「日本児童文学」1966年5月号と8月号に発表された、1960年前後の児童文学の状況についての評論です。
著者は、戦後児童文学の時代区分を、
「第一期はいわゆる良心的雑誌が児童文学運動の主体となった時期であり、敗戦の年からはじまり、1951年の「少年少女」廃刊に至るまでである。以降数年間を第二期とし、第三期のはじまりを昭和34年8月におく。」
としています。
そして、1959年3月ごろからから1960年4月にかけて、評論と創作の両面で明瞭な変化があったとして、次のような事象をあげています。
評論においては、佐藤忠男「少年の理想主義について」(その記事を参照してください)、古田足日「現代児童文学論」(その記事を参照してください)、石井桃子ほか「子どもと文学」(その記事を参照してください)のいわゆる「童話伝統批判」の重要な三評論が出そろっています。
創作においては、中川季枝子「いやいやえん」、佐藤暁「だれも知らない小さな国」、柴田道子「谷間の底から」、早船ちよ「キューポラのある街」、いぬいとみこ「木かげの家の小人たち」、山中恒「とべたら本こ」などがあげられていて、一般的に「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)のスタートとされている二つの小人物語も含まれています。
著者も、第三期(「現代児童文学」のスタート)を1959年8月としている理由に「だれも知らない小さな国」の出版をあげていて、この作品がいかに今までの作品と違う新しさ(優れた散文性をもち、宮沢賢治を除くとそれまで日本になかったファンタジー(ファンタジーに関する著者の定義には「子どもと文学」の石井桃子によるものの影響がみられます)作品であり、戦中戦後を体験することではぐくまれていた「個人の尊厳」を描いているなど)を持っていたかを、ここでも繰り返し述べています。
著者は、この時期の新しい作品を、西欧的近代の方法によったもの(「だれも知らない小さな国」、「木かげの家の小人たち」、他にいぬいとみこ「長い長いペンギンの話」など)、生活記録によるもの(「「谷間の底から」、他に「もんぺの子」同人による「山が泣いている」など」、日本的講談の発展したもの(「とべたら本こ」、他に同じ山中恒「サムライの子」など)の三つのタイプに分けています(こうしてみると、筆者のいうところの西欧的近代の方法によるものだけが、歴史の淘汰の中で現在まで生き残ったことがよくわかります)。
これらの作品における以下のような表現の変化を、著者は「童話から小説へ」と呼んでいます。
1. 詩的文体から散文への変化
2. 子どもの関心、論理に沿ったフィクションの強化
3. 限定されたイメージと、そのイメージの論理的なつみあげ
これらは、児童文学研究者の宮川健郎がまとめた「現代児童文学」の三つの問題意識に、大きな影響を与えていると思われます。
その後、著者は、長い紙数を割いて、山中恒の作品が「赤毛のポチ」(出版されたのは「とべたら本こ」よりも後なのですが執筆は先です)の「楽天的な組合主義?」から、「とべたら本こ」の「人間のもっとも基本的な欲望、生存の欲求」へ変化していったかを論じています。
その過程で、同じ「日本児童文学」に発表された先行論文(西本鴻介「社会状況と児童文学」、斉藤英夫「大衆児童文学の現況」など)の誤謬を鋭く指摘して、激しく糾弾しています。
現在の「仲良しクラブ」的で論争のない「日本児童文学」誌からすると想像もできませんが、それはこの雑誌を機関誌としている日本児童文学者協会自体が、文学(あるいは政治)運動体から同業者互助組合に変化したことを考えると無理もありません。
著者は、こうした山中恒の変化は、三作の執筆時期(1953年から1957年ごろにかけて)から考えると、60年安保闘争とは直接関係していないと考えています。
そして、60年安保闘争の高揚と挫折、「団結すれば的な考え方と、自立の思想の芽生え」の衝突を反映した最初の作品として、小沢正「目をさませトラゴロウ」をあげています。
児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ) | |
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