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海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

大江・岩波沖縄戦裁判控訴審

2008-06-25 06:51:45 | 「集団自決」(強制集団死)
 今日は大江・岩波沖縄戦裁判の控訴審が始まる日である。残念ながら今回は、大阪に行くことができなかった。沖縄から裁判の動向を見守りたい。一審判決をくつがえすために、原告側は新しい証言や資料を提出してくるだろう。それがどのようなものか注目している。
 高裁、最高裁に進むにつれ、反動的な判決となるのが、この国の司法の現状だ。一審でほぼ全面的な勝訴だったからといって、それがくつがえらないとは限らない。原告側もこれまで以上に裁判の支援体制を強化してくるはずだ。沖縄からもそれをしのぐ形で被告側を支援したい。
 教科書検定問題も、まだ検定意見の撤回や「強制」記述の復活はなしえていない。ここでも文部科学省やタカ派の国会議員、右翼勢力の巻き返しが行われている。6・23に沖縄戦の死者を悼み、平和を祈願して祈るのも大切だが、ただ、それだけでは、沖縄が新たな戦争の危機にさらされることを防げないし、基地あるが故に米軍の侵略戦争に加担させられている現実を克服することもできない。
 平和祈願の祈りを反戦・反基地の行動へつなげたいものだ。大江・岩波沖縄戦裁判を支援するのも、裁判の背景にある沖縄の自衛隊強化、米軍再編に反対することにつながっている。この裁判に負けるわけにはいかない。
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11 コメント

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裁判傍聴 (京の京太郎)
2008-06-26 02:11:51
本日の裁判は70の傍聴券を140人ほどの傍聴希望者で抽選。9割方が原告側の支援者の模様?。靖国応援団のご婦人方か抽選だけに参加して帰られる方が多くあり、法廷内に空席ができていました。沖縄からの支援者の参加はなかったように思います。裁判は原告側の弁護士が裁判長から控訴趣意書の誤字・脱字箇所、文章の意味不明箇所を指摘されておりました。1審同様のやっつけ仕事の改善はなされていないようです。原告側から「ハタ」?氏なるものも証人申請がありましたが裁判長は却下。原告側、被告側双方の10分程度の要旨の意見陳述があり閉廷。とりあえず簡単なご報告まで。
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感謝 (目取真)
2008-06-26 12:47:56
裁判の状況をお知らせいただき、感謝いたします。
傍聴の様子などは新聞には書かれていませんでしたので助かります。
被告支援者の数が少なかったようですので、次はぜひ大阪地裁に行きたいと思います。
秦郁彦の証人申請が却下されたのは、裁判長の的確な判断でした。原告側はさぞ立腹したことでしょうが。
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裁判支援の取り組みを (京の京太郎)
2008-06-26 12:54:19
26日の京都新聞朝刊の記事によれば、次回の口頭弁論は9月9日、早ければその日で結審する見通しとのこと。早期裁判終結が被告側の支援運動の拡がりを懸念してのことなのかどうかは分かりかねますが、高裁の裁判官が短時間で膨大な沖縄戦の資料を精査し理解することが出来るのか不安が募ります。今一度、大江・岩波沖縄戦裁判への支援運動の展開が早急に求められています。沖縄を考える会(京都)では、この裁判の支援学習会用に沖縄戦の学習ビデオの無料貸し出しをしております。渡嘉敷・座間味島の沖縄戦ビデオなど多数用意しております。ご利用下さい。
沖縄を考える会連絡先・携帯090-3650-3680または関西沖縄文庫にお問い合わせ下さい。
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ビデオリスト (京の京太郎)
2008-06-28 10:54:53
裁判支援学習用ビデオリスト(集団自決関連作品)*陸軍にも水上攻撃隊があった20分1992.12tbs放送
*戦後なき死ー自決の島1994-・34分日本テレビ  *教科書裁判ー歴史の法廷で裁かれるもの・40分 *基地はいらない・命の響き・2002年      *汝の敵・日本を知れ1945年8月米国国防省制作 *戦さ世の画譜ー丸木位里・俊おきなわを描く  *チビチリガマの集団自決1983年nhk制作     *丸木俊・チビチリガマを語る         *ゆんたんざ沖縄               *従軍慰安婦(ペ・ポンギさんの映像あり)59分韓国 kbs制作                   *戦争を教えて下さい・沖縄編         *「ちむぐりさ」-沖縄戦60年の記憶2005年放送*さとうきび畑の戦争・2004年放送nhk
*知花家の沖縄                *その他沖縄戦1フィート運動作品        (販売作品は制作者からご購入を!)      
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ビデオリスト追加 (京の京太郎)
2008-06-28 11:48:10
軍命に関してのビデオ作品を忘れていました。  追加ビデオリスト               *石に刻むーもう一つの沖縄戦ー47分1985年6月放送・中国放送?(滋賀在住だった酒井氏(中野学校出身・残地諜報員)が日本刀を抜刀して俺の命令は天皇陛下の命令だ!と口頭で村民を恫喝して強制疎開させたとの証言がある作品です。)国はいまだにマラリア戦禍の戦争責任を認めていませんが、元日本兵による貴重な証言ビデオ作品です。  
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裁判支援学習資料 (京の京太郎)
2008-06-30 14:25:13
*沖縄を考える会制作資料①「裁判提訴以前の『集団自決』新聞論争集成集   ②「海上挺進第三戦隊陣中日誌」対「渡嘉敷遺族会編『渡嘉敷島の戦闘概要』の対照表   沖縄を考える会収集資料*慶良間戦況報告書(琉球大学図書館蔵)*渡嘉敷島の戦闘概要(隆司機村役場蔵)*海上挺進第三戦隊陣中日誌(附)戦死者名簿 *曾野綾子批判論文集・伊敷氏作   裁判支援学習活動が拡がっていくことを願っています。沖縄を考える会をご利用下さい。
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虚偽に満ちた秦郁彦の書証 (和田)
2008-07-03 11:20:21
承知のとおり、沖縄戦裁判控訴審で控訴人は秦郁彦の「諸君2008年2月号」論文を書証として提出することになったようです。
しかしながら、この論文は渡嘉敷村の集団自決に関する基本的事実について明らかな事実誤認と隠蔽それに基づく恣意的結論を導いている。

