先日、歴史小説が好きな私に、知人の方からとても良い本だから読んでみなさいと「芋代官切腹」という小説を貸していただいた。
物語の舞台は、徳川幕府 八代将軍吉宗公の時代、享保17年有史以来の全国的大飢饉で、餓死したもの実に96万9千百余人(徳川太平記)という大変な年の石見国銀山領。
石見銀山は、戦国時代大内氏が目をつけた良質な銀を求めて、尼子氏と毛利氏の争奪戦へと、毛利氏が中国を平定するとともに銀山を支配してきたが、関が原を境に徳川幕府直轄の地、天領となっている。
現在は、石見銀山遺跡として2007.7 ユネスコの世界遺産に登録され、400年の時を経て再び脚光を浴びている。
「石見銀山遺跡は、島根県のほぼ真ん中に位置する大田市大森町を中心とし、旧温泉津町、旧仁摩町を含めた現大田市の広い範囲に広がる遺跡です。」(出展:HP世界遺産のまちを歩いてめぐる)
さて、享保17年有史以来の全国的大飢饉の前年の9月、井戸平左衛門は江戸城に松平伊豆守から呼び出され、老中列座の中、「石見国銀山領代官として、大森陣屋に赴任し4年間続く飢饉で百姓も疲弊しており、この窮状を救うためこの役をお引き受け願いたい。上様におかれては、特にご信任篤きその方、指しての思し召しでござる」と石見国赴任の辞令を渡した。
このとき、平左衛門の御歳60歳で、二度と江戸の土を踏むこともないだろう、銀山領で生涯を終えようとの決意で赴任することに。
奥方も実の娘も亡くし跡取りの養子が家督を継いでおり、本来なら隠居の身の上であるから、その点身軽であったようだ。
平左衛門が銀山に赴任すると聞きしに勝るひどい状態、急峻な山と平野の少ない海に面した荒涼たる石見の地であった。案内人は「4年続いた日照りで、弱ったのは人間ばかりじゃございません。あのとおり、空飛ぶ鳥までが、今にも死にそうでございます。」と。
全国各地で、百姓一揆や夜盗の群れが横行しているが、この地では、仏門に帰依する百姓が多いことが救いであったと。
平左衛門は、領内を部下の役人と見回り、銀の産出量や年貢の状況など、百姓の暮らしぶりなどつぶさに調べた結果、不正をして私腹を肥やす役人、高金利で貸し付ける高利貸し、蓄財を肥やす者なども分かってくる。
20万の百姓を救うには、どうしたらいいのかと連日連夜思案し、「一人の百姓を餓死させることは、日本の大切な宝を一つ失うよりも、その損失は大きい」との信念のもと考え抜いていた。
ある日、栄泉寺に参詣したところ、薩摩から来たという若い雲水と話すうちに、薩摩では、「琉球芋」を持ち帰りこれを広く奨励し食していると。
枯れた土地でも育ち栄養もあり甘くて美味しいので、餓死することはないとの話を聞きこれをこの地に持ち帰り広めたいと思うようになった。
五兵衛をはじめ15名の若い庄屋が何とかこの窮状を救わんと、新たに赴任した代官の平左衛門に「倉を開け渡し米を20万百姓に与えてもらいたい」と直訴する。
平左衛門は手打ちどころか、この若者たちの熱意と情熱をありがたく思い、その気持ちを「琉球芋」に向けさせて、薩摩に帰る雲水を先導に正月の寒風の中、温泉津港から船を仕立て薩摩へと、この16名を出奔させた。
薩摩の国では、門外不出の芋としているので、見知らぬ船の寄港を警戒しているが、難破船として陸に上がり地元の百姓から種芋を買い取るという一計を案じて、行き帰りの費用と芋を買い付ける費用一切、平左衛門が全て用意して送り出した。
4ヵ月後、無事に全員が帰り着き種芋を全ての地域に配布し、育て方も広く教えるなどして、この年の秋芋が動物などに食われながらも沢山できるがこれを全て来年の種芋とするよう奨励する。
そして、食べると厳罰に処すとの触れを代官名で出しており、それを全ての百姓は守ったのである。
その間、食べるものがないので、裕福なものから蓄えや資財を供出させ、百姓たちが借り入れている借金を向こう5年間返済しないでよいとか、その上利息の支払いも不要と、また金利を下げるよう高利貸しに命令し少しでも貧乏から脱却できるよう手立てを講じた。
