児童文学における新しさを考える場合には、大きく分けて三つの階層があるように思えます。
一番表層にあるのは、本(商品)としての新しさです。
児童文学で生活しているプロの作家や、本を出版したいと願っているアマチュア作家には一番関心がある階層かもしれません。
ここにおける新しさとは、題材の新しさ、キャラクターの新しさ、体裁(挿絵も含めて)の新しさなどが含まれます。
それに加えて、作者自身の新しさも含まれるかもしれません(古くは黒柳徹子の「窓際のトットちゃん」があげられますし、ひところ話題になった水嶋ヒロの作品や又吉直樹の「火花」などもこれに入るでしょう)。
次の階層は、文芸論的な新しさです。
児童文学も文章芸術であるからには、どのように書かれるかの技術的な観点も重要でしょう。
最近はずいぶん変わってしまいましたが、本来の芥川賞は文芸論的な新しさを評価する賞でした(最近の分かりやすい例は、黒田夏子の「abさんご」でしょう)。
そういった意味では、又吉さんには芥川賞はあげるべきではなかったと今でも思っています(商品としての優劣を決める本屋大賞ならば、まったく文句はありません)。
日本の児童文学でも、出版バブルで出版社に余裕があったころは、前衛的な作品(例えば、岩瀬成子の「あたしをさがして」など)も出版されていましたが、最近は低調なようです。
最後の層は、文学としての新しさです。
児童文学も「文学」であるならば、「文学」とは何かの根源的な問いかけが必要だと思っています。
そのためには、「歴史認識」と「社会性」が必須なものだと考えています。
「歴史認識」とは、児童文学史を眺めた場合に、どのような文学がどのような時代を背景に登場したかを正しく理解することです。
わかりやすい例でいうと、「赤い鳥」と「プロレタリア児童文学」がどのような時代背景で生み出されたかを考えるといいでしょう。
現在の児童文学に対する私の認識は、1950年代に始まった狭義の「現代児童文学」が、1990年代に終焉した(児童文学研究者の佐藤宗子や宮川健郎は2010年に終焉したとしていますが、実質的にはもっと前に終わったと思っています)後は、「児童文学」は広い年代の女性読者向けを中心としたエンターテインメントに変わっていて、新しい「文学」はまだ生み出されていません。
そういった意味では、ポスト「現代児童文学」の「文学」を志向することが新しさなのかもしれません。
「社会性」に関しては、現在の子どもたちが直面しているいろいろな問題とどのように切り結んでいくかと、その時代の典型的な子ども像(かつて砂田弘があげていた例でいうと、マーク・トウエンのトム・ソーヤー、エーリヒ・ケストナーのエーミール・ティッシュバイン、カニグズバーグのクローディア・キンケードなどですが、もっとわかりやすい例でいうとサリンジャーのホールデン・コールフィールドでしょう)を生み出すことです。
私自身は、「児童読み物作家」でも「児童文芸家」でもなく、「児童文学者」でありたいと願っているので、「文学」としての新しさを追求していきたいと思っています。
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