
松尾芭蕉が、膳所(ぜぜ)の地に埋葬されていることを知る人は多くないだろう。
1694年、51歳のときだった。
木曽義仲を祀る義仲寺(ぎちゅうじ)に埋葬されている。
芭蕉の遺言によるものだが、それほどに彼は近江を愛した。
「元禄7年(1694年)10月12日、芭蕉の遺骸を乗せた舟は夜のうちに伏見まで下り、翌13日の朝、伏見を立って昼過ぎ膳所の義仲寺へ到着した。14日に葬儀が行われ、同日深夜になって境内に埋葬された。葬儀に参列した門人は80名、会葬者は300余名にのぼった。芭蕉の忌日は「時雨忌」などと呼ばれ、旧暦の気節に合わせ毎年11月の第二土曜日に法要が営まれている。芭蕉が木曽義仲が眠る義仲寺に葬られた経緯は、生前芭蕉が死後木曽殿と塚をならべてと語ったことによるもので、芭蕉は源義経や義仲、斎藤別当実盛といった悲劇伝を残した武人や藤原実方などにとりわけ思いを寄せ、「おくのほそ道」の旅中、これらの人物にゆかりのある土地を訪れて句を残し、義仲については寿永2年(1183年)4月に平家軍との戦いで戦場と化した北陸・燧(ひうち)が城を眺め、次の句を詠んでいる。”義仲の寝覚めの山か月悲し”」
当時、義仲寺があった粟津が原は、びわ湖に面し景勝の地であったといわれている。
「1184年、義仲は源範頼と源義経の軍勢に追われこの地に逃れ、31歳の若さで亡くなった。義仲の亡骸は当地に葬られたが、寺伝によれば義仲の側室巴御前が無名の尼僧となって墓所の辺に草庵を結び供養を続けたといわれ、死後、草庵は「無名庵(むみょうあん)」と命名されたという。その「無名庵」は、「木曽塚」、「木曽寺」、「義仲寺」とも称され、現在に至っている。」
”行春をあふみ(おうみ)の人とおしみける”
人との出会い、別れ、無常は、芭蕉の句界にとってはなくてはならないものだったのだろう。
なぜ彼があれほどまでに旅を重ね、そして”旅に病で夢は枯野をかけ廻る”とまで詠んだのだろうか。
決して満たされることのない、芭蕉の創作の意思だったのかもしれない。
それは完成することのない彼の美学だったのだろう。
Jane Reichholdという人が著した「Basho - The Complete Haiku」という英文の本がある。
その中に
”世の夏や 湖水に浮(うか)む 浪の上”
という句が紹介されている。
1688年の夏、大津で作られたものだ。
”the summer world floating in the lake on the waves”
と英訳されている。
井狩昨卜(いかりさくぼく)の家に招かれたときの作だと言われている。
おそらく、びわ湖にせり出した部屋だったのだろう。
暑い夏だというのに、浪が打ち寄せ、まるでわが身が水面に浮かんでいるように涼しく思われる。
今でもびわ湖の湖岸に立つとき、この湖が持つ長い歴史と、水の大きさを感じることがある。
ことほどかように、近江の町には歴史と自然が重なり合っている。
