私はオオカミウオです。
北の冷たい海で生まれ、そして育ちました。体が一メートル以上もあって牙も強いので、怖いものは何もありません。
冷たい海の底をゆうゆうと泳ぎ回り、好物の貝を殻ごとバリバリと食べていました。
オオカミウオの名の由来は、鋭い牙と発達したあごでしょう。
でも、陸上のオオカミのようなスマートな姿はしていません。灰色のごつごつした体にはうろこもなく、まるで溶岩のようです。頭でっかちで、大きな口から牙があちこちを向いてはみ出している姿は、自分で考えてみても、まさに海の怪物です。
小さな魚たちは、私を恐れてそばに近づきません。私の方でも、そんな魚たちを、牙をむいて追い回していました。
時々見かける自分と同じオオカミウオたちとも、喧嘩ばかりしていました。仲間たちと出会うと、醜い自分の姿を突き付けられたかのようでどうにも我慢できず、むやみにかみついてしまいます。
もちろん彼らも反撃してきましたので、うろこのない私の体には、仲間たちから受けたかみ傷が、いく筋もついています。
私は、大嫌いな仲間たちからしだいに離れて、北の海底に見つけた岩穴の巣で、一匹だけで暮らすようになりました。
その日も、私は、小さな魚たちを追いかけまわしていました。
そのために、ついつい巣のまわりから離れた時でした。
(あっ!)
突然、私は、漁船の仕掛けた網に引っかかってしまいました。いくらもがいても、網はますます体にからんできます。
まもなく、私は船の上に引き上げられてしまいました。
「ちっ、ろくでもないのがかかったな」
「たたっ殺せ」
漁師たちが、口々に叫んでいます。
私は、観念してじっとしていました。水の外に引き上げられては、私の強い牙も、人間たちには意味のないものだということは明らかです。
「おい、ちょっと待て」
年配の漁師が、ハンマーを振り上げた若者を押しとどめました。
「こいつはオオカミウオじゃないか。それほど珍しくはないけどな、もしかすると、水族館に売れるかもしれないぞ」
その言葉に、ハンマーは私の体に振り下ろされませんでした。
私は、わずかな金と引き換えに命を助けられ、その漁船の母港であるA市の水族館に連れていかれました。
水族館は、漁港になっている小さな湾をグルッとまわった、岬の突端にあります。
見ものといったらいかにも北の町らしいトドやアザラシぐらいで、展示されている海の動物たちの数も少ない所です。
でも、私のようなオオカミウオは、ここでもありふれているらしく、水槽に入れられると仲間が十匹以上もいました。
私は、世の中で最も嫌い自分の仲間たちの真っただ中に入れられ、カッとして隣の奴の腹にかみついてしまいました。
パッと、真っ赤な血が水そうに広がります。
しかし、そいつは、少しもはむかおうともせずに、こういっただけでした。
「殺してくれ」
他のオオカミウオたちは、関心なさそうに同じ方向を向いて、水底にじっとしています。
私は、自分で自分を抑えることができずに、狂ったように彼らをかみ続けました。
水槽の中の水は、彼らの血で濁っていきました。
騒ぎを聞きつけた飼育員が飛んできました。
とうとう私は、別の水槽に一匹だけで入れられてしまいました。
私は、三メートル四方ほどの水槽の中をゆらゆらと漂いながら、あたりを見まわしていました。
私の水槽がある部屋の中央には、柱の回りに四方に向かって長椅子が置いてあります。
他の三つの長椅子には、よく人が座って水槽をながめていました。
「きれいな魚だなあ」
「おもしろい模様だね」
そこから見える水槽の魚たちについて、話をしています。
でも、私の正面の長椅子だけは、めったに人が座りません。どんなに館内が混んでいても、そこだけがポツンと空いているのです。
たまに人がいたとしても、なるべく私の方を見ないようにしているのがよくわかります。
水槽を、順番にのぞきながらやってきた人たちは、私の水槽の前に来ると、一様にビクッとして体を後ろへ引きます。
