海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

07年11月25日「福岡講演」記録2

2008-03-27 07:13:51 | 講演記録
【憲法九条の否定と日本軍の名誉回復を狙った大江・岩波沖縄戦裁判】
 大江・岩波沖縄戦裁判とは何か、というと、二〇〇五年の八月五日に、渡嘉敷島の戦隊長であった赤松嘉次さんの弟である赤松秀一さんと、座間味島の戦隊長であった梅澤裕さんの二人が、大阪地裁に裁判を起こしました。岩波書店が発行している大江健三郎さんの『沖縄ノート』、中野好夫さんと新崎盛暉さんが書いた『沖縄問題二十年』、家永三郎さんが書いた『太平洋戦争』、この三冊を取り上げて、本の中に隊長の命令で「集団自決」が起こったというような表現がある。これは名誉毀損にあたるということで、慰謝料と出版差し止め、謝罪広告を求めたわけです。途中で『沖縄問題二十年』は取り下げられて、現在、二冊の本をめぐって裁判が行われています。本人尋問までこの間終わりました。十一月九日に赤松秀一さんと梅澤さん、大江健三郎さんの三人が法廷に出て、本人尋問が行われました。これはテレビや新聞でも大きく報道されましたので、見たり読んだりした方もいらっしゃると思います。私は沖縄からそれまで三回傍聴に行っていて、本人尋問も傍聴してきました。
 その中で一つ面白いことがありました。原告の梅澤さんが『沖縄ノート』をいつ読んだかと訊かれて、「去年読んだ」と言ったんですよ。裁判は二年前に起こっているんですね。つまり提訴した段階で彼は、『沖縄ノート』を読んでいなかったんです。読んでもいない本に、どうして名誉毀損と感じて訴えることができるのか。裁判の背景はあとで詳しく話しますけど、まず原告がこういういい加減な有様だということを確認したいと思います。赤松秀一さんもですね、『沖縄ノート』を読みましたか、と訊かれて、大江さんの文章は難しくてよう分からん、あちこちとばし読みして、自分の兄のとこだけちょっと読みました、というような話なんですね。
 訴えた当人たちがそういったレベルの裁判なんですけれども、十一月九日には六十枚余の傍聴券を求めて六百九十四名が抽選に来ていました。その内訳は、二百名ぐらいが被告の大江・岩波書店側で、三百名ぐらいが原告の支持者、向こうはいろんな形で動員しています。残りがバイトを含むマスコミ関係者というものです。
 それだけ注目されている裁判でしたけれど、裏門付近で右翼団体がハンドマイクを手にいろんなアジテーションをやってました。この会場の後ろに掲示されている沖縄県民大会の写真を掲載した新聞を拡大コピーしてきて、「あれは一三〇〇〇人だ」というお決まりのキャンペーンをやっていました。また、こんなことも言っているんですよ。「沖縄は日本で一番シナ人が多い。沖縄の中のシナ人が中国共産党と連携して工作をはたらいて、沖縄を日本から独立させて中国に合併するためにこの問題を起こしている」と。そんなのをハンドマイクでバンバンやっているんですよ。支援者もそんな程度の人たちなんですよ、ほんとは。沖縄県民が聞くと爆笑ものだと思いますけど、まー、沖縄県民じゃなくても爆笑ものだと思いますけど、本人たちは大まじめにやっているんですね。
 なぜ大江健三郎さんの『沖縄ノート』が訴えられているのか、ということですけど、一つは、大江健三郎さんは「九条の会」の発起人として、憲法九条擁護のために講演会活動を行ったり、一所懸命頑張っています。戦後民主主義を代表する知識人として、これまで精力的に活動してきたし、ノーベル賞作家というネームバリューもあります。岩波書店もやっぱり戦後民主主義を代表する出版社としての自負を持っていると思います。そういったところを叩きたいというのは、憲法九条を変えたいという狙いが背後にあるからなんです。
