から「テンノウヘイカバンザーイ」と聞こえてきてバッと起き上がると選挙カーのアナウンスだったり、自分で笑ってしまいました。
ちょっと病的ですが、その違和感からわたしははじめたいとおもいます。
目取真俊さんのおっしゃるように、日米安保についてなぜ問題にしないのかと思います。その後も集会を開いて論議しているところです。新しい反安保の運動が必要だと思っています。
相模原にはキャンプ座間という、陸軍司令部があるため、米軍再編の影響をもろに受けています。
相模補給廠は、ここから世界の米軍の動きが見えるといわれています。ベトナム戦争の時は、戦車が出ていくのを市民が座り込んで100日間とめたそうです。
相模原住宅という米軍住宅も、思いやり予算で新しく建てるそうです。そのまわりには日本人の狭い住宅がひしめいています。
神奈川県は沖縄県に次ぐ基地県です。「米軍再編」で「ただの主婦」も目覚めています。最近は日常的に米兵の姿を見かけます。「沖縄化」してきている、と感じます。米兵を見てコワイと思うのは、沖縄ほど慣れていないからでしょうか。慣らされていく、とも感じます。
沖縄だけでなく、植民地だなと思います。情けないです。
長文失礼しました。
追記
沖国大に米軍ヘリが墜落したことを、神奈川の朝日新聞では小さい記事で取り上げ、よくわからない内容でした。それで、長年とり続けてきた朝日をやめる決心がつき、以来、新聞はやめてしまいました。ネットのほうが早いですね。
相模原の情報
http://blog.goo.ne.jp/naha_2006
そのおかしさに気づいたのは、大人になってからのことだ。
私の生まれ育った今帰仁村には、米軍基地も自衛隊基地もない。それでも、私の記憶に残っている限り、60年代の今帰仁の空を飛んでいた飛行機やヘリは、米軍のものばかりだった。
飛行機には☆のマーク。ヘリは濃い緑色。
親と一緒に那覇に行くときに、窓の外を見ていると、金網の向こうに黒いノコギリの刃かサメの背びれのようなものが見えた。
ベトナムに向かうB52の尾翼だった。
あれから沖縄の米軍基地はどれだけ変わったか。
答えは言うまでもない。
大学時代、反戦運動をやっていて、大学の教員など端から相手にしていなかった。
今振り返っても、若気のいたりとは思わない。