事実誤認について
Ⅰ 「諸君2008年2月号」71ページ「付図1」に記載された恩納河原の位置は234メートル赤間山より北西にあるとされ、留利加波方面に上陸した米軍の真東に描かれている。
標高208メートルの御嶽が本来の北山(西山)であることはさておき、(最近では地元サイトにおいても赤間山をも西山と表記しているものがある)恩納河原はA高地の西の谷に位置していることは現地の地図などから疑いないところ。
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu02.pdf
Ⅱ 同じ71ページに「ところで島民のまとまった集団自決は3月27日夜半と28日の正午前後に二箇所(付図1の第1、第2自決現場)で起きたのはたしかだが」と記載する。
しかしながら、各種証言、住民の移動状況から最初の自決が始まったのは3月28日正午から午後2時の間であり3月27日夜半に、島民は赤松の本部陣地近くに集結し新城兵事主任を本部に連絡に行かせ「本部北方の西山盆地に移動せよ」との命令を受けたが深夜であるので就寝し、翌28日7時頃から西山盆地へ移動し集団の移動がほぼ終了したのが午前10時と考えられる。
また、第2自決が始まった時間帯については、ニューヨークタイムズ記者の記事と「ある神話の背景」に記載された赤松隊の「陣中日誌」がそれぞれ「米軍が野営した頃」「午後6時頃」に手榴弾の音や阿鼻叫喚があったとされ翌29日朝米軍は自決未遂者を収容している。
秦は自決時間を早めたいようだ。
Ⅲ 同じく71ページに「安里巡査が島民の避難場所を相談すると、赤松は軍の背後にあたる西山地区の谷間が良かろうと勧めている。そのあたりは村役場が以前から隠れ場所と想定していた地点でもあり、すでに一部の島民は避難小屋を建てていた」との記載がある。
しかし、この記載は事実に反する。実際には古波藏村長等はA高地の西側反対斜面に位置する恩納河原を隠れ場所と想定し、そこに逃れていたのを赤松から西山盆地(又はとりあえず本部陣地)へ呼びつけられたのである。恩納河原に村民が隠れていたことは、「ある神話の背景」安里巡査証言にもある。

