当時の若手(三十歳前後)の評論家たちによる座談会です。
1980年代前半の作品をたくさんあげて、その動向を振り返っています。
最初に、キーワードとして理想主義をあげて、そのポジ(ハッピーエンドも含めてオーソドックスな現代児童文学の書き方をしている作品)とネガ(暗い状況が一見そのまま投げ出されるように書かれているが、その中に子どもたちの未来が信じられているような作品)に分けて論じています。
ネガ的な作品としては、那須正幹「六年目のクラス会」(その記事を参照してください)、川島誠「電話がなっている」(その記事を参照してください)、森忠明「少年時代の画集」(その記事を参照してください)などが取り上げられて、紙数を割いて細かく解説しておおむね好意的に評しています。
ポジ的な作品としては、後藤竜二「のんびり転校生事件」、加藤太一「草原」、角野栄子「魔女の宅急便」などについて書かれて、それぞれの評価点には触れながらも旧来的な成長物語の書き方には否定的な見解が示されています。
従来主流だったポジ的な作品に対して、こうした新しい作品群(那須正幹「ぼくらは海へ」(その記事を参照してください)がエポックメーキング的な作品であったことはここでも触れられています)が魅力的(特に彼らのような当時の若い世代の人たちにとっては)だったことは理解できる(彼らとほとんど同世代の私も川島作品を除いては他の記事において好意的に評価しています)のですが、こういった作品群が生み出されてきた社会的背景(特に子どもたちの変化)についての考察や書き手がなぜこのように描いたかの視点が欠落しているので、単なる感想にすぎなくなっています。
次に、当時注目されていた柄谷行人やアリエスなどの「子ども論」や外国の注目作品の話が出てきます。
彼らがよく勉強しているのはわかるのですが、80年代の作品との関連や今後の日本の創作児童文学にどのような影響を与えるかなどの分析がないので、まったく意味がありません。
こういった話を、一般の書き手たちにもわかるようにかみ砕かずに、そのまま「日本児童文学」誌上に載せるので、「評論は難しい」と書き手たちにそっぽを向かれて、「書き手は書き手」、「評論家は評論家」と別々に活動する現在の状況が作られていったのでしょう。
次に、作品の手法上の特長として、短編集(特に連作短編集)(例えば、泉啓子「風の音をきかせてよ」、最上一平「銀のうさぎ」、村中李衣「かむさはむにだ」「小さいベッド」(その記事を参照してください)など)と、大長編(飯田栄彦「昔、そこに森があった」(その記事を参照してください)、上野瞭「さらば、おやじどの」など)が出てきたことを指摘していますが、書き手たちがなぜその手法を採用したかの内的必然性に迫る考察がないので物足りませんでした。
最後に、薫くみこ「十二歳」シリーズや「おまかせ探偵」シリーズ、みずしま志穂「ほうれんそうマン」シリーズ、角野栄子「小さなおばけ」シリーズなどにも触れますが、「従来の批評の方法では扱えない」、「エンターテインメント作品の批評方法が必要」というにとどまっています。
全体的に、個人的な感想を述べ合っている部分が多く、あまり分析的ではありません。
そして、どこか他人事(彼らはもっと広範な分野な児童文学の研究者でもあります)のような印象を受けて、かつての評論家たち(古田足日、鳥越信、上野瞭など)のように新しい児童文学を切り開いていこうという熱意があまり感じられませんでした。
時代が違うと言えばそれまでですが、ちょうどこの時期、この座談会でも取り上げられた新しい書き手たちと交流があったのですが、彼らの方がまだ新しい児童文学を書いていこうという熱意が感じられました。
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日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌] |
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