6日夜、戦国武将伊達政宗と真田幸村の物語の一端が、NHK歴史秘話ヒストリアで放映されると分かり、歴史好きの娘に連絡。
「ありがとう必ず見ます。」とメールで返信があった。
仙台藩62万石の礎を築いた伊達政宗、子供たちが中学生と小学生の頃、青葉城址など政宗ゆかりの地を旅したことがある。
娘は、取り分け政宗が大好きで、この時の旅は、相当興味深く新鮮であったようである。今では右目の不自由なチワワに「政宗」と名づけている。
伊達政宗は、幼い時病(天然痘)で片目を失明し、そのハンデを独眼竜政宗として見事に乗り越え、漆黒の鎧兜で身を包み黒の軍団として名を馳せ東北一の大々名となり、70歳で没している。
一方、真田信繁(幸村)は、父昌幸と関が原の戦いで信州上田城に立てこもり、徳川秀忠軍と一戦を交え勝利したが、西軍が破れ親子とも紀州九度山に幽閉された。
14年後、大阪冬の陣及び夏の陣で、真田信繁(幸村)は、赤い血の色、死を覚悟した赤一色の鎧兜に身を包み、赤の軍団として徳川家康をあと一歩のところまで追い詰め、さすがの家康も死を覚悟した。その4年前に父昌幸は、徳川ともう一戦交えたいとの野望を持ちながら亡くなっており、次男信繁(幸村)が父親譲りの戦いをし、戦後“日本一の兵”と謳われた。
「伊達政宗のシンボルともいえる、漆黒の鎧・・・・それは、政宗の乱世を”生き抜く”壮絶な決意の証。」「信州の小大名の次男として生まれた真田幸村。大坂冬の陣。幸村は最前線の砦・真田丸を拠点に徳川軍に圧勝」「猛然と襲いかかる政宗の黒い軍団!猛攻に耐え、機をとらえて一気に反撃する幸村の赤い軍勢」(出展:NHKHP)
「伊達政宗肖像画」(肖像画には、目を入れるようにと・・・政宗)
「真田信繁(幸村)肖像画」
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
伊達軍と真田軍は、大阪夏の陣で激突するが、双方が武将として信頼できるものと分かり、夏の陣のさなか、死を覚悟している信繁(幸村)は、娘を政宗に託す。後に有力な家来である“片倉小十郎”の妻となる。
また、戦後各地の大名が、“日本一の兵 信繁(幸村)”の娘をもらいたいとの話もある。
正月早々、親子で好きな戦国武将の歴史の一端を放映され、満足・・・・満足でした。
見終わった娘から、「真田もよかったね。今度こちらに来たら、真田幸村終焉の地“安居神社”に行きやしょう。」と、メールが来ていた。(夫)
「ありがとう必ず見ます。」とメールで返信があった。
仙台藩62万石の礎を築いた伊達政宗、子供たちが中学生と小学生の頃、青葉城址など政宗ゆかりの地を旅したことがある。
娘は、取り分け政宗が大好きで、この時の旅は、相当興味深く新鮮であったようである。今では右目の不自由なチワワに「政宗」と名づけている。
伊達政宗は、幼い時病(天然痘)で片目を失明し、そのハンデを独眼竜政宗として見事に乗り越え、漆黒の鎧兜で身を包み黒の軍団として名を馳せ東北一の大々名となり、70歳で没している。
一方、真田信繁(幸村)は、父昌幸と関が原の戦いで信州上田城に立てこもり、徳川秀忠軍と一戦を交え勝利したが、西軍が破れ親子とも紀州九度山に幽閉された。
14年後、大阪冬の陣及び夏の陣で、真田信繁(幸村)は、赤い血の色、死を覚悟した赤一色の鎧兜に身を包み、赤の軍団として徳川家康をあと一歩のところまで追い詰め、さすがの家康も死を覚悟した。その4年前に父昌幸は、徳川ともう一戦交えたいとの野望を持ちながら亡くなっており、次男信繁(幸村)が父親譲りの戦いをし、戦後“日本一の兵”と謳われた。
「伊達政宗のシンボルともいえる、漆黒の鎧・・・・それは、政宗の乱世を”生き抜く”壮絶な決意の証。」「信州の小大名の次男として生まれた真田幸村。大坂冬の陣。幸村は最前線の砦・真田丸を拠点に徳川軍に圧勝」「猛然と襲いかかる政宗の黒い軍団!猛攻に耐え、機をとらえて一気に反撃する幸村の赤い軍勢」(出展:NHKHP)
「伊達政宗肖像画」(肖像画には、目を入れるようにと・・・政宗)
「真田信繁(幸村)肖像画」
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
伊達軍と真田軍は、大阪夏の陣で激突するが、双方が武将として信頼できるものと分かり、夏の陣のさなか、死を覚悟している信繁(幸村)は、娘を政宗に託す。後に有力な家来である“片倉小十郎”の妻となる。
また、戦後各地の大名が、“日本一の兵 信繁(幸村)”の娘をもらいたいとの話もある。
正月早々、親子で好きな戦国武将の歴史の一端を放映され、満足・・・・満足でした。
見終わった娘から、「真田もよかったね。今度こちらに来たら、真田幸村終焉の地“安居神社”に行きやしょう。」と、メールが来ていた。(夫)