そして、こんなひとことを残して、すぐに他のきれいな魚たちの水槽へ行ってしまいます。
「まあ、なんてこわい顔」
「すごい傷だなあ」
「オ・オ・カ・ミ・ウ・オ。ふーん、なるほどな」
毎日、私は、水底にじっとして、正面を見ているようになりました。
時間は、ゆっくりと過ぎていきます。
ある日、一人のおじいさんが、私の前の長椅子に座っていることに、気がつきました。そして不思議なことに、(自分でいうのもおかしいのですが)、私をじっと見つめているのです。
私は、狼狽して目をそらしてしまいました。
すると、おじいさんは、持っていた小さな袋から、ミカンを取り出しました。
ひと房ずつ、ていねいに白い筋をむいて、ゆっくりゆっくり食べています。
私は、ついその手元、そして次に口元と、ミカンを食べるのをじっと見てしまいました。
やがて、おじいさんはミカンを食べ終え、再び私の方を見ました。気のせいか、微笑んだようです。白いひげが、電灯にキラリと光りました。
それから毎日、おじいさんは、私の前の長椅子に、やってくるようになりました。それも、いつも昼過ぎの決まった時刻に現われます。
杖を突いて、足を少しひきずっています。もしかすると、おじいさんは、歩く練習のために水族館にやってきているのかもしれません。
長椅子に二、三十分座って、休みながらミカンを一つか二つ食べます。そして時々、私を正面からじっと見てくれます。
おじいさんがこちらを見ている時には、私は、なんだかきまりが悪くて目をそらしてしまいます。そして、いつものようにていねいに、ゆっくりゆっくりミカンの筋をむいている様子などを、横目で見たりしていました。
私は、おじいさんが来るのが、だんだん楽しみになってきました。
そして、自分の今までの荒んだ暮らしが、悔やまれてならないようになりました。
(おじいさんのように、穏やかに暮らしたい。もし、あの北の暗く青い海へ帰れたら。いや、せめて一匹でも仲間に会えたら、今の気持ちが伝えられるのに)
一か月ほどしたある日のことでした。
おじいさんは、その時も私の前の長椅子に腰を下ろしていました。ひとしきり私をながめた後、いつものようにミカンを取り出しました。
と、その時、
「ワーッ」
という歓声が聞こえてきました。そういえば、今日は遠足で子どもたちが来ているようでした。
部屋の中に、小学生の一団が走り込んで来ました。我勝ちに、水槽に取り付きます。中には、ふざけて押し合っている子どもたちもいます。
一人が、よろけたはずみにおじいさんに突き当たりました。
おじいさんの手から、皮をむいたミカンが落ちました。さらに、袋からもいくつかのミカンが床にこぼれてしまいました。
そして、
(ああ、おじいさんの顔が怒りに歪んでいます)
ステッキが振り上げられました。
私は、固く目を閉じました。
その後、おじいさんは、再び私の前に現れませんでした。
それからしばらくしたある日、一人の男の子が私のいる部屋へ入ってきました。
平日の昼下がりなので、他には客はいません。
男の子は、しばらくあたりの様子をうかがっていました。
誰も来ません。
すると、男の子は、パッと長椅子の上へ飛び上がりました。もちろん、土足のままです。そして、飛び跳ねながら、柱の回りを一周しました。長椅子には、男の子の運動靴の跡が、くっきりとついてしまいました。
次に、男の子は、水槽のガラスを順番に両手で叩き始めました。振動に驚いて、小さな魚たちは逃げまわっています。
私の水槽にも、やってきました。
男の子は、私を見てちょっと驚いたようです。
でも、すぐに舌をベーッとばかりに出していいました。
「バーカッ」
私は、あっけにとられて男の子を見送りました。
その日から、男の子は、時々、私たちの部屋にやってくるようになりました。いつも、他の人のいない平日の昼下がりです。
(学校は、サボっているのでしょうか?)
