今日は大江・岩波沖縄戦裁判の控訴審が始まる日である。残念ながら今回は、大阪に行くことができなかった。沖縄から裁判の動向を見守りたい。一審判決をくつがえすために、原告側は新しい証言や資料を提出してくるだろう。それがどのようなものか注目している。
高裁、最高裁に進むにつれ、反動的な判決となるのが、この国の司法の現状だ。一審でほぼ全面的な勝訴だったからといって、それがくつがえらないとは限らない。原告側もこれまで以上に裁判の支援体制を強化してくるはずだ。沖縄からもそれをしのぐ形で被告側を支援したい。
教科書検定問題も、まだ検定意見の撤回や「強制」記述の復活はなしえていない。ここでも文部科学省やタカ派の国会議員、右翼勢力の巻き返しが行われている。6・23に沖縄戦の死者を悼み、平和を祈願して祈るのも大切だが、ただ、それだけでは、沖縄が新たな戦争の危機にさらされることを防げないし、基地あるが故に米軍の侵略戦争に加担させられている現実を克服することもできない。
平和祈願の祈りを反戦・反基地の行動へつなげたいものだ。大江・岩波沖縄戦裁判を支援するのも、裁判の背景にある沖縄の自衛隊強化、米軍再編に反対することにつながっている。この裁判に負けるわけにはいかない。
高裁、最高裁に進むにつれ、反動的な判決となるのが、この国の司法の現状だ。一審でほぼ全面的な勝訴だったからといって、それがくつがえらないとは限らない。原告側もこれまで以上に裁判の支援体制を強化してくるはずだ。沖縄からもそれをしのぐ形で被告側を支援したい。
教科書検定問題も、まだ検定意見の撤回や「強制」記述の復活はなしえていない。ここでも文部科学省やタカ派の国会議員、右翼勢力の巻き返しが行われている。6・23に沖縄戦の死者を悼み、平和を祈願して祈るのも大切だが、ただ、それだけでは、沖縄が新たな戦争の危機にさらされることを防げないし、基地あるが故に米軍の侵略戦争に加担させられている現実を克服することもできない。
平和祈願の祈りを反戦・反基地の行動へつなげたいものだ。大江・岩波沖縄戦裁判を支援するのも、裁判の背景にある沖縄の自衛隊強化、米軍再編に反対することにつながっている。この裁判に負けるわけにはいかない。
傍聴の様子などは新聞には書かれていませんでしたので助かります。
被告支援者の数が少なかったようですので、次はぜひ大阪地裁に行きたいと思います。
秦郁彦の証人申請が却下されたのは、裁判長の的確な判断でした。原告側はさぞ立腹したことでしょうが。
沖縄を考える会連絡先・携帯090-3650-3680または関西沖縄文庫にお問い合わせ下さい。
*戦後なき死ー自決の島1994-・34分日本テレビ *教科書裁判ー歴史の法廷で裁かれるもの・40分 *基地はいらない・命の響き・2002年 *汝の敵・日本を知れ1945年8月米国国防省制作 *戦さ世の画譜ー丸木位里・俊おきなわを描く *チビチリガマの集団自決1983年nhk制作 *丸木俊・チビチリガマを語る *ゆんたんざ沖縄 *従軍慰安婦(ペ・ポンギさんの映像あり)59分韓国 kbs制作 *戦争を教えて下さい・沖縄編 *「ちむぐりさ」-沖縄戦60年の記憶2005年放送*さとうきび畑の戦争・2004年放送nhk
*知花家の沖縄 *その他沖縄戦1フィート運動作品 (販売作品は制作者からご購入を!)
しかしながら、この論文は渡嘉敷村の集団自決に関する基本的事実について明らかな事実誤認と隠蔽それに基づく恣意的結論を導いている。
事実誤認について
Ⅰ 「諸君2008年2月号」71ページ「付図1」に記載された恩納河原の位置は234メートル赤間山より北西にあるとされ、留利加波方面に上陸した米軍の真東に描かれている。
標高208メートルの御嶽が本来の北山(西山)であることはさておき、(最近では地元サイトにおいても赤間山をも西山と表記しているものがある)恩納河原はA高地の西の谷に位置していることは現地の地図などから疑いないところ。
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu02.pdf
Ⅱ 同じ71ページに「ところで島民のまとまった集団自決は3月27日夜半と28日の正午前後に二箇所(付図1の第1、第2自決現場)で起きたのはたしかだが」と記載する。
しかしながら、各種証言、住民の移動状況から最初の自決が始まったのは3月28日正午から午後2時の間であり3月27日夜半に、島民は赤松の本部陣地近くに集結し新城兵事主任を本部に連絡に行かせ「本部北方の西山盆地に移動せよ」との命令を受けたが深夜であるので就寝し、翌28日7時頃から西山盆地へ移動し集団の移動がほぼ終了したのが午前10時と考えられる。
また、第2自決が始まった時間帯については、ニューヨークタイムズ記者の記事と「ある神話の背景」に記載された赤松隊の「陣中日誌」がそれぞれ「米軍が野営した頃」「午後6時頃」に手榴弾の音や阿鼻叫喚があったとされ翌29日朝米軍は自決未遂者を収容している。
秦は自決時間を早めたいようだ。
Ⅲ 同じく71ページに「安里巡査が島民の避難場所を相談すると、赤松は軍の背後にあたる西山地区の谷間が良かろうと勧めている。そのあたりは村役場が以前から隠れ場所と想定していた地点でもあり、すでに一部の島民は避難小屋を建てていた」との記載がある。
しかし、この記載は事実に反する。実際には古波藏村長等はA高地の西側反対斜面に位置する恩納河原を隠れ場所と想定し、そこに逃れていたのを赤松から西山盆地(又はとりあえず本部陣地)へ呼びつけられたのである。恩納河原に村民が隠れていたことは、「ある神話の背景」安里巡査証言にもある。
隠蔽
付図1で慶良間列島米軍上陸地点が11箇所記載されている。ところが渡嘉敷島日の留利加波方面及び渡嘉敷への上陸日時が抜け落ちている。この日時について資料がないわけでなく「ある神話の背景」では27日午前、戦史叢書では27日午前と(赤松隊は)誤認したが27日午後であったと記載されている。
恣意的結論
以上の操作をした上で秦は「諸君2008年2月号」73ページで次のように結論づける。
「さて以上のような諸証言とくに傍線の部分を見るかぎり、赤松隊長は島内でもっとも安全と思われる場所への避難を助言はしたものの、・・・・」
「ある神話の背景」では、赤松が3月26日に安里巡査と会談した記憶があるとしているが安里巡査を含めすべての住民証言は安里巡査が3月27日夕に赤松隊長と会談したとしている。そして「ある神話の背景」によれば赤松と安里は「従民を捕虜にしない」という動機から住民に対して集結命令を出した。
住民の多くが安全な恩納河原から赤松隊により27日午前に米軍が上陸したと認識された留利加波に近い西山盆地に移動させられたのである。赤松が村民が米軍に挟撃されるほうが捕虜になるより良いと考えたのは確実であり赤松隊長は島内で安全と思われる場所への避難を助言した事実はない。
以上、秦論文は恣意的な結論を導くために事実をねじ曲げた学者の名に値しない内容である。
秦論文について有難うございました。参考にさせていただきます。
ところで
>これが昭和45年8月に谷本氏によって編集された陣中日誌の原文です。
それは、どこで閲覧できましたか?