間があいてしまったが、「旧満州開拓団跡地を訪ねる旅」のつづき。
ホテル前を午前9時半に出発して北に向かう。マイクロバスの運転手のSさんが10秒に1回くらいクラクションをけたたましく鳴らしてバイクや乗用車、トラクターなどを追い越していき、チチハル市街地から約45キロメートル離れた臥牛吐地区に到着。64年前の沖縄の開拓団所在地で、『琉球資料 第四集 社会編1』(琉球政府文教局)には次のように記されている。
〈開拓団の編成は血縁関係を基礎として一村又は数ヶ村にて編成し、団長のもとに指導員、幹部、団員等が統制ある組織のもとに構成し、国費補助、開拓資金の低利融資、住宅、家畜、農業具類の貸与があって、其の将来を嘱望されていた。
沖縄県からの第一次開拓団は、昭和十五年度(一九四〇年)に竜江省江県臥牛吐(オニュート)地区に恩納村から団長伊波得成氏以下一〇〇戸、今帰仁村から団長西平守蔵氏以下五〇戸、南風原村から団長野原広知氏以下五〇戸が先遣隊として入植し、翌年に家族招致と共に本体の入殖があった〉(96ページ)。
『具志川市史 第四巻 移民・出稼ぎ論稿編』によれば、恩納開拓団・南風原開拓団・今帰仁開拓団の三つの団を総称して「宇琉磨(うるま)村」とも総称していたという(842ページ)。
写真は最初に訪ねた南風原開拓団のあった地点。道路脇にマイクロバスを止め、脇道に入って開拓団の水田跡や用水路などを訪ねた。
『南風原町沖縄戦戦災調査2 兼城が語る沖縄戦』(南風原町教育委員会)には、入殖当時の新聞資料が載っている。参考までに引用したい。
〈鍬の戦士募る 朝日新聞沖縄版(昭和16年1月15日)
沖縄県初の分村計画によって満州国龍江省臥牛吐に入殖を開始した南風原、恩納、今帰仁三ヶ村の先遣隊50余名は過去1ヶ年の努力ですでに宿舎の建設、耕地の分割などを終えて、後続部隊を迎へる準備をすっかり整えたので、いよいよ本隊の送り出しに看手、各村先遣隊指導者数名が奮口帰県して大陸雄飛の熱意に燃える隊員の募集に乗り出した。
大体南風原村97戸、恩納村76戸、今帰仁村57戸、合計191戸を目標に詮考を急ぎ1月末までに決定し約1ヶ月間を金武開墾地で訓練、鍬の戦士としての腕をみっちり磨いたうえ、三月上旬大挙大陸に向け出発することとなった〉(83ページ)。
〈大陸に沖縄村建設 朝日新聞沖縄版(昭和16年3月27日)
分村計画によって沖縄村の建設に努めつつある沖縄県出身の大陸開拓先遣隊63名は大陸に骨を埋める覚悟で、家族を招致しつつあるが、□□□□□□□□□□
分村計画による第1回本隊は南風原12名、恩納村25名、今帰仁村19名計56名が去る4日から10日まで開洋会館で拓土としての訓練を受け21日便で出発したが、出発に際し早川知事から是非大陸に輝かしい分村、沖縄村を確立せよと力強い激励の言葉を受け出発、龍江省へと入植するが一行には島尻郡南風原村の仲本亀五郎氏が加わっており、同氏は村長、県会議員をつとめたことのある本県政界の長老で年令63才の変り種である〉(同)。
1932年3月1日に傀儡国家・満州国が建国される。同年9月1日から在郷軍人会を通じて「試験移民」の募集が始まるが、その実態は「武装移民」であり、大陸へと渡った「第一次武装移民」は、日本が匪賊と呼んだ抗日パルチザンに迎え撃たれることになる。
1936年、二・二六事件のあとに成立した広田弘毅内閣によって、関東軍の計画した満蒙への「百万戸移住計画」が七大国策の一つとして打ち出される。沖縄県当局もそれに基づいて1939年に「三万戸十万人移住計画」を打ち出すが、実際の移住者は計画に遠く及ばないものだった。
