昨日は午前11時から本部町の八重岳にある三中学徒之碑で開かれた慰霊祭に参加した。戦争当時三年生だった名護高校(旧三中)三三期生が中心となっているということで、遺族や元学徒隊員など四十名ほどが参加した。三三期生でつくる三三会の会長による挨拶や焼香、三中校歌の斉唱などが行われたのだが、式のなかではラッパ吹奏のテープ録音が流され、靖国神社・皇居遙拝もあった。今はラッパ奏者が亡くなったのでテープを流しているが、以前は実際に碑の前で吹いていたとのこと。
元学徒隊員は十五年戦争のまっただ中で、軍国主義教育をたたき込まれた世代だ。私の父もそうだったが、青春期へのノスタルジーが戦時下の軍国調の風俗や教育と重なっている。戦争で悲惨な目にあっていても、自分たちを戦場へ駆り立てたのは何であったかをとらえ返し、克服することができていない。挨拶では平和への思いが語られていたのだが、それと皇居・靖国神社遙拝とのずれをどうとらえ、克服していくかは課題として残されている。
慰霊祭のあとは碑の前にゴザを敷いて、食事をしながら交流会が行われた。傍で話を聞いていると、大宜味村の渡野喜屋(白浜)で起こった住民虐殺を指揮したのは宇土部隊通信隊長の東郷少尉であるとか、屋嘉の収容所で第一護郷隊の村上隊長が親子ほども歳の差がある宇土隊長を、お前のせいで戦争に負けた、と殴りつけていたという話などが交わされていた。
参加している元学徒隊員達は八十歳前後だ。子どもや孫と一緒に参加している人もいるが、元学徒隊員が参加できなくなれば、慰霊祭を開くことは難しいだろう。ちなみに、父がこの慰霊祭に参加していた記憶はない。この種の催しを好まなかったことや、中心となっているのが別学年だったことがあったのだろうかと思う。
交流会が終わってから八重岳の頂上付近に行ってみた。米軍と自衛隊のレーダー基地があって頂上までは行けないのだが、まわりを見回すとヤンバルの濃い緑の森が南側に続き、北には伊江島が見える。戦争中、双眼鏡を使えば伊江島が攻撃される様子が手に取るように見えただろう。伊江島は沖縄戦でも有数の激戦地であり、戦闘終了後、島民は米軍によって渡嘉敷島に移され、赤松部隊によって虐殺された人もいる。
午後は名護に戻り、和球の碑(にぎたまのいしぶみ)と少年護郷隊之碑に行った。
和球の碑は球七〇七一部隊(独立混成第四四旅団第二歩兵隊)の碑である。通称宇土部隊の隊員によって慰霊祭が営まれてきた。しかし、戦後六〇年の二〇〇五年をもって公式の慰霊祭は終了している。ナングスクから青年の家に行く坂道の途中にある碑に、人の姿はなかった。直径一メートルほどの石の球が据えられた碑の前には花束が四つ置かれ、掃き清められた敷地を囲む林にニイニイゼミの鳴き声が響いていた。
少年護郷隊之碑は名護小学校の校庭の南側にある。小さな丘を上ると石碑と戦死者の名を刻んだ碑が建っている。慰霊祭は終わって僧侶が片づけをしていたが、線香をいただいて手を合わせた。今帰仁村から来たという女性が、今年も来たからね……、と石碑に刻まれた兄の名前を何度も手でこすっていた。護郷隊は大本営直属の秘密部隊で、北部地域の十代の若者たちが隊員として組織されている。学徒隊と並んで、徴兵年齢に達しない少年たちが、戦場の最前線に立たされ命を失っている。
ヤンバルの各村、各にも多くの慰霊塔が建っている。南部の慰霊祭のように注目されることはないが、沖縄戦の犠牲者を悼む催しが各慰霊塔で行われている。そこに足を運ばなくても、各家々の位牌に向かって多くの人が手を合わせただろう。六三年という時は長いが、沖縄戦の歴史体験は、今も大きな意味を持ってこの島で生き続けている。
元学徒隊員は十五年戦争のまっただ中で、軍国主義教育をたたき込まれた世代だ。私の父もそうだったが、青春期へのノスタルジーが戦時下の軍国調の風俗や教育と重なっている。戦争で悲惨な目にあっていても、自分たちを戦場へ駆り立てたのは何であったかをとらえ返し、克服することができていない。挨拶では平和への思いが語られていたのだが、それと皇居・靖国神社遙拝とのずれをどうとらえ、克服していくかは課題として残されている。
慰霊祭のあとは碑の前にゴザを敷いて、食事をしながら交流会が行われた。傍で話を聞いていると、大宜味村の渡野喜屋(白浜)で起こった住民虐殺を指揮したのは宇土部隊通信隊長の東郷少尉であるとか、屋嘉の収容所で第一護郷隊の村上隊長が親子ほども歳の差がある宇土隊長を、お前のせいで戦争に負けた、と殴りつけていたという話などが交わされていた。
参加している元学徒隊員達は八十歳前後だ。子どもや孫と一緒に参加している人もいるが、元学徒隊員が参加できなくなれば、慰霊祭を開くことは難しいだろう。ちなみに、父がこの慰霊祭に参加していた記憶はない。この種の催しを好まなかったことや、中心となっているのが別学年だったことがあったのだろうかと思う。
交流会が終わってから八重岳の頂上付近に行ってみた。米軍と自衛隊のレーダー基地があって頂上までは行けないのだが、まわりを見回すとヤンバルの濃い緑の森が南側に続き、北には伊江島が見える。戦争中、双眼鏡を使えば伊江島が攻撃される様子が手に取るように見えただろう。伊江島は沖縄戦でも有数の激戦地であり、戦闘終了後、島民は米軍によって渡嘉敷島に移され、赤松部隊によって虐殺された人もいる。
午後は名護に戻り、和球の碑(にぎたまのいしぶみ)と少年護郷隊之碑に行った。
和球の碑は球七〇七一部隊(独立混成第四四旅団第二歩兵隊)の碑である。通称宇土部隊の隊員によって慰霊祭が営まれてきた。しかし、戦後六〇年の二〇〇五年をもって公式の慰霊祭は終了している。ナングスクから青年の家に行く坂道の途中にある碑に、人の姿はなかった。直径一メートルほどの石の球が据えられた碑の前には花束が四つ置かれ、掃き清められた敷地を囲む林にニイニイゼミの鳴き声が響いていた。
少年護郷隊之碑は名護小学校の校庭の南側にある。小さな丘を上ると石碑と戦死者の名を刻んだ碑が建っている。慰霊祭は終わって僧侶が片づけをしていたが、線香をいただいて手を合わせた。今帰仁村から来たという女性が、今年も来たからね……、と石碑に刻まれた兄の名前を何度も手でこすっていた。護郷隊は大本営直属の秘密部隊で、北部地域の十代の若者たちが隊員として組織されている。学徒隊と並んで、徴兵年齢に達しない少年たちが、戦場の最前線に立たされ命を失っている。
ヤンバルの各村、各にも多くの慰霊塔が建っている。南部の慰霊祭のように注目されることはないが、沖縄戦の犠牲者を悼む催しが各慰霊塔で行われている。そこに足を運ばなくても、各家々の位牌に向かって多くの人が手を合わせただろう。六三年という時は長いが、沖縄戦の歴史体験は、今も大きな意味を持ってこの島で生き続けている。