海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

07年11月25日「福岡講演」記録3

2008-03-27 07:16:01 | 講演記録
【玉砕という言葉に立ち返って考える】
 もともと赤松、梅澤の部隊というのは、マルレという小型ボートに爆雷を積んで、沖縄島に上陸する米軍の艦隊を背後から攻撃して撃沈するというのが任務だったんです。マルレというのは水上特攻艇なんです。夜間に出撃して不意打ちを喰らわせた方が効果が大きいですから、島全体が秘密基地として厳しい軍の統制下におかれました。住民は勝手に島から出ることもできないし、食糧も乏しいなかで、男手は防衛隊などで軍に取られていました。三月二三日から本格的な米軍の攻撃が始まるのですが、梅澤隊長、赤松隊長らは自らは出撃しないまま終わってしまって、住民だけが「玉砕」というかたちで死んでしまった。梅澤・赤松両隊長をはじめ「玉砕」することなく生き延びた日本兵は、米軍の捕虜となって収容所に入れられ、そのあと日本「本土」に帰っていったわけです。
 先ほど「集団自決」という言葉の問題について触れましたけども、当時実際に使われていたのは「玉砕」という言葉です。「集団自決」という言葉は、『鉄の暴風』という本を書いた太田良博という方が使った言葉なんです。今、「集団自決」の問題を考えるときに、軍は命令を出していない、住民たちは自ら死を選んだ、という主張を検証する上でも、当時実際に使われていた「玉砕」という言葉に立ち返って考えてみる必要があると思います。
 軍隊は生き延びて、住民だけが勝手に「玉砕」するということなど、「玉砕」という言葉の本来の意味からしてもあり得ないんです。軍隊が真っ先に「玉砕」し、その道連れとして軍属や住民も「玉砕」するというのなら、当時の状況下では考えられます。ところが渡嘉敷島でも座間味島でもそうではなかった。
 当初の計画では、赤松隊長、梅澤隊長が指揮するマルレの戦隊が特攻出撃したあと、島に残った基地大隊の一部と防衛隊、そして住民は米軍と戦って「玉砕」する、そういう計画ではなかったかと思います。裁判で原告側は、慶良間諸島に米軍が上陸することは考えていなかった、だから渡嘉敷島で兵器軍曹が事前に住民に手榴弾を配っていた、という被告側の主張は嘘だと主張しています。しかし、マルレが出撃して米艦隊を攻撃すれば、米軍がその出撃基地である慶良間諸島に反撃を加えるのは目に見えていますし、上陸することも予想できます。自分たちが出撃したあと、島に残った防衛隊を含む残存部隊と住民はどうすればいいのか。それを考えておくのは島の最高指揮官である梅澤隊長や赤松隊長にとって当然の仕事です。
 当時の状況下で、米軍の捕虜となることを容認することはあり得ません。米軍と戦闘して勝てるはずもありませんから、残された選択はできるだけ戦って「玉砕」するという方針しかありません。そのために事前に防衛隊や住民に「玉砕命令」を出しておくのは、当時の状況からすれば自然なことなのです。仮にそれを「指導」や「指示」と呼ぶにしても、住民にとっては「命令」以外の何ものでもない強制力を持っていたのです。
 自分たちは出撃するからあとのことは知らない、住民は自らの判断で行動せよ。島の最高指揮官がそうやって住民をほったらかしにすることがあり得るでしょうか。そんなことはあり得ません。慶良間諸島が沖縄のほかの離島と違っていたのは、そこがマルレという特攻部隊の秘密基地となり、「一億特攻・一億玉砕」が呼号されていた時代に、まさにそれを実行する場所となったということです。住民が勝手に「自決」したというのは、そのような当時の状況や島の特殊性をふまえない、あらかじめ軍を免責するための論理でしかありません。
 実際の沖縄戦では、日本軍の当初の計画は崩れます。米軍の空襲や艦砲射撃でマルレが破壊されます。あるいは出撃の機会を失って赤松隊長はマルレの自沈を命じます。それから赤松隊や梅澤隊は陸上での戦闘に移行するわけですが、彼らはそこで特攻による「玉砕」を変更して陸地での持久戦に転じます。しかし、日本軍が「玉砕」するものと信じていた住民たちは、当初の計画で命令されていたとおりに米軍上陸を機に「玉砕」していったのではないでしょうか。座間味島でも渡嘉敷島でも、住民たちが死んでいったのは米軍上陸後の短い間です。そのあと赤松隊や梅澤隊が「玉砕」しないで生き残っているのを知ってからは、住民の「集団自決」は起こっていないのです。右派のいうように米軍の攻撃や家族への愛情が原因なら、そのあとも続々と起こっているはずでしょう。
 私は赤松隊長も梅澤隊長も、自分たちが出撃したあと、「住民も軍とともに玉砕すべし」という命令を出していたと思います。また、島に日本軍が来てから、将校や兵たちは住民の家に寝泊まりしていますから、半年ほどの間に、米軍に捕まったら男も女も残虐な目にあって殺される、という話を住民は吹き込まれています。そうやって恐怖心が作られることで、「玉砕」につながる心理状態が作られています。さらに、隊長の訓示などで国のため、天皇のために「玉砕」するという意識が作られていっているわけです。
 だからこそ渡嘉敷島では事前に手榴弾が配られていて、座間味島では役場職員たちが梅澤隊長の所へ、「玉砕」するからと弾薬をもらいにいったのだと思います。マルレで出撃したあとには爆雷以外の武器弾薬が残されます。残存部隊と住民はそれを使って米軍と戦い、最後は「玉砕」すべし。そこまでの指示が出ていてもおかしくないのです。梅澤隊長を訪ねた宮里盛秀氏は、助役・兵事主任であると同時に防衛隊長でもあったのです。梅澤氏は裁判で「死ぬでない」、「生き延びよ」と言ったと主張しています。しかし、隊長がそのような命令を出したのなら、防衛隊長の宮里氏がどうしてそれに逆らうでしょうか。『母が遺したもの』に記されている「今日のところは一応お帰り下さい、お帰り下さい」と言ったというのは理解できます。陸戦に移行して長期戦も考えるなら、弾薬を少しでも温存しておきたいでしょう。そこで梅澤隊長が弾薬を渡さなかったことは筋が通ります。しかし、「死ぬでない」と言ったのに、住民が勝手に「玉砕」してしまったというのは、自らの責任を逃れるのための嘘としか思えません。
 死んでいった宮里氏や他の人たちは、まさか梅澤隊長が「玉砕」も「自決」もしないで生き延びて、そのような主張をするとは夢にも思わなかったでしょう。「玉砕」というのは部隊の全滅を美化して大本営が使った用語であり、本来、真っ先に「玉砕」するのは軍の部隊だったのです。それをしないで捕虜となって生き残り、梅澤元隊長にいたっては米軍に協力して、阿嘉島の野田隊長に投降するよう説得活動までやっているのです。そういう人物が今になって「集団自決」の責任をすべて役場職員などの住民におっかぶせようとしている。その姿を見ると日本軍の無責任体系を象徴しているように見えます。