平左衛門は、考えられるありとあらゆる策を講じ自らの資財も投じたが、享保17年の未曾有の大飢饉を乗り切ることができず、代官所の倉に蓄えてある公儀米も全て開け放ち自らが一心に責任を被り、備中笠岡陣屋にて切腹して果てるのである。
その年の夏、大きく育った芋を食することもなく・・・・・・五兵衛たちは、代官に食してもらいたかったと涙する。
こうして、全国では96万9千百余人の餓死者をだしたが、井戸平左衛門が赴任し去るまでの2年間(足掛け3年)にこの地で一人の病死者も餓死者も出さなかった。
幕府の主脳者をして、脅威の目を見張らしめ、備中笠岡陣屋にて次の沙汰を待てとしていたが、平左衛門は、自らの命を絶ったのである。
一足遅く老中の命を持って江戸から来た友人の土井左近は、その死を悲しむのである。
幕府からの命は、平左衛門を長崎奉行に任ずるとのことであった。
20万の百姓は、「琉球芋(サツマイモ)」により、その後も餓死することがなかったとのこと、時を経ても井戸平左衛門の死を悼み、明治12年に島根県迩摩郡大森町(現大田市大森町)に井戸神社が建立されていると・・・・・小説は終わる。
芋代官・・・・井戸平左衛門の名前は、子供も頃から教科書や雑誌、親などから見聞きしたような記憶があるが、これほどの武士であったとは思ってもいなかった。
口先だけでいいことを言う人間と違って、心のそこから日本を支えているのは百姓であると言い、その百姓一人ひとりを大切に思い、接している人、将来にわたって飢饉で苦しまないよういつも思慮し行動していた人が井戸平左衛門であった。
武士の鏡であり、人の上に立つものの鏡であると・・・・・・・
どこかの党の幹事長も全てを投げ打って芋代官のような気骨のある政治家であれば、国民も心から支えるものを。いつまでも金と権力に目を奪われるようであれば・・・・・”奢れるもの久しからずや”
思わずすばらしい本であったと思ったので・・・・・・。(夫)
物語の舞台は、徳川幕府 八代将軍吉宗公の時代、享保17年有史以来の全国的大飢饉で、餓死したもの実に96万9千百余人(徳川太平記)という大変な年の石見国銀山領。
石見銀山は、戦国時代大内氏が目をつけた良質な銀を求めて、尼子氏と毛利氏の争奪戦へと、毛利氏が中国を平定するとともに銀山を支配してきたが、関が原を境に徳川幕府直轄の地、天領となっている。
現在は、石見銀山遺跡として2007.7 ユネスコの世界遺産に登録され、400年の時を経て再び脚光を浴びている。
「石見銀山遺跡は、島根県のほぼ真ん中に位置する大田市大森町を中心とし、旧温泉津町、旧仁摩町を含めた現大田市の広い範囲に広がる遺跡です。」(出展:HP世界遺産のまちを歩いてめぐる)
さて、享保17年有史以来の全国的大飢饉の前年の9月、井戸平左衛門は江戸城に松平伊豆守から呼び出され、老中列座の中、「石見国銀山領代官として、大森陣屋に赴任し4年間続く飢饉で百姓も疲弊しており、この窮状を救うためこの役をお引き受け願いたい。上様におかれては、特にご信任篤きその方、指しての思し召しでござる」と石見国赴任の辞令を渡した。
このとき、平左衛門の御歳60歳で、二度と江戸の土を踏むこともないだろう、銀山領で生涯を終えようとの決意で赴任することに。
奥方も実の娘も亡くし跡取りの養子が家督を継いでおり、本来なら隠居の身の上であるから、その点身軽であったようだ。
平左衛門が銀山に赴任すると聞きしに勝るひどい状態、急峻な山と平野の少ない海に面した荒涼たる石見の地であった。案内人は「4年続いた日照りで、弱ったのは人間ばかりじゃございません。あのとおり、空飛ぶ鳥までが、今にも死にそうでございます。」と。
全国各地で、百姓一揆や夜盗の群れが横行しているが、この地では、仏門に帰依する百姓が多いことが救いであったと。