冬は零下30度以下になる極寒の地に沖縄から渡っていくというのは、かなり勇気のいることだったはずだ。同じ沖縄からの移民でも、南の南洋群島に向かった人たちと北の満州に向かった人たちの間には、意識や生活様態、地域特性などその決定にあたってどのような違いがあったのか。
集落周辺にトウモロコシ畑が果てしなく広がっている風景は、当時と余り変わっていないだろう。一方で、舗装された道路の周辺には煉瓦造りや鮮やかなタイル貼りの新築の家、建物と土壁・草葺きの古い家が混在し、チチハル市外の農村地域も急速に変化しつつあることが感じられた。
開拓団の人たちが暮らした跡は、現在はほとんど残っていない。地元の人に尋ねながら、そのわずかな痕跡を探して回った。
ホテル前を午前9時半に出発して北に向かう。マイクロバスの運転手のSさんが10秒に1回くらいクラクションをけたたましく鳴らしてバイクや乗用車、トラクターなどを追い越していき、チチハル市街地から約45キロメートル離れた臥牛吐地区に到着。64年前の沖縄の開拓団所在地で、『琉球資料 第四集 社会編1』(琉球政府文教局)には次のように記されている。
〈開拓団の編成は血縁関係を基礎として一村又は数ヶ村にて編成し、団長のもとに指導員、幹部、団員等が統制ある組織のもとに構成し、国費補助、開拓資金の低利融資、住宅、家畜、農業具類の貸与があって、其の将来を嘱望されていた。
沖縄県からの第一次開拓団は、昭和十五年度(一九四〇年)に竜江省江県臥牛吐(オニュート)地区に恩納村から団長伊波得成氏以下一〇〇戸、今帰仁村から団長西平守蔵氏以下五〇戸、南風原村から団長野原広知氏以下五〇戸が先遣隊として入植し、翌年に家族招致と共に本体の入殖があった〉(96ページ)。
『具志川市史 第四巻 移民・出稼ぎ論稿編』によれば、恩納開拓団・南風原開拓団・今帰仁開拓団の三つの団を総称して「宇琉磨(うるま)村」とも総称していたという(842ページ)。
写真は最初に訪ねた南風原開拓団のあった地点。道路脇にマイクロバスを止め、脇道に入って開拓団の水田跡や用水路などを訪ねた。
『南風原町沖縄戦戦災調査2 兼城が語る沖縄戦』(南風原町教育委員会)には、入殖当時の新聞資料が載っている。参考までに引用したい。
〈鍬の戦士募る 朝日新聞沖縄版(昭和16年1月15日)
沖縄県初の分村計画によって満州国龍江省臥牛吐に入殖を開始した南風原、恩納、今帰仁三ヶ村の先遣隊50余名は過去1ヶ年の努力ですでに宿舎の建設、耕地の分割などを終えて、後続部隊を迎へる準備をすっかり整えたので、いよいよ本隊の送り出しに看手、各村先遣隊指導者数名が奮口帰県して大陸雄飛の熱意に燃える隊員の募集に乗り出した。
大体南風原村97戸、恩納村76戸、今帰仁村57戸、合計191戸を目標に詮考を急ぎ1月末までに決定し約1ヶ月間を金武開墾地で訓練、鍬の戦士としての腕をみっちり磨いたうえ、三月上旬大挙大陸に向け出発することとなった〉(83ページ)。
〈大陸に沖縄村建設 朝日新聞沖縄版(昭和16年3月27日)
分村計画によって沖縄村の建設に努めつつある沖縄県出身の大陸開拓先遣隊63名は大陸に骨を埋める覚悟で、家族を招致しつつあるが、□□□□□□□□□□
分村計画による第1回本隊は南風原12名、恩納村25名、今帰仁村19名計56名が去る4日から10日まで開洋会館で拓土としての訓練を受け21日便で出発したが、出発に際し早川知事から是非大陸に輝かしい分村、沖縄村を確立せよと力強い激励の言葉を受け出発、龍江省へと入植するが一行には島尻郡南風原村の仲本亀五郎氏が加わっており、同氏は村長、県会議員をつとめたことのある本県政界の長老で年令63才の変り種である〉(同)。
