朝ドラのマッサンの中で、北海道の余市が登場する。
JR小樽を過ぎて西へ向かうと、この地に到達する。
ここがニッカウヰスキー誕生の地だ。
しかし、私が余市の名を聞いて思い出すのは、58歳の年で夭折した故・堀野収(おさむ)氏のことだ。
余市は彼の故郷だった。
私たちは、1970年に京都大学へ入学し、理学部の同級生となった。
学園紛争の中で、よく議論し、よく酒を酌み交わした。
堀野氏は3回生で経済学部に転学部し、卒業後、北海道新聞社に入社した。
しばらく年賀状のやり取り程度の交流が続いた。
その彼から突然電話がかかってきたのは、1981年の春、私が英国南岸のサウサンプトン大学の研究室にいた時だ。
どうしたの、と問いかけると、なんと同じ英国東岸のコルチェスターにいるという。
どうも入国管理事務所で拘束されているらしかった。
人が使わないルートでオランダから英国に入ろうとして、ロッテルダム発コルチェスター着のフェリーに乗ったという。
そこまではよかったのだが、普段は日本人がほとんど乗船しないので、係官に不審に思われたのだ。
おまけに職業欄に新聞記者と書いたらしい。
お願いだから身元引受人になって欲しいという電話だった。
係官と話をつけて、やっと彼は入国を許された。
ロンドンで待ち合わせて、クラシックコンサートを聞きに行った。
笑い話のような話だが、堀野氏は裏道を歩くのが好きな人だった。
その彼が1990年代にウィーン駐在し、本を書いた。
「ウィーン素描」という本だ。
もう絶版になっているが、アマゾンのネット販売では中古本が手に入る。
新聞記者としてストレスの多い生活を送ってきた彼が、趣味の時間にまとめた名著だ。
その後、函館で再会し、歓迎の宴を開いてもらったのが最後の出会いだった。
走るように生きてきた堀野氏は、2008年の年の瀬に、58歳の若さで人生を終えた。
胃がんだった。
気が付いたときは手遅れだったそうだ。
余市というまろやかな発音を聞くと、私は堀野氏のことを思い出す。
極上のシングルモルトのように味わいのある人だった。
竹鶴のストレートを味わいながら、こうしてかつての友人のことを思い出している。
雄弁で、知的で、そして少し抜けたのが取り柄のダンディな記者さんだった。
「乾杯!」
私の数少ない畏友の一人だ。