そこかしこに秋の訪れを感じる季節となった。
もう一つの日本人の心なのかもしれない。
最近「なぜ」という問いかけがそこかしこにあるのだが、このような景色を見ていると「どうでもよいのかな」などど思ってしまう。
自分の思うようにならないこと、理不尽なこと、疑問に思うこと、そのような事柄は、遠く吉田兼好の時代から言古されたことだ。
結局、出家でもして世捨て人にならなければ、俗世への未練は断ち切れないのかもしれない。
いや、それでも殊更にして文章にでも記述しておこうという、人間の未練というものが存在する。
繰り言を述べても仕方のないことだが、人の多い所へ赴くと、余計に人の世の理不尽さを感じてしまう。
今日、中国からの客人にあった。
精華大学の若手研究者たちだった。
「なぜ、日本では中水がないのですか」と質問された。
よい問いかけだと思う。
一般に、上水、中水、下水と区分される。
世界では、飲料水までの基準ではないが十分にきれいな水を、水洗トイレに使うところが多い。
なぜ日本では中水がないのか。
経費や制度の問題もあるが、私は日本人の水に対する感性によるものだと思う、と答えた。
もともと日本の自然水は、それだけで十分にきれいだった。
水とはきれいなもので、そのままで飲用でき、きれいなもので流し去ることにより、すべてが浄化されると考えてきた。
したがって、他国から見れば贅沢かもしれないが、トイレでも車でも上水で洗うのである。
「きれい」か「汚い」かの二律の文化といってもよいだろう。
ちょうど、物事の善悪に近い。
世界にはさまざまに中間の価値観があり、白黒だけで判断できない場合が多いのだが、日本人は中間の色彩表現が苦手である。
敵か味方か、白か黒か、そんな価値判断の物差しを振りかざしながら、日本という国は突き進んでいくのだろう。
それはそれで悪くはないのだが、多様な文化、多様な自然というものを受け入れることもサバイバルへの道だと思う。