現代児童文学の世界では、その担い手の中心が女性になって久しいです。
それは、もちろん児童文学が、文芸評論家の斉藤美奈子がいうところのL文学(女性の作者が女性を主人公にして女性の読者のために書いた文学)化していることが大きな原因でしょう。
最近は、それに女性編集者、女性評論家、女性研究者も加わり、完全に女性だけの閉じた世界になりつつあります。
児童文学のL文学化の功罪についての考察は別の記事でも書いているので、ここでは経済的な面でいかに男性が児童文学の作家を仕事にするのが困難かを考えてみたいと思っています。
私が初めて児童文学の本を出版したのは、1988年の7月でした。
出版社と契約を交わし、定価920円(本体893円、消費税27円(3%の時代でした))で印税は8%(一般の文学の本では印税は10%ですが、児童書は挿絵がつくので絵描きさんの分が差し引かれます)でした。
私の編集担当者が「うちは、大家でもあなたのような新人でも8%払う」と、恩着せがましく言っていましたから、もしかするともっと劣悪な条件をのまされている書き手もいたのでしょう。
その本の初版は八千部(当時は出版バブルだったので私のような新人でもこの部数ですが、今ではせいぜい三千部から五千部あるいはもっと少ない冊数でしょう)だったので、単純に計算すると571520円が私の取り分ですが、宣伝用の100冊だか200冊だかの分の印税が差し引かれたり、私が自分で配る分の本代(著者は八掛けで買えます)が引かれたり、源泉徴収の10%があったりして、実際の手取りは50万円を切っていました。
当時、会社からもらっている給料より、かなり少ない額だったのに驚いた覚えがあります。
(これでみんなはどうやって生活しているんだろう?)
そんな素朴な疑問をもったので、生活していくのにどのくらい本を出せばいいのか計算してみました。
最終的な刷数を四刷として(二刷からはさらに部数が減ることは知っていましたので、刷を重ねるごとに半減すると仮定して)、合計の部数を1万5千部としました(これがいかに甘い仮定であったことは、後でいやというほど思い知らされます)。
これをもとに印税を計算すると、毎年10冊出しても当時の年収にはるかに及ばないことがわかりました。
その本は、エンターテインメント性はほとんどなく、もろに「現代児童文学」していたので、あまり売れないだろうなということは、自分が一番知っていました。
それにもかかわらず編集者に勝手に漫画的な挿絵を付けられましたが、おそらく編集者自身はその方が売れると思ったのでしょう。
逆に、児童文学の世界の友人たちからは、その本は挿絵でずいぶん損をしていると言われました。
そのせいかどうか、日本児童文学者協会の新人賞は、最終選考候補どまりでした。
これでますます売れないことは決定的になり、けっきょくその本は初版どまりで終わってしまいました。
それならば、エンターテインメントを書いてみたらどうだろう。
そうすればもっと売れるかもしれないと思って、次の作品はエンターテインメント的なものにしてみました。
幸いこの作品もすぐに本になりましたが、編集者が同じだったこともあって、前の本と同じシリーズで同じ売り方でした。
まあ、ようやく本の内容と一致する挿絵になったことがせめてもの救いでしたが。
私の本業は電子機器のマーケティングでしたので、(エンターテインメントならエンターテインメントらしい売り方をしてくれよな)と内心思っていましたが、そんな発想はその出版社にはないようでした。
案の定、この本もあまり売れませんでした。
(よーし、それなら)と、次はもっとエンターテインメント性を強めたマニアックな作品(今だったらライトノベルのようなもの)を書きましたが、これは担当編集者の理解を超えるものだったらしく、些細な事にケチをつけられてその編集者とはけんか別れをしました。
ここで私のとる道は二つあったのでしょう。
ひとつは、出版社を変えて、「現代児童文学」ではなく「エンターテインメント」の書き手になることです。
もうひとつは、出版社との関係は絶って本業に専心して、好きな「現代児童文学」(特に本にはなりにくい短編)を書き続けることです。
結論から言うと、私は後者を選びました。
誤解をまねかないために言っておくと、私は「現代児童文学」と「エンターテインメント」を差別するものではありません。
たんに、ジャンルとして区別しているだけです。
作家の村松友視が「私、プロレスの味方です」の中で書いたように、「あらゆるジャンルに貴賎はない」のです。
ただ、それぞれのジャンルの中で一流も三流もあります。
だから、一流の「エンターテインメント」作品もあれば、三流の「現代児童文学」作品もあるのです。
ただし、人それぞれにジャンルの好き嫌いはあります。
私の場合、「現代児童文学」はすごく好きだけれど、「子ども向けエンターテインメント」は好きじゃないだけなのです。