 同時に、なぜ沖縄を回避したのか、という問題もあるわけです。大江さんが引用している本の中で、彼らが諸悪の根源のように言っているのは、沖縄タイムス社が出している『鉄の暴風』という本なんですね。『鉄の暴風』の中では、はっきりと赤松、梅澤という名前を出して、「自決」命令を出したということも書いてあるわけです。ところが『沖縄ノート』はですね、赤松、梅澤という実名はまったく出していないんですよ。渡嘉敷島の「元守備隊長」とか、こんな表現しか使っていないんです。裁判の中でも大江さん自身が証言していました。赤松さん個人を糾弾するとか、そういった目的ではなくして、日本人全体の問題として沖縄問題を考えたい、そういう視点から私は書いたんだ、と。そういった点からしても、そもそも「名誉毀損」が成り立つのか、という議論があるくらいなんです。
 彼らが裁判に訴える時に『鉄の暴風』を回避したのは、一つはそれを正面から取り上げると、沖縄戦の研究者が総掛かりで対抗するわけです。そうなると彼らは理論的にはちょっと勝ち目がないな、という判断もあっただろうし、「沖縄対ヤマトゥ」という形の対決構造を作りたくなかったんじゃないか、というのもあったと思います。今回、彼らが提訴したのは大阪地裁ですから、沖縄からなかなか支援もしにくいんですね。途中から沖縄側の関わりも深くなっていきますけども、当初は傍聴に行く人も少なくて、関わりも弱かったのが実情だったと思います。

【裁判を仕組んだ者たち】
 では、それを仕組んだのは誰か、ということです。これは「靖国応援団」を自称する弁護士グループがいて、彼らは当初から教科書の記述削除を狙って、梅澤さんや赤松さんに関わっていってるのです。
 お手元の資料の二頁に、雑誌『正論』二〇〇六年九月号に載った、徳永信一という弁護士が書いた「沖縄集団自決冤罪訴訟が光を当てた日本人の真実」という評論を紹介しています。この徳永信一というのは、今回の裁判の中心となっている人物で、「靖国応援団」を自称する弁護士グループの一人です。これまでの裁判では、宮城晴美さんや金城重明さん、大江健三郎さんの反対尋問を中心になって行っています。彼はこの評論でこう書いてます。
 「その戦いは、平成17年10月28日大阪地裁202号法廷で始まった。《沖縄集団自決冤罪訴訟》と命名された裁判である」
 「平成17年10月28日」というのは、第一回の口頭弁論が行われた日です。
 「以上の通り、被告大江健三郎が著した『沖縄ノート』を含む被告岩波書店発行の書籍は、沖縄戦のさなか、慶良間列島において行われた住民の集団自決が、原告梅澤裕元少佐あるいは原告赤松秀一の兄である亡き赤松嘉次元大尉の命令によるものだという虚偽の事実を適示することにより原告等の名誉を含む人格権を侵害したものである」だから、出版停止、謝罪広告、慰謝料を求める、という裁判です。
 この評論に書かれている「提訴の決意」というところを見ると、どのような経緯で裁判が始まったのか、その背景がよく分かります。
 「この裁判の提訴の陰には、シベリア抑留体験を持つ元陸軍大佐の山本明氏の尽力があったことを記しておきたい」
 山本明氏というのは、赤松元大尉と陸軍士官学校の同期だった方です。
 「山本氏は、旧軍関係者の協力をとりつけるべく全国を奔走し、至る所で《隊長命令説》を刷り込まれた人々の無知と無関心の壁に突き当たった。ようやく接触を果たした梅澤氏も、当初、裁判には消極的だった。汚名を晴らしたいという切実な思いを持ちながらも、再び無益な争いの渦中に巻き込まれることをおそれた梅澤氏は、山本氏に『無念ですが、裁判はせず、このまま死んでいくことに決めました』と告げたのだった」
 徳永弁護士が明らかにしているところでは、梅澤さんは当初、裁判を起こす気はなかったのです。 
