海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

チチハル駅

2009-09-21 16:53:37 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争
 ハルビンからチチハルまでは寝台車に乗り、4人一組の部屋に入った。同室したSさんとGさんはともに旧真壁村出身で青雲開拓団に参加したとのこと。関西在住のSさんにGさんが今回の旅の企画を連絡し、一緒に参加されたとのことだった。もう一人のTさんは今帰仁開拓団に参加しており、私の実家から歩いて数分の所に住んでいる方。寝るには早い時間だったのでチチハルまでの3時間半余りの間、ずっと話をして過ごした。おかげで開拓団での生活の様子を色々と聞くことができた。
 列車は食堂車が満席で、弁当にしてもらって部屋で食べ、温いハルピンビールを飲んだ。途中、駅に止まるたびに乗務員が各車の出入り口のドアに外から鍵をかけるのだが、それを知らずに隣の客車のトイレに行き、発車するまでドアの前に立たされることとなった。勝手に乗り込んだり移動したりするのを防止するということなのだろう。



 チチハルに着いたのは夜の9時半過ぎで、写真のチチハル駅舎は帰りに撮影したもの。隣には新しい駅舎が建てられているが、満州国時代の駅舎も残されていて、一階の待合室は白い大理石の壁にゆったりとしたソファーが置かれ、グリーン車の客専用に使われていた。向かって左側の屋上に「中国共産党万歳」、右側に「毛沢東思想万歳」と略字体の赤い文字看板が掲げられているのが目立った。
 現地ガイドのRさんが、建物の外観は東大の安田講堂に似せて造られた、60年代の毛沢東思想の頃の文字が今もはずされずに残っている、待合室は溥儀も使った、と説明していた。



 9月18日は78年前に柳条湖事件事件が起こった日だった。関東軍の謀略によって始まった満州事変から太平洋戦争までの過程を「15年戦争」と命名した鶴見俊輔氏はこう書いている。

〈日本敗北に続く年月に、日本人は米国政府から貸与された眼鏡を通して過去を見て、この戦争を主として米国に対する戦争として考えるようになり、こうして、中国との戦争という脈絡からこの戦争を切り離すようになりました。そうすることによって、日本人は、長いあいだ軍事上の弱者として見てきた中国に敗けたという不名誉な事実を見ないですますことができました。一九三一年から四五年まで続いたこの戦争に対して、私が十五年戦争という名前をつけるように提案したのは、この戦争を一九三一年に始まった「満州事変」からの不連続のようにみえて連続する戦闘状態の脈絡のなかにおくためでした。もう一つ心理的、というよりは反心理的理由があるのですが、それはわたしのようにこの戦争状態のなかで小学生として育ったものにとっては、政府が繰り返しそのつどそのつどの声明を出すものですから、はじめ長い戦争が続いているということに気がづかず、「満州事変」とか、「上海事変」とか、「日支事変」とか、そういう別々の名前のついた別の戦闘状態のように感じさせられてきたからです。これがわれわれ日本人のもっている主観的な事実です。これをこわさないと、この戦争状態の全体に対する認識はできないように思ったからです。それは一五年間にわたって行われた一つの連続的な戦争であると見ることができます〉(鶴見俊輔著『戦時期日本の精神史 1931~1945年』岩波現代文庫 82~83ページ)。

 今でも必要かつ重要な視点であろう。沖縄人の体験した戦争は、沖縄戦の前にサイパンやテニアンなど南洋群島における戦争があり、沖縄戦の後には満州開拓団の人たちが体験した戦争がある。無論、それにとどまらず「満州事変」「上海事変」「日支事変」に沖縄人も日本軍の一員として従軍し、侵略の一翼を担っていた。沖縄戦はけっして〈ある日海の向こうから戦がやってきた〉のではない。日本の長い侵略戦争の帰結としてあったのである。15年戦争全体のなかで沖縄戦をとらえ返していくこと。その必要性を強く感じてきたので、今回の旅の企画は有り難かった。

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2 コメント

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日本の中の満鉄? (京の京太郎)
2009-09-22 08:40:25
昔、一人暮らしをしていた遠い親戚の家の片づけをしていたら、たくさんの鉄道の本の中から満鉄の資料が出てきた。先に亡くなられた連れあいさんは京大の工学部の元教授で、高速鉄道の基礎研究が専門だったとのことだった。満鉄の高速列車・アジア号の基礎工学技術研究が戦後の新幹線の開発の基となっていたようだ。
満州国のことなど歴史上のこと、無関係とばかり考えていたが、そうではなかった。
満州國の影の支配者と言われた甘粕に一家虐殺された大杉栄・伊藤野枝家族のなかで、一人虐殺から逃れることが出来た伊藤ルイさんとは沖縄で同宿する機会があった。私のいいかげんな沖縄料理を食べて頂いたことは忘れがたい思い出としてある。
誰も過去の歴史とは無関係に存在することはできないことを忘れまいと思う。
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15年戦争と沖縄 (橘あおい)
2009-09-25 23:40:27
研修旅行で沖縄を訪れるにあたり、沖縄の歴史と現在を学ぶため、テーマ別に学習をしており私は「15年戦争」を担当しています。

鶴見俊輔さんの命名だったとは知りませんでした。確かに事変や事件が単発で次々に起こりますが、どれも似通った印象を受けます。

それと沖縄との関係をどう考えるのかと思っていましたが、目取真さんのブログを読んで沖縄戦も15年戦争の一部であり、その結果であるのだと思いました。
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