ここで、「子ども向け」と断っているのは、大人向けのエンターテインメントで好きな作家は、当時何人もいたからです(例えば、「羊たちの沈黙」などのトマス・ハリスや「ジャッカルの日」などのフレデリック・フォーサイスなど)。
結論から言うと、印税収入だけで暮らしていけている男性の「現代児童文学」の作家は、ほとんどいません。
「エンターテインメント」の書き手なら、はやみねかおるや松原秀行のように、印税だけで暮らしていける男性作家もいることでしょう。
私はまったく詳しくありませんが、「ライトノベル」や「絵本」にも、かなりプロの男性作家いることと思います。
しかし、「現代児童文学」作家は、あの皿海達也でさえ、教師の仕事を辞めて作家に専念できませんでした。
岡田淳も、長い間、図工の教師を続けていました。
彼は、最近はかなりエンターテインメント性の強い作品を量産しているので、あるいは今は作家に専念しているかもしれませんが。
2010年に亡くなった後藤竜二のように、「現代児童文学」と「エンターテインメント」、さらには「絵本」までかき分ける才に恵まれ、作家に専念できたた人はまれでしょう。
「現代児童文学」の男性作家で、仕事を辞めて創作に専念している場合でも、妻などの収入に頼っている人も多いようです。
ある著名な「現代児童文学」の男性作家が、「実はおれはヒモなんだよ」と、自嘲的に言っていたのが忘れられません。
その点では、今までは女性の方が有利だったかもしれません。
従来の日本社会では、結婚すれば少なくとも経済的な心配はあまりなかったからです。
これも、児童文学の世界がL文学化した理由の一つかもしれません。
でも、非婚化や世代間格差の進んだこれからの日本では、女性も男性と条件が変わらなくなってくるとは思います。
今は作品がエンターテインメントよりになって、本が売れているので作家に専念していますが、荻原規子も長い間中学校の事務の仕事を続けていました。
2012年にサークルの同窓会で彼女と話した時、「レッド・データ・ガール」シリーズが売れても、まだ不安だと言っていました。
こういった「現代児童文学」の状況を打破するためには、印税の大幅アップしかありません。
もともと「現代児童文学」は、大人向けの「純文学」同様に、読者数の多いものではないのです。
それならば、印税を大幅に上げて、作者の取り分を多くするしかありません。
印税が10%でなく40%(児童書の場合ならば、8%でなく32%)ならば、純文学(現代児童文学)の書き手でも、生活していけるようになるでしょう。
あの田中慎哉でも、別に芥川賞を取らなくても、パートのおかあさんの収入に頼らなくてすみます。
そのためには、出版社、流通、書店といった中間搾取層(言葉が悪くてすみません)をカットできる電子書籍の普及に期待しています。
アメリカではすでにその動きがかなり出てきているので、日本でもあと10年ぐらいたてば状況がかなり変わる事と思われます。
2012年の終わりに、アマゾンがキンドル・ダイレクト・パブリッシング(KDP、その記事を参照してください)を日本でも開始しましたが、そこで自己出版(無料なので自費出版ではありません)して、そのロイヤリティ(35%または70%)だけで児童文学作家が生活できるようになるのには、まだまだ時間がかかるでしょう。
特に、いくらKDPで出版しても、アマゾンはいっさい宣伝してくれませんから、どのように読者に自分の本の存在をを知らせるかが大きなハードルになっています。
上記の文章を初めて書いてから五年以上たつのですが、状況はさらに悪化しています。
児童文学の電子化は遅々として進まず、子どもたちのほとんどがスマホを持っているのに、児童文学作品をそれで読むことができません。
また、宮沢賢治を除くと、古典的な児童文学作品のディジタル化も全く進んでいません。
そのため、児童文学作品の消費財化がどんどん進んでいます。
英語圏では、児童文学の新作はもちろん古典的な作品まで、安価に電子書籍で購入して読むことができます。
また、図書館のディジタル化も進んでいるので、無料で読むこともできます(日本でも、八王子市などでは、電子書籍の貸し出しが始まっています)。
その一方で、漫画の世界では電子化は進んでいます。
その業界の友人の話では、紙の本の売り上げの落ち込みを電子書籍で補っていて、主力は電子書籍に移行しているそうです。
私自身も、コミックスを読む時は、新作(例えば、「BEASTARS」(その記事を参照してください))も、古典(例えば、「火の鳥」や「カムイ伝」(それらの記事を参照してください))も、電子書籍で購入して読んでいます。
正直言って、児童文学の業界の人たちは、ディジタル化やマーケティングに関して全く疎いので、日本の児童文学の世界はますますガラパゴス化しています。