直木賞と本屋大賞を同時に受賞して話題になったエンターテインメント作品です。
読み始めてすぐに、懐かしい少女マンガの世界(例えば、くらもちふさこの「いつもポケットにショパン」など)だと思いましたが、読み進めていくうちに懐かしい少年マンガの要素も持った、より多くの読者を獲得できる作品だということがわかってきました。
懐かしい(最近の作品は読んでいないので)少女マンガだと思った理由は、取り上げている素材(国際的なピアノコンクール)や登場人物(主なコンテスタント(コンクールへの参加者)四人のうち三人がタイプの違った天才(全く無名だが世界的な巨匠の最後の弟子で推薦状を持参した16歳の少年、アメリカのジュリアード音楽院を代表する大本命の19歳の青年、母の死とともに音楽界から姿を消したかつての天才少女(年齢は20歳と一番上だが、作者は繰り返し少女と表現して幼さを強調しています))の処理(特に男性陣は、天衣無縫の美少年と、身長188センチのイケメンで、女性読者へのサービス満点です)です。
一方、懐かしい(一部を除いて最近の作品は読んでいないので)少年マンガだと思った理由は、コンクール出場のオーディション(16歳の無名少年だけ)、本大会の第一次予選、第二次予選、第三次予選、本選と勝ち抜いていく構成が、スポーツ物や戦闘物の少年マンガの形式を踏襲しているからです。
そのため、この作品ではコンクールでの演奏シーンが非常に多いのですが、純粋な少女マンガファンにはやや退屈に感じられたかもしれません。
しかし、これこそが少年マンガの大きな特徴で、他の記事にも書きましたが、こうしたマンガでは人気が落ちる(マンガ雑誌は、毎週の人気投票という過酷な手段で、掲載しているそれぞれのマンガの人気をチェックしています)と、試合のシーンや戦闘シーンを増やすそうです。
これも他の記事にも書きましたが、登場人物の人間性をより深く描いたことで他のスポーツ物と一線を画したと言われる、ちばあきおの「キャプテン」(その記事を参照してください)や「プレイボール」(その記事を参照してください)でさえ、試合のシーンが圧倒的に多いことに驚かされます。
そういった意味では、コンクールが深まっていくにつれて演奏シーンが盛り上がっていく書き方は、男性読者の方が読みやすかったかもしれません。
音楽の魅力を文章で描くのは非常に困難な作業なのですが、作者は圧倒的な筆力で強引にねじ伏せてみせます。
ここに書かれたクラシックの楽曲の解釈が、どれほど音楽的に正しいのかを判断する知識を持ち合わせていませんが、何曲かの知っている曲での表現はそれらしく感じられました。
また、読んでいて無性にクラシック音楽(特にピアノ曲)が聴きたくなるのは、作品の持っている力でしょう(途中からは実際にバックに流しながら(作品に出てくる楽曲とは限りませんが)読みました)。
作品の書き方は、典型的なエンターテインメントの書式(偶然の多用(桁外れの天才が三人も同じコンクールに参加する。天才のうち二人は実は幼なじみで、コンクールで奇跡的な再会を果たす。女性の天才は、もう一人の天才ともたびたび偶然出会う。外国人も含めて主な登場人物が全員日本語を話せるなど。)、スパイスとしてのロマンス(コンテスタント同士だけでなく、審査員同士やコンテスタントと取材者まで)、デフォルメされた登場人物設定(三人の天才だけでなく、四人目の主なコンテスタント(28歳の楽器店勤務の既婚男性。このコンクールを記念に音楽活動を退く予定で、そのために社会人生活や家庭生活や経済面もかなり犠牲にして一年以上準備してきた)、審査員や関係者まで)、強引なストーリー展開(三人の天才が上位入賞を果たすのは当然としても、途中敗退した四人目のコンテスタントにも十分に花を持たしている。敵役の有力コンテスタントの意外な敗退など)です。
他の記事にも繰り返し書きましたが、こうしたことを非難しているのではありません。
純文学とは書式が違うことを言っているだけです。
むしろ、二段組み500ページを超える大作を、コモンリーダーと呼ばれる一般の読者に読んでもらうためには、こうしたエンターテインメントの書式は適していると思っています。
最後に、これも他の記事にも書きましたが、「本屋大賞」は、あまり知られていない「書店員が売りたい本」をより多くの読者に読んでもらうためにスタートしたはずですが、最近はますます「売れる本」の人気投票と化しているようです。
そのため、小川洋子の「博士の愛した数式」のような芥川賞タイプ(純文学寄り)の作品から、今回のような直木賞受賞作品(エンターテインメント)に、受賞作品が変化しているようで、存在意義が問われるところです。
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