【住民側の戦争責任の問題】
 当時の日本軍の方針では、「軍・官・民、共生共死」という形で、軍人だけじゃなくして住民も「玉砕」するのが当たり前なんだとされていたわけです。「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」を住民にも強制しているわけです。非戦闘員である民間人が「虜囚」もくそもないわけです。軍人が捕虜になるわけであって、民間人は難民なんですよ、戦争の中においては。
 実際、米軍は民間人と軍人をちゃんと区別して収容所に入れているし、対処もしているんです。日本軍はそのようなことを教えもしないし、逆にもしアメリカ兵に捕まったら、男は鼻や耳をそがれて、女は強姦されて、戦車にひき殺されるとかですね、そういった恐怖心を徹底的に植え付けているわけですから、住民も「投降」しようとしないわけですね。あるいは「投降」しようとしても日本軍が怖いわけです。そのために住民にも多くの犠牲が出ているわけですよ。
 ただ、「集団自決」の問題は、隊長の命令がすべてだと、単純に片付けられる問題じゃないんです。この問題には多くの要因があって、複合的な要因の中で起こった出来事だということを押さえておく必要があります。私も赤松さんと梅澤さんの二人がすべて悪いといって片付けられる問題だとは思っていないんです。当時の役場の職員、メディア、教師、その他村のリーダー達にもそれぞれに責任があるんです。この中にも教師の方がいると思いますが、当時の教師が果たした役割も大きいんです。
 今回の教科書検定問題が起こってから、あるテレビ局が作った番組で、座間味島で「集団自決」を生き残った住民に対して、島の教師が日本刀を持ってやってきて、「どうしてお前らは生き延びたんだ、死ね」と言ったというのが住民の証言としてありました。そういう教師もいたんです。それが戦前の皇国史観のもとで教育をした人々の実態だったわけです。こういったことも含めて、「集団自決」の問題を考える必要があると思います。
 戦争というのは軍隊だけでできるものではありません。陣地構築や食糧増産などに住民を総動員しなければなりませんし、老人や子どもなど戦闘の足手まといになるものは、戦闘地域から排除しておく必要があります。「疎開」というのは住民の保護という面もありますが、食糧確保を含めて軍の作戦遂行上必要だから行われるわけです。そういうふうにして住民を戦時統制下におくときに大きな役割を果たしたのが役場職員や教師などの村のリーダーなわけです。また、軍の方針を広報するメディアも大きな役割を果たします。これは戦争責任の問題とも関わりますが、「集団自決」の問題においても、軍の統制下で活動しているとはいえ、住民側のリーダー達がどのような役割を果たしたかもきちんと考える必要があります。とくに行政・教育・メディアの関係者には重い責任があったし、いま問題になっている国民保護法、つまり私たちがこれから迎えるかもしれない有事=戦争体制の構築について考えるときも、押さえておかなければならない歴史的問題なんです。

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