いつもイタズラの限りを尽くしてから、部屋を出ていきます。
ある日、男の子がいつものように長椅子の上で飛び跳ねている時に、水族館の掃除係の人が部屋に入ってきました。
「あっ、このガキ。おまえだな、いつもいたずらをしてるのは」
「いけね」
男の子は、あわてて長椅子を飛び降りました。
「待てーっ」
係員は、後を追いかけます。
男の子は、すばしっこく部屋のあちこちを逃げ回っています。
しかし、とうとう最後に、男の子は捕まってしまいました。男の子は、係員に引きずられるようにして部屋を出ていきます。
でも、男の子は、最後に私に向かって、Vサインを送ってきました。
私も、男の子にウインクを返してあげました。
その後、男の子も来なくなりました。
時間は、ゆっくりと過ぎていきます。私は、以前と変わらず、水底でじっと前を見ています。
時々、夢を見ます。夢の中で、私は、生まれ故郷の北の海、その深い深い水底にじっと横たわっています。
そして、以前はこわがって近寄らなかった小さな魚たちが、私の牙の間を出たり入ったりして遊んでいるのでした。
北の冷たい海で生まれ、そして育ちました。体が一メートル以上もあって牙も強いので、怖いものは何もありません。
冷たい海の底をゆうゆうと泳ぎ回り、好物の貝を殻ごとバリバリと食べていました。
オオカミウオの名の由来は、鋭い牙と発達したあごでしょう。
でも、陸上のオオカミのようなスマートな姿はしていません。灰色のごつごつした体にはうろこもなく、まるで溶岩のようです。頭でっかちで、大きな口から牙があちこちを向いてはみ出している姿は、自分で考えてみても、まさに海の怪物です。
小さな魚たちは、私を恐れてそばに近づきません。私の方でも、そんな魚たちを、牙をむいて追い回していました。
時々見かける自分と同じオオカミウオたちとも、喧嘩ばかりしていました。仲間たちと出会うと、醜い自分の姿を突き付けられたかのようでどうにも我慢できず、むやみにかみついてしまいます。
もちろん彼らも反撃してきましたので、うろこのない私の体には、仲間たちから受けたかみ傷が、いく筋もついています。
私は、大嫌いな仲間たちからしだいに離れて、北の海底に見つけた岩穴の巣で、一匹だけで暮らすようになりました。
その日も、私は、小さな魚たちを追いかけまわしていました。
そのために、ついつい巣のまわりから離れた時でした。
(あっ!)
突然、私は、漁船の仕掛けた網に引っかかってしまいました。いくらもがいても、網はますます体にからんできます。
まもなく、私は船の上に引き上げられてしまいました。
「ちっ、ろくでもないのがかかったな」
「たたっ殺せ」
漁師たちが、口々に叫んでいます。
私は、観念してじっとしていました。水の外に引き上げられては、私の強い牙も、人間たちには意味のないものだということは明らかです。
「おい、ちょっと待て」
年配の漁師が、ハンマーを振り上げた若者を押しとどめました。
「こいつはオオカミウオじゃないか。それほど珍しくはないけどな、もしかすると、水族館に売れるかもしれないぞ」
その言葉に、ハンマーは私の体に振り下ろされませんでした。
私は、わずかな金と引き換えに命を助けられ、その漁船の母港であるA市の水族館に連れていかれました。
水族館は、漁港になっている小さな湾をグルッとまわった、岬の突端にあります。
見ものといったらいかにも北の町らしいトドやアザラシぐらいで、展示されている海の動物たちの数も少ない所です。
でも、私のようなオオカミウオは、ここでもありふれているらしく、水槽に入れられると仲間が十匹以上もいました。
私は、世の中で最も嫌い自分の仲間たちの真っただ中に入れられ、カッとして隣の奴の腹にかみついてしまいました。
パッと、真っ赤な血が水そうに広がります。
しかし、そいつは、少しもはむかおうともせずに、こういっただけでした。
「殺してくれ」
他のオオカミウオたちは、関心なさそうに同じ方向を向いて、水底にじっとしています。
私は、自分で自分を抑えることができずに、狂ったように彼らをかみ続けました。
水槽の中の水は、彼らの血で濁っていきました。
騒ぎを聞きつけた飼育員が飛んできました。
とうとう私は、別の水槽に一匹だけで入れられてしまいました。
私は、三メートル四方ほどの水槽の中をゆらゆらと漂いながら、あたりを見まわしていました。
私の水槽がある部屋の中央には、柱の回りに四方に向かって長椅子が置いてあります。
他の三つの長椅子には、よく人が座って水槽をながめていました。
「きれいな魚だなあ」
「おもしろい模様だね」
そこから見える水槽の魚たちについて、話をしています。
でも、私の正面の長椅子だけは、めったに人が座りません。どんなに館内が混んでいても、そこだけがポツンと空いているのです。
たまに人がいたとしても、なるべく私の方を見ないようにしているのがよくわかります。
水槽を、順番にのぞきながらやってきた人たちは、私の水槽の前に来ると、一様にビクッとして体を後ろへ引きます。
