「唯脳論」に、猿回しの調教をするサルを選ぶときに、キョロキョロしないサルを選ぶ、ということが書いてあります。
もちろんこれは養老孟司先生が研究したわけじゃなくて中里介山の『大菩薩峠』に言及したわけですが、こういうところにピピッと来る感性がさすがだなあと思うのです。
哺乳類というのはだいたい眼が横に付いていますが、サルというのは眼が頭部の前方に付いています。ウサギなどとは違って、後ろの状況を察知するには不都合な構造をしているわけです。ですから周囲の状況を常に把握しておこうとすれば、必然的にキョロキョロしなくてはならないわけで、そうするとキョロキョロしないサルというのは夢想癖があると(笑)。
といっても単純にぼんやり夢想しているわけではなくて、眼はアサッテの方向を見てるけれども、どっちみち周りには別なサルたちがいるんだし、自分はいいやと…。そして常に周りにいるサルたちの「心の動き」を追っていて、何か非常事態が起きれば、周りのサルが騒ぐのですぐに分かる、こういうことなのだろうと思うのです。
で、どうしてキョロキョロしないサルが調教に向いているのかという話は置いといて、動物というのは、もちろん音がすればそっちの方に顔を向ける(あるいは耳を動かせる動物は耳を動かす)わけですが、キョロキョロするサルというのは、音がしてもしなくても、いわばその構造的必然性から、絶えず周囲の映像をスキャンする、そういう本能に従って行動していると考えられるわけです。つまり外部からの刺激ではなく、内部からの勃発的(トニック)なものに動かされている、けれども断じて自分の意思でやっているのではない…。理由は無いけれどもなんとなく後ろを見たくなる、あるいは「いま何か聞こえたような気がした」という感じなのかもしれません。
ところが集団の中にいると少しだけその緊張がやわらげられる…。サルが群れを作る理由というのは、1匹よりも多数の方が、1匹あたりの監視する範囲が狭くなるので効率がいい、「へへ~い、全然首が疲れないぞ」ということではなかろうかと思うわけであります。
だいたいサルの研究をしている人は研究予算を付ける手前、よくよく注意しないとその面白さに気付かないような研究対象ははじめから手を出さないと思います。ですからこんな一見つまらないことを大まじめに議論しようとする学者はいないかと…。けれども「猿回しのサル」はものすごく重要なことを示していると思うのです。
シママングースに見られるような高度に発達したコミュニケーション能力というのは、やっぱり哺乳類型爬虫類からプリミティブな哺乳類にかけて飛躍的に発達した声帯、耳、鼻、そして脳神経と関係があると思われます。そして哺乳類の中でもサルというのは、何かぼんやりしているというか、明らかにそれまでの哺乳類とは違う能力を獲得しているように感じられます。
キネズミのような弱い動物が猛禽類や蛇などの攻撃から身を守るためには、いち早く危険を察知して代謝モードをシフトさせなければいけません。哺乳類は動物の中でも発達した非常に敏捷な筋肉を持っているわけですが、敵の動きに即応してパッと動くためには、あらかじめ血糖値や血圧を上げておかなければなりませんし、もちろん相手のすばやい動きをとらえるためには、いつもより視力を高めておく必要があるでしょう。そのシフトの弾きがねとなる刺激なりパターンなりが、動物における「ストレス」なのでした。
人間の場合、合図に反応してパッと行動するためには特別な訓練をしなくてはいけません。軍隊がそうですし、他ではこれに似たようなものということで探してみますと、マスゲームというのが思いつきます。どこかの国が熱心にやっていますね。こういうのはみんな合図を出す人が一人いて、それをみんなが見ているという構図になっているわけですけれども、これらはみなcautiousな状態を意図的に作り出しているといえるわけです。
ところで相撲というスポーツは一種独特なスポーツだなあと思います。他のスポーツは「ピー」という笛の合図でスタートするのに対して、相撲には行事というものが存在します。もちろん行事が「ハッケヨイ」といった瞬間両力士がぶつかり合うのではなくて、あくまでも両力士の呼吸が揃ったときに開始するわけです。片方の力士の気合が乗らなくて、仕切り直し、それで「待ったなし」になるということはよくあります。それで子供の頃はよく「どうしてすぐにかかっていかないんだ?相手の体勢が整っていないときにぶつかっていけば相手を楽に倒せるのに」と思ったものでしたが(笑)。
他のスポーツは開始前に、合図を出す審判と、さらに相手に注意していなくてはならないわけですが、相撲の場合は自分自身に集中していればいいわけです。自分の呼吸が整うまでの間は、相手に攻撃されないということがルールで保証されているわけですから…。まあ、上手に表現できないのですけれども、相撲というのは意外とよく考えて作ってあると思いますね。
それでまたまたまとまりが付かなくなってしまったわけなんですけども、今アメリカで中東戦争に従軍した兵士のPTSDやらが問題になっていることを合わせて考えてみますと、cautiousな状態というのはもともとは動物が緊急事態に備えるときの状態であり、これを繰り返し繰り返し意図的に作り出そうとするということは生物的に見てどういうことなのかと。合図をする、それに対してリアクションをする、こういう反覆行動をとり続けていますと、ひょっとすると脳の中にそれに応じた回路を形成してしまう可能性があるんじゃないか、そんなふうに思っているんですよね(人間のストレスについてはまたの機会に…)。