隠蔽
付図1で慶良間列島米軍上陸地点が11箇所記載されている。ところが渡嘉敷島日の留利加波方面及び渡嘉敷への上陸日時が抜け落ちている。この日時について資料がないわけでなく「ある神話の背景」では27日午前、戦史叢書では27日午前と(赤松隊は)誤認したが27日午後であったと記載されている。

恣意的結論
以上の操作をした上で秦は「諸君2008年2月号」73ページで次のように結論づける。
「さて以上のような諸証言とくに傍線の部分を見るかぎり、赤松隊長は島内でもっとも安全と思われる場所への避難を助言はしたものの、・・・・」

「ある神話の背景」では、赤松が3月26日に安里巡査と会談した記憶があるとしているが安里巡査を含めすべての住民証言は安里巡査が3月27日夕に赤松隊長と会談したとしている。そして「ある神話の背景」によれば赤松と安里は「従民を捕虜にしない」という動機から住民に対して集結命令を出した。
住民の多くが安全な恩納河原から赤松隊により27日午前に米軍が上陸したと認識された留利加波に近い西山盆地に移動させられたのである。赤松が村民が米軍に挟撃されるほうが捕虜になるより良いと考えたのは確実であり赤松隊長は島内で安全と思われる場所への避難を助言した事実はない。

以上、秦論文は恣意的な結論を導くために事実をねじ曲げた学者の名に値しない内容である。
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秦氏の徹底?な検証資料 (チョンダラー)
2008-07-05 15:23:23
昨日図書館で諸君2月号を借り読みました。論文の意見内容以前に引用資料が正確な物でないことに失望しました。73頁の上段の海上挺進第三戦隊の陣中日誌は正確には以下です。          「三月二十八日小雨 晴 夜小雨 昨二十七日留利加波方面に上陸したる敵は一部海岸稜線上を渡嘉志久へ、一部は我陣地北側の高地に布陣せるものの如し、各隊陣地の構築を行う。第三中隊の主力到着。昨夜出発した各隊夜明けと共に帰隊、道案内の現地防衛招集の一部支給しありたる手榴弾を以って家族と共に自訣す。本朝二、三件の模様なり。①各隊全員陣地稜線上にタコ壺を掘る。②一四00陣地の北の谷に避難していた住民陣地内に崩れ込む住民の異様なる叫び声阿鼻叫喚の中へ。北方の敵陣より迫撃砲攻撃を受く、戦隊長防召兵を以って之をち鎮めしむ(以下略)⑤小雨の中敵弾激しく住民の叫び阿修羅の如く陣地後方に於いて自訣し始めたる模様 注 自訣は翌日判明したるものである。      三月二十九日曇雨 悪夢の如き様相が白日眼前に晒された昨夜より自訣したるもの約二百名(阿波連方面に於いても百数十名自訣、後判明)首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頸部を切断したる者、戦いとは言え言葉に表し尽し得ない情景であった。而し我等は戦斗が先決であり一人でも多く敵を倒さねばならない。                    これが昭和45年8月に谷本氏によって編集された陣中日誌の原文です。戦後だいぶたってからの編集であり、強制集団死の責任を軍として問われないよう注意して編集・印刷された物と考えられますが、戦闘(皇軍)第一主義で、住民保護は眼中にないことの本音も記されています。秦氏は赤松氏に島の全島把握の絶対権限はなかったと論説しておられますが、赤松隊が繰り返し住民虐殺を「処分す」の一言で実行していることで議論をするまでもなく、その責任存在は明らかです。
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陣中日誌の原文 (ni0615)
2008-07-06 05:15:59
チョンダラーさん
秦論文について有難うございました。参考にさせていただきます。

ところで
>これが昭和45年8月に谷本氏によって編集された陣中日誌の原文です。

それは、どこで閲覧できましたか?
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陣中日誌 (チョンダラー)
2008-07-06 09:44:14
曾野綾子氏が取材した軌跡を丁寧に再取材してあるかれた方が沖縄で第三戦隊の関係者から贈られた物を入手されました。それをお借りしてコピーをさせて頂いた物を手元の持っています。
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