1932年3月1日に傀儡国家・満州国が建国される。同年9月1日から在郷軍人会を通じて「試験移民」の募集が始まるが、その実態は「武装移民」であり、大陸へと渡った「第一次武装移民」は、日本が匪賊と呼んだ抗日パルチザンに迎え撃たれることになる。
1936年、二・二六事件のあとに成立した広田弘毅内閣によって、関東軍の計画した満蒙への「百万戸移住計画」が七大国策の一つとして打ち出される。沖縄県当局もそれに基づいて1939年に「三万戸十万人移住計画」を打ち出すが、実際の移住者は計画に遠く及ばないものだった。
冬は零下30度以下になる極寒の地に沖縄から渡っていくというのは、かなり勇気のいることだったはずだ。同じ沖縄からの移民でも、南の南洋群島に向かった人たちと北の満州に向かった人たちの間には、意識や生活様態、地域特性などその決定にあたってどのような違いがあったのか。
集落周辺にトウモロコシ畑が果てしなく広がっている風景は、当時と余り変わっていないだろう。一方で、舗装された道路の周辺には煉瓦造りや鮮やかなタイル貼りの新築の家、建物と土壁・草葺きの古い家が混在し、チチハル市外の農村地域も急速に変化しつつあることが感じられた。
開拓団の人たちが暮らした跡は、現在はほとんど残っていない。地元の人に尋ねながら、そのわずかな痕跡を探して回った。
私も沖縄と満州の共通点に着目しています。現在、沖縄の新聞は、今年を薩摩侵略400年、「琉球処分」(私はこの用語は大いに問題があると考えています)130年に当たる、節目の年としていろいろと特集を組んでいますが、沖縄の歴史家(特に近代)の話の内容にはがっかりさせらると同時に、危機感すら覚えます。具体的なことを書くのは控えますが、何か30年前の研究レベルそのままということと、自分の願望(日本との同化、一体化)で歴史を構築していると思います。
歴史的事実を再検証するのは当然でしょうが、現時点からの思想的捉え返しや、東アジアの現在の動きに踏まえた考察、それに基づいて東アジアと沖縄の将来を構想していく評論も読みたいものです。
「琉球処分」にしてもそれが日本の朝鮮半島の植民地化や傀儡国家・満州国の建設、中国への侵略にどのようにつながっていったのか、ウチナンチューはそこでどのような役割を果たしたのか、などのテーマも、もっと追求されるべきだと思います。
新たな資料を発掘して新見解を披露するのもいいですが、個々の研究者が持つ歴史観や現実認識をめぐる議論も必要なのでしょう。
薩摩侵略400年を琉球・沖縄と薩摩・日本の和解=同一化の節目にしようという動きも感じられます。
臥牛吐開拓団を検索してこちらへお邪魔いたしました。私も2004年に臥牛吐開拓団跡を訪問いたしました。
今朝(2010年8月31日)の沖縄タイムスに、その時に臥牛吐開拓団跡を案内していただいた恩納村開拓団長伊波得成さんの息子・山城(旧姓伊波)成剛さん(享年79歳)の死亡広告が掲載されています。
夫馬基彦『オキナワ大神の声』( 飛鳥新社 2009.6)には、彼(セイゴーさん)がモデルとなった短編が入ってます。
長々としたコメントで失礼いたしました。
昨年ハルビン、チチハルを訪ねてから1年が経とうとしています。
基地問題その他いろいろとあって続きを書けないままだったのですが、9月になったら再開しようと思っていたところでした。
夫馬氏の本はまだ読んでいませんので、読んでみようと思います。