21歳の私は、子犬の時から飼っていた愛犬のデュークが死んでしまって、悲しくてたまりません。
アルバイトへ行くために泣きながら電車に乗っていると、十九歳ぐらい男の子が席を譲ってくれます。
アルバイトをさぼって、男の子と喫茶店へ行き、その後もプールで泳いだり、散歩をしたり、美術館を見たり、落語を聴いたりして一日を過ごします。
帰り際に少年にキスされて、それがデュークそっくりだったことに気づきます。
実は、少年はデュークの化身で、主人公へ最後の愛を伝えに来たことが暗示されて終わります。
直木賞も受賞した人気作家の処女出版は、「つめたいよるに」という童話集の体裁で1989年8月に出版されました。
当時、24、5歳だった作者の若々しい感性が随所に光ります。
しかし、これが児童文学なのかというと素朴な疑問もあります。
作者と同世代の吉本ばななの「TSUGUMI」もほぼ同時期に出版されていますが、どちらも同じ読者層を対象にしているように思えます。
それでいて、片方は児童文学、もう一方は一般文学の体裁で出版されます。
1990年代後半に児童文学のボーダーレス化がよく議論されましたが、その十年前からすでにボーダーレスは始まっていたのです。
ボーダーレスの原因にはいくつかあります。
ひとつは少子化があげられます。
団塊ジュニアが支えていた児童文学の読者層が、少子化で先細りになり始めていました。
そのため、児童文学の出版社は、新しい読者層として若い女性を狙ったのです。
それには、他の記事でも書いた「現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きているリアリティの希薄さなど)」も関連します。
「現代的不幸」に直面した最初の世代は、1960年代に全共闘世代として学生運動へ突っ込んで行きました。
それが、70年安保の挫折や学生運動のセクトの内ゲバなどで、学生の政治離れが急速に進みました。
それにつれて、若者たちの関心は、政治などの外部のものから、自分の内部に移りました。
いわゆる自分探しです。
ほとんどの男の子の場合には、自分探しは一種の通過儀礼で学生時代などの限定期間に終了し、就職して会社という外部の組織に帰属していきました。
そのころは、まだ終身雇用の神話が生きていましたので、そこに身をゆだねている限りはもう自分探しをする必要はないのです。
それに引き換え、当時でも若い女性は会社に対して定年まで勤めようという意識はなくて(今はかなりの男性もそうですが)、就職してからも自分探しは続いていきます。
従来の女性の場合は、結婚、出産が、男性の就職の代わりに一種の通過儀礼の働きをして、いやでも「大人」にならなくてはなりませんでした。
ところが、非婚化や結婚、出産しても親世代へパラサイトする女性(最近は非婚男性も同様ですが)の増加により、いつまでも大人にならない女性が増えています。
こうして、児童文学は女性(独身者だけでなく既婚者も含めて)を大きなマーケットとして意識するようになります。
つまり、児童文学は、文芸評論家の斉藤美奈子がいうところのL文学(女性の作者が女性を主人公にして女性の読者のために書いた文学)化したのです。
最近は、それに女性編集者、女性評論家、女性研究者、女性司書、女性書店員なども加わり、児童文学の世界は完全に女性だけの閉じた世界になりつつあります。
しかも、L文学は、かつての少女小説や少女漫画よりも広範な世代の読者を抱える大きなマーケットに育っています。
アラサーはもちろん、アラフォーやアラフィフ、さらにはアラカンになっても少女気分の抜けない女性も、今では珍しくなくなってきています。
例えば、この「デューク」という作品では、21歳のアルバイトをしている女性(大学生かフリーターかは不明)が、愛犬の死のために人目をはばからず泣きながら町を歩いたり電車に乗ったりします。
ペットロスのショックの大きさは、私も中学生や高校生の時に体験がある(中学生の時には、この主人公と同様に、泣きながら歩いたり電車に乗ったりしました)ので、主人公の悲しみはよく理解できます。
ポイントは、そのために公私の区別がつかなくなるほど、大人である主人公が取り乱してしまうほど未成熟なところにあります。
そこには、それほどペットの死を悲しめる主人公がいとおしいと思っている作者と、それに激しく共感する少なくない人数の読者たちとで作られた閉じられた世界があります。
この閉鎖性が、L文学の魅力であるとともに限界でもあるように思います。
旧来的な見方では、21歳の成人した人間が公の場で涙を流しているのは、「いい年して大人になっていない」と批判を受けるかもしれません。
ところが、この「大人にならない」ということが、この閉じた世界では最大の魅力になっているのです。
こうして、「大人にならない」大人たちが、児童文学の新しいターゲットになりました。
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