もちろんこれは養老孟司先生が研究したわけじゃなくて中里介山の『大菩薩峠』に言及したわけですが、こういうところにピピッと来る感性がさすがだなあと思うのです。
哺乳類というのはだいたい眼が横に付いていますが、サルというのは眼が頭部の前方に付いています。ウサギなどとは違って、後ろの状況を察知するには不都合な構造をしているわけです。ですから周囲の状況を常に把握しておこうとすれば、必然的にキョロキョロしなくてはならないわけで、そうするとキョロキョロしないサルというのは夢想癖があると(笑)。
といっても単純にぼんやり夢想しているわけではなくて、眼はアサッテの方向を見てるけれども、どっちみち周りには別なサルたちがいるんだし、自分はいいやと…。そして常に周りにいるサルたちの「心の動き」を追っていて、何か非常事態が起きれば、周りのサルが騒ぐのですぐに分かる、こういうことなのだろうと思うのです。
で、どうしてキョロキョロしないサルが調教に向いているのかという話は置いといて、動物というのは、もちろん音がすればそっちの方に顔を向ける(あるいは耳を動かせる動物は耳を動かす)わけですが、キョロキョロするサルというのは、音がしてもしなくても、いわばその構造的必然性から、絶えず周囲の映像をスキャンする、そういう本能に従って行動していると考えられるわけです。つまり外部からの刺激ではなく、内部からの勃発的(トニック)なものに動かされている、けれども断じて自分の意思でやっているのではない…。理由は無いけれどもなんとなく後ろを見たくなる、あるいは「いま何か聞こえたような気がした」という感じなのかもしれません。
ところが集団の中にいると少しだけその緊張がやわらげられる…。サルが群れを作る理由というのは、1匹よりも多数の方が、1匹あたりの監視する範囲が狭くなるので効率がいい、「へへ~い、全然首が疲れないぞ」ということではなかろうかと思うわけであります。
だいたいサルの研究をしている人は研究予算を付ける手前、よくよく注意しないとその面白さに気付かないような研究対象ははじめから手を出さないと思います。ですからこんな一見つまらないことを大まじめに議論しようとする学者はいないかと…。けれども「猿回しのサル」はものすごく重要なことを示していると思うのです。
シママングースに見られるような高度に発達したコミュニケーション能力というのは、やっぱり哺乳類型爬虫類からプリミティブな哺乳類にかけて飛躍的に発達した声帯、耳、鼻、そして脳神経と関係があると思われます。そして哺乳類の中でもサルというのは、何かぼんやりしているというか、明らかにそれまでの哺乳類とは違う能力を獲得しているように感じられます。
キネズミのような弱い動物が猛禽類や蛇などの攻撃から身を守るためには、いち早く危険を察知して代謝モードをシフトさせなければいけません。哺乳類は動物の中でも発達した非常に敏捷な筋肉を持っているわけですが、敵の動きに即応してパッと動くためには、あらかじめ血糖値や血圧を上げておかなければなりませんし、もちろん相手のすばやい動きをとらえるためには、いつもより視力を高めておく必要があるでしょう。そのシフトの弾きがねとなる刺激なりパターンなりが、動物における「ストレス」なのでした。
人間の場合、合図に反応してパッと行動するためには特別な訓練をしなくてはいけません。軍隊がそうですし、他ではこれに似たようなものということで探してみますと、マスゲームというのが思いつきます。どこかの国が熱心にやっていますね。こういうのはみんな合図を出す人が一人いて、それをみんなが見ているという構図になっているわけですけれども、これらはみなcautiousな状態を意図的に作り出しているといえるわけです。
ところで相撲というスポーツは一種独特なスポーツだなあと思います。他のスポーツは「ピー」という笛の合図でスタートするのに対して、相撲には行事というものが存在します。もちろん行事が「ハッケヨイ」といった瞬間両力士がぶつかり合うのではなくて、あくまでも両力士の呼吸が揃ったときに開始するわけです。片方の力士の気合が乗らなくて、仕切り直し、それで「待ったなし」になるということはよくあります。それで子供の頃はよく「どうしてすぐにかかっていかないんだ?相手の体勢が整っていないときにぶつかっていけば相手を楽に倒せるのに」と思ったものでしたが(笑)。
他のスポーツは開始前に、合図を出す審判と、さらに相手に注意していなくてはならないわけですが、相撲の場合は自分自身に集中していればいいわけです。自分の呼吸が整うまでの間は、相手に攻撃されないということがルールで保証されているわけですから…。まあ、上手に表現できないのですけれども、相撲というのは意外とよく考えて作ってあると思いますね。
それでまたまたまとまりが付かなくなってしまったわけなんですけども、今アメリカで中東戦争に従軍した兵士のPTSDやらが問題になっていることを合わせて考えてみますと、cautiousな状態というのはもともとは動物が緊急事態に備えるときの状態であり、これを繰り返し繰り返し意図的に作り出そうとするということは生物的に見てどういうことなのかと。合図をする、それに対してリアクションをする、こういう反覆行動をとり続けていますと、ひょっとすると脳の中にそれに応じた回路を形成してしまう可能性があるんじゃないか、そんなふうに思っているんですよね(人間のストレスについてはまたの機会に…)。