 「転機は、赤松元大尉の弟・秀一氏の決意によって訪れた」ということでですね、山本氏の仲介で赤松さんに同じ靖国応援団の松本藤一弁護士がアプローチした。そして松本弁護士が赤松さんを説得するんです。
 「松本藤一弁護士から『沖縄ノート』が今も変わらずに販売されていることを聞かされた秀一氏は信じられないという顔をした。《軍命令による集団自決》が掲載された教科書の資料を渡されると、持つ手が震え、絶句した。しばらくの沈黙の後、こう言った。『こんな事がまかりとおっているとは知りませんでした。不正を糺すのに裁判が必要なのでしたら、私が原告を引き受けます』」
 このようして松本弁護士の説得により赤松さんは裁判を起こす気になります。
 「秀一氏の決意は、山本氏によって梅澤氏に知らされた。梅澤氏は、『そしたら私もやらんといかんなと呟いた。やがて梅澤氏の提訴の意向が松本弁護士に伝えられた。松本弁護士とともに靖国応援団を組織して闘ってきた稲田朋美弁護士、大村昌史弁護士、そしてわたしを中心に弁護団が結成され、裁判の準備がはじまった。提訴の約一年前のことだった』といいますから二〇〇四年の夏ですね。その頃こういう動きがあったということです。だから、当の本人たちがはっきりと『正論』に書いているんです。梅澤さんはもともと裁判に乗り気でなかったし、赤松さんは『沖縄ノート』が版を重ねていることさえ知らなかったと。赤松さんに教科書の資料を見せて「軍命令」が載っているよと説得し、裁判にまで持っていったのはこの靖国応援団を自称する弁護士グループなんです。梅澤さんはその頃、裁判で自ら語っているように『沖縄ノート』を読んでさえいなかったわけです。
 大江・岩波沖縄戦裁判はこのようにして起こったのです。その経過を見れば、この裁判が持つ政治的狙いがはっきりと示されています。裁判を起こさせたのは靖国応援団を自称する右派の弁護士グループであり、最初から狙いは教科書だったのです。そして、裁判の支援団体として、自由主義史観研究会や新しい歴史教科書をつくる会など、関西中心の右派団体がたくさん入っています。関心のある方は、「大江・岩波裁判」で検索すれば、原告、被告双方のホームページがインターネットでご覧になれます。あとで自由主義史観研究会との関係も見ますけど、このように右派団体が支援して行われている裁判なんです。

【消し去ることはできない日本軍の蛮行の数々】
 なぜ、今、この「集団自決」の軍による強制を否定するかといえば、沖縄戦の記憶の否定につながっていくわけです。沖縄戦における日本軍の住民への蛮行ということで、「集団自決」の強制や住民虐殺、壕追い出し、食糧の強奪、暴行や強姦とかですね、そういうことがあげられます。沖縄戦が始まるまで沖縄県民は、日本軍が自分たちを守ってくれると信じていたわけです。沖縄にはもともと日本軍はきちんとした部隊として駐留していなかったんですよ。沖縄戦が始まる一年前に第三二軍が組織され、それから本格的な基地建設が始まるんです。それまでは、旅団とか師団とかの軍隊は沖縄に置かれていませんでした。ですから、沖縄で徴兵検査を受けて合格すると、熊本や鹿児島の師団に行って訓練を受けてそこに所属し、中国とか各地に派遣されたんです。
 だから、沖縄に軍隊がちゃんとした形で置かれるのは、沖縄戦の始まる一年前からなんです。渡嘉敷島や座間味島にも一九四四年の九月頃から日本軍が渡ってきます。最初に基地大隊がやってきて陣地構築やマルレという特攻艇を隠す壕などを掘る作業をやり、それから梅澤さんや赤松さんの指揮する特攻部隊である第一戦隊や第三戦隊がやってきます。以来、島の人たちも陣地構築作業に駆りだされ、同時に食糧増産に励むわけです。そして翌年の三月二三日から慶良間諸島への本格的な米軍の攻撃が始まり、続いて米軍は慶良間諸島に上陸します。その時に慶留間島や座間味島、渡嘉敷島で「集団自決」が起こるわけですが、その実態はどのようなものだったのか。
