2013年の最大のベストセラー小説です。
あらすじや作品論はネット上でもたくさんあるでしょうから、ここでは書きません。
ここでは、この作品を読んで児童文学に関連しそうな問題について考えたいと思います。
まず最初に思ったのは、年齢が高くなった作家が、子どもないしは若者を書く場合の問題です。
村上は団塊の世代なので、すでに六十代になっています。
この作品の主人公は36歳なのでそれを若者と呼べるかについては議論がありますが、彼は独身ですし、高校時代および大学時代を回想しているシーンが多いので、それも含めれば若者を描いていると言えるでしょう。
しかし、村上が描いている若者は現代の若者ではありません。
風俗的には2010年代のようですし、その二十年前なので高校時代は1990年代と思われます(ただし、出てくる音楽(ワム!)や映画(スターウォーズ)を考えると1980年代前半のようですが、そのへんのリアリティはあまりこだわらなかったのでしょう)。
さらに、登場する若者たちの造形は、村上自身が若者だった60年代や70年代のそれです。
彼らは、1970年ごろに消滅したと言われる「教養主義」(このブログのそれに関する記事を参照してください)のしっぽを明らかにひきづっています。
そのころの「教養主義」の特徴として、旧制高校以来の伝統の読書体験に偏重した「教養」から、音楽や映画も含めたより広範な「教養」に変化していていますが、この作品(他の村上の作品も同様ですが)にはそれが良く表れています。
また、登場人物が直面している問題は、典型的な現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きることのリアリティの希薄さなど)であり、これらももちろん現在の若者たちにとっても重要な問題ではありますが、現代ではより過酷な現実(格差社会、年代格差、少子化、若年層の正社員としての就業の困難性など)においてどのように生き延びていくかがより深刻になっています。
この作品では、一部のエリート層の若者たちだけを描くことにより、これらの現代の若者の問題から回避しています。
つまり、村上は、自分内部に保存されている若者像に現代の衣装をまとわせようとしているのですが、必ずしもうまくいっていません。
この問題は、大半の児童文学の作家にも言えることです。
初めは、自分の子ども時代の記憶によって創作し、子どもを持った者たちは次のステップとしてその子どもたちの周辺に取材して創作することが多いようです。
やがて、その子どもたちも成人してしまうと、フレッシュな同時代の子ども像を描くことは困難になっていきます(教師との兼業作家などの例外はありますが)。
村上は子どもがいないようなので、さらにこの困難性は増していることでしょう。
次に、純文学とエンターテインメントの関係についてです。
この作品では、荒唐無稽な設定、典型的な人物造形、偶然の多用、都合の良い夢の多用、ミステリー的要素などのエンターテインメントの手法が使われています。
それが平易(平板とも言えますが)な村上の文章と相まって読みやすさにつながり、多くの読者を獲得しているのでしょう。
つまり、純文学的なテーマ(この作品の場合かなり古いですが)をエンターテインメントの手法で描いているわけで、純文学的な児童文学が出版されにくい状況の現在においては、児童文学の創作のヒントになるかもしれません。
あらすじや作品論はネット上でもたくさんあるでしょうから、ここでは書きません。
ここでは、この作品を読んで児童文学に関連しそうな問題について考えたいと思います。
まず最初に思ったのは、年齢が高くなった作家が、子どもないしは若者を書く場合の問題です。
村上は団塊の世代なので、すでに六十代になっています。
この作品の主人公は36歳なのでそれを若者と呼べるかについては議論がありますが、彼は独身ですし、高校時代および大学時代を回想しているシーンが多いので、それも含めれば若者を描いていると言えるでしょう。
しかし、村上が描いている若者は現代の若者ではありません。
風俗的には2010年代のようですし、その二十年前なので高校時代は1990年代と思われます(ただし、出てくる音楽(ワム!)や映画(スターウォーズ)を考えると1980年代前半のようですが、そのへんのリアリティはあまりこだわらなかったのでしょう)。
さらに、登場する若者たちの造形は、村上自身が若者だった60年代や70年代のそれです。
彼らは、1970年ごろに消滅したと言われる「教養主義」(このブログのそれに関する記事を参照してください)のしっぽを明らかにひきづっています。
そのころの「教養主義」の特徴として、旧制高校以来の伝統の読書体験に偏重した「教養」から、音楽や映画も含めたより広範な「教養」に変化していていますが、この作品(他の村上の作品も同様ですが)にはそれが良く表れています。
また、登場人物が直面している問題は、典型的な現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きることのリアリティの希薄さなど)であり、これらももちろん現在の若者たちにとっても重要な問題ではありますが、現代ではより過酷な現実(格差社会、年代格差、少子化、若年層の正社員としての就業の困難性など)においてどのように生き延びていくかがより深刻になっています。
この作品では、一部のエリート層の若者たちだけを描くことにより、これらの現代の若者の問題から回避しています。
つまり、村上は、自分内部に保存されている若者像に現代の衣装をまとわせようとしているのですが、必ずしもうまくいっていません。
この問題は、大半の児童文学の作家にも言えることです。
初めは、自分の子ども時代の記憶によって創作し、子どもを持った者たちは次のステップとしてその子どもたちの周辺に取材して創作することが多いようです。
やがて、その子どもたちも成人してしまうと、フレッシュな同時代の子ども像を描くことは困難になっていきます(教師との兼業作家などの例外はありますが)。
村上は子どもがいないようなので、さらにこの困難性は増していることでしょう。
次に、純文学とエンターテインメントの関係についてです。
この作品では、荒唐無稽な設定、典型的な人物造形、偶然の多用、都合の良い夢の多用、ミステリー的要素などのエンターテインメントの手法が使われています。
それが平易(平板とも言えますが)な村上の文章と相まって読みやすさにつながり、多くの読者を獲得しているのでしょう。
つまり、純文学的なテーマ(この作品の場合かなり古いですが)をエンターテインメントの手法で描いているわけで、純文学的な児童文学が出版されにくい状況の現在においては、児童文学の創作のヒントになるかもしれません。
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 | |
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