よくオバハンの自称コメンテーター気取りが
「美少女ゲームなんて、男の願望をそのまま形にしただけの、(以下略)」
というエロゲ批判をするのを見かける。
本当にエロゲとは男の願望をそのまま形にしただけものなのだろうか?
今日はそれを検証してみたい。
男の願望とは、いったい何か?
エロゲにおいては
「とりあえず女の裸が見たい」
という回答が筆頭に上がるだろう。
たしかにエロゲは女の裸を見る手段の1つではある。
それが商品コンセプトたる抜きゲーというジャンルもある。
そこまでは正しい。
では、エロゲは女の裸を見る手段としては適切なものだろうか?
これは明確にNOである。
多くのエロゲは女の裸を見るのには実は適してはいない。
なぜかというと・・・
第1に、女の裸の絵の枚数とエロゲの単価を考えると、市販のエロ本のほうが圧倒的にコストパフォーマンスが良いこと。
第2に、本を開けば女の裸が出てくる市販のエロ本とは違って、多くのエロゲではそれなりに展開を進めなければ女の裸の絵が出てこないために、単なる女の裸だけが目的な場合には目標に達するまでに時間がかかりすぎること。
・・・という理由による。
実はエロゲとは
「とりあえず女の裸が見たい」
という目的のためにあるのではない。
しいて言うならば
「その女の子の恋人としての一時を共に過ごしたい」
だろう。
そうでなければエロゲにエロシーンではないあれだけ大量のシナリオは絶対に盛り込まれるはずがない。
我々はツラの皮がそこそこマシなら誰でもいいから女の裸が見たいのではない。
我々は女の子を好きになって、その上で好きになった人の裸を堪能したいのだ。
はたしてこれは願望だろうか?
たしかに願望であろう。
しかしそれは誰であろうと非難する権利はない。
恋人と一時を共に過ごしたいという願望を非難する正当な理由があるというもんなら一説ぶってみるがよい。
ただ、我々が好きになる人が、たまたま二次元の側にいたというだけの話である。
エロゲをプレイする者は、時としてエロ以外の部分に心奪われる。
時に、ヒロインの不遇に涙する。
時に、ヒロインの優しさに心を癒される。
時に、ヒロインの成したことに感動する。
それがエロゲだ。
いや、「時として」エロ以外の部分に心奪われるのではないな。
エロ以外の部分に心奪われるようなエロゲでなければ、我々はそれを名作としては語り継がない。
それを求めて我々はまたエロゲを買うのだ。
自称コメンテーター気取りのオバハンならば、エロゲを買う我々を見れば裸だけが目的なのだと断定するだろう。
それは実に浅ましい行為である。
その行為はフロイトの夢分析のごとく何でもかんでもセックスに結びつける自らの欲求不満の程度をそこに示しているようで、よけいに浅ましく見える。
エロゲに対して極端に批判的なオバハンは、エロゲで感動して涙するという行為が実際にあることを絶対に理解できない。
それは、我々のようにエロゲのヒロインを1人の人物として人格を感じるのではなく、エロゲのヒロインを風俗嬢のような単なるセックス的な何かとしてしか見えていない証左ではないだろうか。
そんなオバハンのほうがよほど汚れていよう。
女を見ればチ○コを入れる穴がついた何かにしか見えない男と同レベルに最低である。
「美少女ゲームなんて、男の願望をそのまま形にしただけの、(以下略)」
というエロゲ批判をするのを見かける。
本当にエロゲとは男の願望をそのまま形にしただけものなのだろうか?
今日はそれを検証してみたい。
男の願望とは、いったい何か?
エロゲにおいては
「とりあえず女の裸が見たい」
という回答が筆頭に上がるだろう。
たしかにエロゲは女の裸を見る手段の1つではある。
それが商品コンセプトたる抜きゲーというジャンルもある。
そこまでは正しい。
では、エロゲは女の裸を見る手段としては適切なものだろうか?
これは明確にNOである。
多くのエロゲは女の裸を見るのには実は適してはいない。
なぜかというと・・・
第1に、女の裸の絵の枚数とエロゲの単価を考えると、市販のエロ本のほうが圧倒的にコストパフォーマンスが良いこと。
第2に、本を開けば女の裸が出てくる市販のエロ本とは違って、多くのエロゲではそれなりに展開を進めなければ女の裸の絵が出てこないために、単なる女の裸だけが目的な場合には目標に達するまでに時間がかかりすぎること。
・・・という理由による。
実はエロゲとは
「とりあえず女の裸が見たい」
という目的のためにあるのではない。
しいて言うならば
「その女の子の恋人としての一時を共に過ごしたい」
だろう。
そうでなければエロゲにエロシーンではないあれだけ大量のシナリオは絶対に盛り込まれるはずがない。
我々はツラの皮がそこそこマシなら誰でもいいから女の裸が見たいのではない。
我々は女の子を好きになって、その上で好きになった人の裸を堪能したいのだ。
はたしてこれは願望だろうか?
たしかに願望であろう。
しかしそれは誰であろうと非難する権利はない。
恋人と一時を共に過ごしたいという願望を非難する正当な理由があるというもんなら一説ぶってみるがよい。
ただ、我々が好きになる人が、たまたま二次元の側にいたというだけの話である。
エロゲをプレイする者は、時としてエロ以外の部分に心奪われる。
時に、ヒロインの不遇に涙する。
時に、ヒロインの優しさに心を癒される。
時に、ヒロインの成したことに感動する。
それがエロゲだ。
いや、「時として」エロ以外の部分に心奪われるのではないな。
エロ以外の部分に心奪われるようなエロゲでなければ、我々はそれを名作としては語り継がない。
それを求めて我々はまたエロゲを買うのだ。
自称コメンテーター気取りのオバハンならば、エロゲを買う我々を見れば裸だけが目的なのだと断定するだろう。
それは実に浅ましい行為である。
その行為はフロイトの夢分析のごとく何でもかんでもセックスに結びつける自らの欲求不満の程度をそこに示しているようで、よけいに浅ましく見える。
エロゲに対して極端に批判的なオバハンは、エロゲで感動して涙するという行為が実際にあることを絶対に理解できない。
それは、我々のようにエロゲのヒロインを1人の人物として人格を感じるのではなく、エロゲのヒロインを風俗嬢のような単なるセックス的な何かとしてしか見えていない証左ではないだろうか。
そんなオバハンのほうがよほど汚れていよう。
女を見ればチ○コを入れる穴がついた何かにしか見えない男と同レベルに最低である。