 講演が始まる前に会場の後ろの方で金城重明さんの『「集団自決」を心に刻んで』という本を販売させてもらいました。金城さんは沖縄キリスト教短期大学の学長も務めた方で、渡嘉敷島の「集団自決」の生き残りの方です。「集団自決」は非常に語りにくいことですから、実際に体験された方で証言者は少ないのです。『沖縄県史』第十巻や『渡嘉敷村史』『座間味村史』などに証言が載っていますけれども、実際に肉親に手をかけた人は語っていないんですね。目撃者の証言はありますが、当人は語れないわけです。肉親に手をかけた人で語っているのはこの金城さんくらいです。金城さんはキリスト教の牧師であり、信仰によって救われ、支えられているから語り得ているのかもしれません。もちろん、こういうことを二度と起こさないために自分を鞭打って、苦しみに耐えながら証言していると思います。あと、與儀九英さんという慶留間島の「集団自決」の生き残りの方がいます。この方も講演や集会で発言を行っていますが、「私にはキリスト教の信仰はないから、精神的に耐え難い」ということで、現場で起こった詳しいことまでは話せないと仰っていました。証言すること自体がそれだけ厳しいものであることを、押さえておく必要があると思います。

【渡嘉敷島と座間味島で起こったこと】
 それで、何が起こったかということを少し話します。慶良間諸島では渡嘉敷島、座間味島、慶留間島で「集団自決」が起こっていますけれども、状況は少しずつ違うんですね。渡嘉敷島では、事前に赤松隊長から兵器軍曹を通して住民に手榴弾が配られています。これが決定的な命令の証拠でもあるんです。
 当時十七歳から四五歳の男性は防衛隊として軍に召集され、軍の指揮下に置かれていました。それよりも若い少年たちや役場の職員に、兵器軍曹と呼ばれていた兵隊が手榴弾を配って、「米軍が上陸した場合には、一発は敵に投げて、もう一発で自決しなさい」と言って、一人に二個ずつ配ってるんです。また、「集団自決」が起こった当日も、防衛隊員が現場に手榴弾を持ってきて配っています。赤松隊長は自分が知らないところで防衛隊が勝手に配った、というようなことを言っています。
 しかし、軍の指揮下にある防衛隊員が、米軍の攻撃を受けている戦闘のさなかに勝手に戦線を離脱して、重要な兵器である手榴弾を住民に配るということがあり得るんでしょうか。当時の防衛隊員には、中国戦線で戦ってきた在郷軍人もいて、けっして軍紀に無知ではなかったのです。もしそれが事実なら、その防衛隊員たちは戦線離脱や利敵行為で厳罰に処せられたはずです。
 実際、あとの話になりますが、赤松隊長は防衛隊の大城さんという教師を、部隊を勝手に離れたということで処刑しているんです。たとえ防衛隊員であれ勝手に武器を持ちだして戦線を離れるようないい加減な部隊であったら、戦闘はできません。米軍の攻撃が始まった緒戦の段階から、赤松隊の軍紀は崩壊していたというのでしょうか。戦闘中のどさくさにまぎれて防衛隊員が勝手に手榴弾を持ちだして配ったというのは、責任をすべて防衛隊員におっかぶせるものです。しかし、防衛隊が自らの指揮下にあったことは、赤松隊長自身が認めているのです。ならば赤松隊長の指揮下にあった防衛隊員が手榴弾を配ったことも、赤松隊長の命令によると考えるのが論理的判断でしょう。
 軍命を否定する藤岡信勝や小林よしのりたちも、そのことを分かっているから、「民間防衛隊」などという言葉を使って、あたかも防衛隊は民間で勝手に作ったもので、軍の指揮下にはなかったかのように描き出そうとしています。しかし、それは赤松隊長にとって最も都合の悪い部分を隠そうとするまやかしでしかありません。