平左衛門は、領内を部下の役人と見回り、銀の産出量や年貢の状況など、百姓の暮らしぶりなどつぶさに調べた結果、不正をして私腹を肥やす役人、高金利で貸し付ける高利貸し、蓄財を肥やす者なども分かってくる。
20万の百姓を救うには、どうしたらいいのかと連日連夜思案し、「一人の百姓を餓死させることは、日本の大切な宝を一つ失うよりも、その損失は大きい」との信念のもと考え抜いていた。
ある日、栄泉寺に参詣したところ、薩摩から来たという若い雲水と話すうちに、薩摩では、「琉球芋」を持ち帰りこれを広く奨励し食していると。
枯れた土地でも育ち栄養もあり甘くて美味しいので、餓死することはないとの話を聞きこれをこの地に持ち帰り広めたいと思うようになった。
五兵衛をはじめ15名の若い庄屋が何とかこの窮状を救わんと、新たに赴任した代官の平左衛門に「倉を開け渡し米を20万百姓に与えてもらいたい」と直訴する。
平左衛門は手打ちどころか、この若者たちの熱意と情熱をありがたく思い、その気持ちを「琉球芋」に向けさせて、薩摩に帰る雲水を先導に正月の寒風の中、温泉津港から船を仕立て薩摩へと、この16名を出奔させた。
薩摩の国では、門外不出の芋としているので、見知らぬ船の寄港を警戒しているが、難破船として陸に上がり地元の百姓から種芋を買い取るという一計を案じて、行き帰りの費用と芋を買い付ける費用一切、平左衛門が全て用意して送り出した。
4ヵ月後、無事に全員が帰り着き種芋を全ての地域に配布し、育て方も広く教えるなどして、この年の秋芋が動物などに食われながらも沢山できるがこれを全て来年の種芋とするよう奨励する。
そして、食べると厳罰に処すとの触れを代官名で出しており、それを全ての百姓は守ったのである。
その間、食べるものがないので、裕福なものから蓄えや資財を供出させ、百姓たちが借り入れている借金を向こう5年間返済しないでよいとか、その上利息の支払いも不要と、また金利を下げるよう高利貸しに命令し少しでも貧乏から脱却できるよう手立てを講じた。
平左衛門は、考えられるありとあらゆる策を講じ自らの資財も投じたが、享保17年の未曾有の大飢饉を乗り切ることができず、代官所の倉に蓄えてある公儀米も全て開け放ち自らが一心に責任を被り、備中笠岡陣屋にて切腹して果てるのである。
その年の夏、大きく育った芋を食することもなく・・・・・・五兵衛たちは、代官に食してもらいたかったと涙する。
こうして、全国では96万9千百余人の餓死者をだしたが、井戸平左衛門が赴任し去るまでの2年間(足掛け3年)にこの地で一人の病死者も餓死者も出さなかった。
幕府の主脳者をして、脅威の目を見張らしめ、備中笠岡陣屋にて次の沙汰を待てとしていたが、平左衛門は、自らの命を絶ったのである。
一足遅く老中の命を持って江戸から来た友人の土井左近は、その死を悲しむのである。
幕府からの命は、平左衛門を長崎奉行に任ずるとのことであった。
20万の百姓は、「琉球芋(サツマイモ)」により、その後も餓死することがなかったとのこと、時を経ても井戸平左衛門の死を悼み、明治12年に島根県迩摩郡大森町(現大田市大森町)に井戸神社が建立されていると・・・・・小説は終わる。
芋代官・・・・井戸平左衛門の名前は、子供も頃から教科書や雑誌、親などから見聞きしたような記憶があるが、これほどの武士であったとは思ってもいなかった。
口先だけでいいことを言う人間と違って、心のそこから日本を支えているのは百姓であると言い、その百姓一人ひとりを大切に思い、接している人、将来にわたって飢饉で苦しまないよういつも思慮し行動していた人が井戸平左衛門であった。
武士の鏡であり、人の上に立つものの鏡であると・・・・・・・
どこかの党の幹事長も全てを投げ打って芋代官のような気骨のある政治家であれば、国民も心から支えるものを。いつまでも金と権力に目を奪われるようであれば・・・・・”奢れるもの久しからずや”
思わずすばらしい本であったと思ったので・・・・・・。(夫)