そして、こんなひとことを残して、すぐに他のきれいな魚たちの水槽へ行ってしまいます。
「まあ、なんてこわい顔」
「すごい傷だなあ」
「オ・オ・カ・ミ・ウ・オ。ふーん、なるほどな」
毎日、私は、水底にじっとして、正面を見ているようになりました。
時間は、ゆっくりと過ぎていきます。
ある日、一人のおじいさんが、私の前の長椅子に座っていることに、気がつきました。そして不思議なことに、(自分でいうのもおかしいのですが)、私をじっと見つめているのです。
私は、狼狽して目をそらしてしまいました。
すると、おじいさんは、持っていた小さな袋から、ミカンを取り出しました。
ひと房ずつ、ていねいに白い筋をむいて、ゆっくりゆっくり食べています。
私は、ついその手元、そして次に口元と、ミカンを食べるのをじっと見てしまいました。
やがて、おじいさんはミカンを食べ終え、再び私の方を見ました。気のせいか、微笑んだようです。白いひげが、電灯にキラリと光りました。
それから毎日、おじいさんは、私の前の長椅子に、やってくるようになりました。それも、いつも昼過ぎの決まった時刻に現われます。
杖を突いて、足を少しひきずっています。もしかすると、おじいさんは、歩く練習のために水族館にやってきているのかもしれません。
長椅子に二、三十分座って、休みながらミカンを一つか二つ食べます。そして時々、私を正面からじっと見てくれます。
おじいさんがこちらを見ている時には、私は、なんだかきまりが悪くて目をそらしてしまいます。そして、いつものようにていねいに、ゆっくりゆっくりミカンの筋をむいている様子などを、横目で見たりしていました。
私は、おじいさんが来るのが、だんだん楽しみになってきました。
そして、自分の今までの荒んだ暮らしが、悔やまれてならないようになりました。
(おじいさんのように、穏やかに暮らしたい。もし、あの北の暗く青い海へ帰れたら。いや、せめて一匹でも仲間に会えたら、今の気持ちが伝えられるのに)
一か月ほどしたある日のことでした。
おじいさんは、その時も私の前の長椅子に腰を下ろしていました。ひとしきり私をながめた後、いつものようにミカンを取り出しました。
と、その時、
「ワーッ」
という歓声が聞こえてきました。そういえば、今日は遠足で子どもたちが来ているようでした。
部屋の中に、小学生の一団が走り込んで来ました。我勝ちに、水槽に取り付きます。中には、ふざけて押し合っている子どもたちもいます。
一人が、よろけたはずみにおじいさんに突き当たりました。
おじいさんの手から、皮をむいたミカンが落ちました。さらに、袋からもいくつかのミカンが床にこぼれてしまいました。
そして、
(ああ、おじいさんの顔が怒りに歪んでいます)
ステッキが振り上げられました。
私は、固く目を閉じました。
その後、おじいさんは、再び私の前に現れませんでした。
それからしばらくしたある日、一人の男の子が私のいる部屋へ入ってきました。
平日の昼下がりなので、他には客はいません。
男の子は、しばらくあたりの様子をうかがっていました。
誰も来ません。
すると、男の子は、パッと長椅子の上へ飛び上がりました。もちろん、土足のままです。そして、飛び跳ねながら、柱の回りを一周しました。長椅子には、男の子の運動靴の跡が、くっきりとついてしまいました。
次に、男の子は、水槽のガラスを順番に両手で叩き始めました。振動に驚いて、小さな魚たちは逃げまわっています。
私の水槽にも、やってきました。
男の子は、私を見てちょっと驚いたようです。
でも、すぐに舌をベーッとばかりに出していいました。
「バーカッ」
私は、あっけにとられて男の子を見送りました。
その日から、男の子は、時々、私たちの部屋にやってくるようになりました。いつも、他の人のいない平日の昼下がりです。
(学校は、サボっているのでしょうか?)
いつもイタズラの限りを尽くしてから、部屋を出ていきます。
ある日、男の子がいつものように長椅子の上で飛び跳ねている時に、水族館の掃除係の人が部屋に入ってきました。
「あっ、このガキ。おまえだな、いつもいたずらをしてるのは」
「いけね」
男の子は、あわてて長椅子を飛び降りました。
「待てーっ」
係員は、後を追いかけます。
男の子は、すばしっこく部屋のあちこちを逃げ回っています。
しかし、とうとう最後に、男の子は捕まってしまいました。男の子は、係員に引きずられるようにして部屋を出ていきます。
でも、男の子は、最後に私に向かって、Vサインを送ってきました。
私も、男の子にウインクを返してあげました。
その後、男の子も来なくなりました。
時間は、ゆっくりと過ぎていきます。私は、以前と変わらず、水底でじっと前を見ています。
時々、夢を見ます。夢の中で、私は、生まれ故郷の北の海、その深い深い水底にじっと横たわっています。
そして、以前はこわがって近寄らなかった小さな魚たちが、私の牙の間を出たり入ったりして遊んでいるのでした。
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