 そうやって配られた手榴弾を爆発させて、たくさんの方が亡くなったわけです。米軍が上陸したときに赤松隊長から命令が来て、もともと安全な壕に隠れていた住民たちを、北山(にしやま)という赤松隊の陣地の近くまで移動させます。その近くで「集団自決」が起こるわけです。
 村長が「天皇陛下万歳」を叫んで、それを合図に手榴弾の起爆装置を叩いて、「集団自決」が始まるんです。ただ、不発弾が多くてですね、死ねなかった人たちがたくさんいたんです。そういった方たちが、棒とか、鍬、鎌、石などを使って、親が子どもを殺し、子どもが年老いた親を殺すという事態になるのです。だから、「自決」と言いますけども、本当に自分で命を絶った人は少なかったのです。
 「自決」というのはもともと軍隊の用語です。例えば、戦争に負けた指揮官が敗北の責任を取って、沖縄戦でいえば牛島司令官が摩文仁の丘で腹を切って「自決」しますけども、あれが本来の「自決」なわけです。軍人でもない一般住民が「自決」するというのは、言葉の使い方としてもおかしいんです。ですから「集団自決」という言葉を使うこと自体の問題が指摘されてもいるんです。沖縄戦研究者の石原昌家氏は「強制集団死」という言葉を使うことを主張しています。
 現場にいた人の証言を見ても、実態は「自決」と言えるものではありません。最初に力の強い男性が、自分の妻や子どもを、あるいは年老いた親たちを殺していくわけです。手榴弾で死ねなかった人たちは、棒や石を使って死んでいくんです。赤ん坊の足をつかんで岩に叩きつけていたという目撃例もあります。カミソリで首を切ってもなかなか死にきれない人たちもいて、それこそ修羅場が森の中で起こっているわけです。金城さんも自分の母親や弟たちに手をかけて、さらに村の人たちにも手をかけた体験を持っています。このようなかたちで渡嘉敷島では三二九名の方が亡くなっています。
 ここで注意しておく必要があるのは、鎌や鍬を用意してあったというと、何かあらかじめ死ぬ準備をしていたように見えます。そうじゃないんです。北山へ移動するためには森を通るので草や蔓を刈るために鎌が必要だし、移動した場所で壕を掘って隠れなければいけないので、住民は鍬を持っていったんです。むしろ生きるために鍬を持っていったんです。縄にしてもそうです。カミソリにしてもヒゲを剃るために持っていたのが使われたのであって、死ぬために用意したものではない。そこを勘違いしないように注意する必要があります。住民の証言をいろいろ読んでいて、そのことに気づかされました。
 梅澤少佐が指揮官をやっていた座間味島においても、同じような「集団自決」が起こっています。例えば産業組合の壕というのがありまして、そこでは六七名の方が亡くなっています。中にいた人は全員が亡くなってますから、どうやって死んだかも分からないわけです。しかし、生き残った人たちがいる壕では、男性が妻や子どもの首を絞めて殺したとか、カミソリで首を切って死んでいったという証言があります。ある壕では、自分の妻や子ども、親戚など八名を一人で首に縄をかけて吊り上げて殺した人の話も伝わっています。最後に残った本人は死にきれなれなくて、戦後大変な苦しみを味わうわけです。
 だから「集団自決」と言いますけれども、実際には女性や子ども、老人は、自分で命を絶ったのではなくして、ほとんどが肉親に殺されているのです。そのような悲惨な状況だったから、戦後当事者は語れなかったし、取材に対してもほとんど語らなかったのです。
 それをいいことに今「軍の命令はなかった」というようなことが言われているわけです。このように慶良間諸島における「集団自決」は、沖縄戦の中でも、初期の段階で起こったとても悲惨な出来事なんです。沖縄島に米軍が上陸するのは四月一日です。その前に起こっているんです。

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